書評: 慧門著・李素玲訳『儀軌―取り戻した宝物』
(東国大学出版部、2011年発行)

「文化財還収運動にみる亡国の悲しみと民族的自尊心」
日韓朝100年の歴史を経てなお問われる植民地支配の清算
『図書新聞』3075号、2012年8月18日

荒井信一(茨城大学名誉教授)

 2010年8月、韓国併合100年にかんする菅首相談話は、植民地支配の反省の一つとして朝鮮王室儀軌の「お渡し」を約束した。その結果結ばれた日韓図書協定により、儀軌をはじめ日本の宮内庁が所蔵していた貴重図書か韓国に返還されたのは、翌年12月であった。

 儀軌は「手本となるような先例」の意味で、500年以上つづいた朝鮮王朝の正統性を維持し、伝えるために過去の王室儀礼や主要な行事を文章や絵で記録し保存した書物である(その中には「明成皇后国葬都監儀軌」も含まれる)。文字資料と絵画資料による独特の宮廷記録であり、朝鮮王朝の宮廷文化の粋でもある。1922年5月に朝鮮総督府が宮内省(現宮内庁)に寄贈し、現在まで保管されていたが、どのような歴史的背景のなかで宮内省に渡されたのであろうか。また併合100年という日韓関係の節目の年に返還が実現したのはどのような経緯からであろうか。

 『儀軌』の著者慧門(ヘムン)は、韓国の仏教僧である。王朝実録、王室儀軌の返還運動を思い立ち、さらに中心となって日本の政府、大学が所蔵していた記録類の返還を実現させた。本書を読むと、実録、儀軌の返還が一連の運動の結果であったことがよくわかる。

 朝鮮王朝は重要な歴史書、記録類を地方の史庫に保存した。その一つ、五台山史庫(江原道)から1914年に朝鮮総督寺内正毅の命令により『実録』794冊が東京帝国大学に運び出された。寺内に要請したのは同大学教授であった白鳥庫吉(東洋史学)である。白鳥は、「寺内総督に再三交渉し、これを内地へ移すことの許諾を得た」と語り、また各地の史庫にあった『実録』のうち比較的完全に残っているのは三部で、そのうち「一部は李王職に、一部は総督府の書庫に」あるが、五台山本が最も完全なので東京帝国大学に寄付するように話したとも述べている(彙報「李朝実録について」『史学雑誌』第二五編第二号250ページ、1914年)。

 大学の命を受けた自鳥はソウルに出張し東京への輸送を監督した。しかし史庫のおかれた五台山月精寺の側から見れば、それは事前の相談なしに行われた略奪に近いものであり、値民地支配の枠組みがなければ合法的とすることは難しかった。

 東京帝大に運はれた全794冊(白鳥は787冊とする)は、関東大震災でほとんど焼失し、残り74冊のうち27冊は1932年に京城帝国大学に移管された。慧門らの返還運動の対象となった残部は、最終的には2006年7月、東京大学からソウル大学へ「寄贈」された。上述の白鳥の談話を記した文書は、東京大学の史学会の発行した学術誌から慧門がみつけたもので「実録の略奪事実を東京大学側が認めざるをえない決定的な役割を果たすこと」になった(50ページ)。

 運動を推進した実録の還収委員会は、慧門の属する奉先寺と月精寺の住職を共同議長に結成され、実録を本来の場所である五台山史庫にもどすことを目標としていた。実録のソウル大学への寄贈という結末は、仏教者たちの目標とは違うものであったが、実録の韓国への返還が実現したことがバネとなり、同じ五台山本である宮内庁所蔵の儀軌の還収運動が次の目標となった。

 実録の返還運動は、独立法人である東京大学との交渉が主要であったが、儀軌は国有財産であり、大衆の知名度も低かった。そこで儀軌還収運動では、日韓首脳会談を通じる返還が最初から計画された。運動の幅も、両国国会、メディア、市民団体への働きかけから南北仏教界の協力、ユネスコへのアッピールなど多岐にわたった。その結果、冒頭に述べたような日韓二国間協定による返還が実現した。本書は二つの還収運動についての、中心となった当事者による詳細な記録として貴重であり、文化財問題だけでなく、現在の日韓関係の打開に関心をもつ人にも読んでもらいたい。

 著者は、還収運動に深くかかわるようになった動機を問われて、1895年の明成皇后(閔妃)殺害事件をあげている。日本公使の指揮のもとに日本の軍人、警官、壮士らが王宮に乱入し、皇后を殺害、凌辱し、遺骸を焼き捨てた事件である。このlOO年以上前の悲劇と現在の還収連動とは、仏教者としての著者の中では一本の糸で結びついている。今年4月来日した著者は、還収運動の意義を「何よりも国を失った悲しみ、日本人による王妃の殺害、その国葬記録『儀軌』までも奪われた事実、各地に離散した民族の自尊心を取り戻し、南北の民族的同質性を回復することに寄与することであった」と語ったのであった。
(歴史学、茨城大学名誉教授)

慧門(ヘムン)著・李素玲(イー・ソリョン)訳
『儀軌―取り戻した朝鮮の宝物』東国大学校出版部