文化財返還問題・日韓共同シンポジウム参加記
(『考古学研究』第57巻第4号通巻228号、2011年4月)

森本和男

 2010年11月20日(土)に文化財返還を求める日韓共同シンポジウムが東京で開催され、会場となった水道橋のYMCAホールには約150人が集まった。韓国の利川(イチョン)市から市民約30人が駆けつけ、日韓の国会議員も参加してシンポジウムは盛会だった。冒頭で利川市の市長趙炳敦氏の挨拶があり、続いて朝鮮王室儀軌還収委員会の慧門(ヘモン)僧侶、利川五重石塔還収委員会の朴菖熙(パク・チャンヒ)氏、韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議の菊池英昭氏による報告があった。休憩をはさんで、来日したハンナラ党の李範観(イ・ボムグァン)氏、自由先進党の朴宣映(パク・ソンニュン)氏、日本の民主党の石毛えい子氏、共産党の笠井亮氏による日韓両国の議員で意見交換がなされた。そして最後に、解決に向けて五十嵐彰氏、李素玲(イ・ソリョン)氏、南永昌(ナム・ヨンチャン)氏による討論・提議があった。シンポジウムの後にはレセプションが開かれ、日韓市民の間で交流を深めた。

 2010年の8月10日に菅直人首相が日韓併合に関する談話を発表し、その中で韓国へ文化財の「引き渡し」を表明してから、にわかに文化財返還が日韓両国で注目されるようになった。11月に横浜で開かれたAPECに出席するため李明博大統領が来日し、14日に日韓首脳会談も設けられた。その会談で、朝鮮半島由来の図書が日本から韓国に引き渡されることが正式に合意され、両首脳の立ち会いで、前原誠司外相と金星煥(キム・ソンファン)外交通商相が引き渡しに関する日韓図書協定に署名した(1)。この協定書は日本国会での批准を求めて、16日に臨時国会に提出された。

 しかしながら国会では重要案件が目白押しで、全会一致の批准採決に向けての調整も難航した。また12月中旬に予定されていた李明博大統領の来日も延期となり、協定書の早期承認は実現しなかった。仙谷由人官房長官(当時)は、来年の通常国会で優先処理したい意向をしめした。

 こうした日韓の政府間レベルの動きに呼応するように、市民を主体とする第一回国際シンポジウムが、菅首相談話後の8月27日に韓国の利川市市庁ホールで開催された。また図書協定の国会提出後の11月20日に、二回目のシンポジウムが東京で開催された。

 近年新聞紙上などで、欧米の大博物館所蔵の外来品に対する旧植民地国からの返還要求が頻繁に報道されているが、類似した文化財問題が日本にもあることを、韓国への返還で多くの日本人が気づいただろう。

朝鮮王室儀軌と利川五重石塔
 返還で話題となっているのは、今回のシンポジウムでも取り上げられた宮内庁所蔵の朝鮮王室儀軌と、東京虎ノ門のホテル・オークラの前にある大倉集古館所蔵の利川五重石塔である。二回のシンポジウムで配布された資料などを参考にして、返還運動の概略を記述しておきたい。

 日韓図書協定で返還の対象となったのは、宮内庁書陵部所蔵の「朝鮮王室儀軌」167冊、「大典会通」巻三1冊、「増補文献備考」99冊、奎章閣から持ち出された図書938冊、合計1,205冊である。これらの書物すべてに、「朝鮮総督府寄贈」の印が押されてあるという。

 朝鮮王室儀軌とは、朝鮮王室の主要儀礼を華麗な絵図とともに詳細に記録した文書である。なかでも日本の謀略で暗殺された閔妃の葬儀を描いた明成皇后国葬都監儀軌が、新聞などで紹介された。これらの儀軌は王の閲覧用と、関連官署および地方の史庫に保管する分上用に分けられ、奎章閣と京外史庫に分散保管されていた。宮廷文書館であった奎章閣から、日本の植民地統治下に朝鮮総督府によって81部167冊が持ち出され、1922年5月に宮内庁へ寄贈された。大典会通は、1865年に王命によって編纂された王朝時代最後の法典で、今回返還されるのは巻三の1冊である。増補文献備考は、韓国の文物制度を百科事典風に分類整理したもので、正誤編を加えた全二五二巻48冊と51冊の2種類が返還されることになっている。

 利川の五重石塔とは、朝鮮半島中西部京畿道利川市にあった利川郷校付近の小高い丘に立っていたとされる双塔のうちの1基で、高さ6.48m、高麗時代初期のものと見られている。この石塔の移送に関しては、朝鮮総督府の文書が韓国国立中央博物館に残されていた。大倉集古館からの石塔譲渡の願い、総督府内部での討議、総督府から大倉集古館へ下付する文書の8件である。

 まず大倉集古館理事阪谷芳郎から朝鮮総督長谷川好道宛てに、平壌停車場前にある六角七重塔を譲り受けたいと申し出る1918年7月21日付書翰が届いた。某大学教授の意見によると、この石塔が集古館に移設した資善堂に相応しい古塔だという理由を付記していた。資善堂とは景福宮にあった李朝王室の皇太子が使用していた建物で、景福宮で物産共進会が開催される1年前の1914年に解体されて大倉邸に移された。さらに1917年に集古館へ移築されて「朝鮮館」になったという。つまり王宮にあった由緒正しい建造物に釣り合う名塔を、集古館は入手したかったのである。

 しかし総督府内部の討議によると、平壌停車場にある石塔は1908年から設置され、熟知されているので、移転は不適当である。年代および製作でこれに相当するものは朝鮮で保存する必要がある。しかし施政五年記念共進会の際に利川郡邑内面から移転し、現在博物館本館前にある石塔は、廃寺跡にあったもので歴史上の考証に値しない。形状も佳良と称するほどでなく、博物館で保存するほどの価値はないとした上で、目的物を変更させて、その塔の譲渡を許可することにした。

 討議の結果と石塔の写真が総督府から伝えられると、改めて大倉集古館側から、博物館にある石塔の下付願いが10月に出された。これを受けて、総督府は11月13日に石塔下付の事務処理を行なったのである。石塔は売買で購入されたのではなく、植民地政府からの下付だった。

市民を主体とする返還運動
 さて、周知のように南朝鮮における日本植民地時代の文化財問題は、1965年に締結された文化財および文化協力に関する日韓両政府の協定で解決ずみとされている。したがって今回の返還は韓国の行政府による発議ではなく、市民の間から返還の声が高まって国会議員が動き、政府間の返還交渉へと進展した。国家の外交課題というよりも、むしろ市民運動の成果だった。

 朝鮮王室儀軌の返還要求は、一人の僧侶である慧門氏を中心とする市民運動として出発した。2004年に来日した彼は、東京大学に「朝鮮王朝実録」が所蔵されていることを知り、還収委員会を組織して返還運動を開始した。2006年に王朝実録が東京大学からソウル大学に返還されると、次に朝鮮王室儀軌の還収委員会が組織された。仏教界、日韓の国会議員、ユネスコなどへの働きかけが功を奏し、2006年12月に韓国国会の返還促進決議、2007年6月にユネスコ世界記録遺産に登録、2008年8月に南北返還推進共同合意書作成、2010年2月に韓国国会で再度の返還促進決議がなされた。こうした韓国側の動きに対応して、日本の国会議員および政府への陳情が繰り返された。

 利川石塔の返還では、地元で広範な市民運動が形成された。まず2003年12月に利川文化院発行の『雪峰文化』誌に五重石塔の収奪経緯が紹介された。2006年5月に石塔がテレビで放映され、2007年10月には石塔返還のための第一回市民討論会が開かれた。2008年8月には22団体が参加して汎市民運動推進委員会が創立された。2009年8月から翌年5月まで署名運動が実施され、約10万筆の署名が集まった。利川市の人口が約20万人というから、その半数に匹敵するほどの署名が集まったことになる。現在、汎市民運動推進委員会には、利川文化院、利川YMCA、地域元老会議、女性団体協議会、在郷軍人会、大韓赤十字社利川地区協議会、利川市教員総連合会、利川市仏教連合会、韓国小企業小商売人連合会利川市支会、利川市庁、利川市議会、利川市公務員労働組合など、教育・宗教・経営・労働の各界さまざまな団体が33も結集して、全市あげての返還組織となっている。

 WAC(the World Archaeological Congress)が1980年代中頃に結成されてから、過去は誰のものか(Who owns the past?)という議論が世界的に活発となり、植民地主義や国家主義が見直されて、人々を主体とする歴史文化的価値の形成・文化財保存が大きな潮流となった。そして、その流れにそうかのようにして、韓国でも市民を主体とする返還運動が活発となり、日韓両政府を動かして文化財返還が進められているのである。

記憶されなかった文化財の略奪
 概して日本では文化財略奪が知られていない。しかし実際には、特にアジア太平洋戦争の時に頻々として略奪と破壊が起きていた。北京協和医学院から北京原人調査資料を、軍の許可を得て東京帝国大学の長谷部言人と高井冬二が持ち出した。インドネシアのバンドンからは、ソロ人頭骨を地理学者の田中館秀三と第三飛行団長遠藤三郎陸軍少将が持ち出し、侍従武官坪島文雄陸軍中将が飛行機で東京に運んだ。ソロ人頭骨は、敗戦後皇居の生物学御研究所で見つかった。同じく皇居で、クアラルンプールのスランゴール博物館にあった蝶の標本20箱と定期刊行物が見つかり、定期刊行物は天皇への贈品として、南方軍総司令官寺内寿一陸軍大将の命令で持ち出されたものであった(2)。明らかに軍が組織的に関与した文化財略奪だった。

 こうした略奪の実態が発覚して広く世間に知れ渡ると、軍の関与した国家犯罪、さらには天皇の戦争責任追及へと疑惑が展開するのを、GHQや日本政府は恐れたのかもしれない。文化財の略奪と破壊は、まるで何事も無かったかのように、日本人の脳裏に残らなかった。

 けれども侵略された側の国々では、今でも文化財略奪および破壊を鮮明に記憶していて、詳細な損失リストを作成して、日本の責任追及の姿勢を崩していない。2009年1月の韓国文化財庁の集計によると、国外にある文化財は約20ヶ国に7万6,143点あり、そのうち日本に3万4,369点、アメリカに1万8,635点、イギリスに6,610点あるとされた(3)。2010年1月20日に韓国の国立文化財研究所は、海外へ流出した文化財を10万7,857点、そのうち日本に6万1,409点あると発表した。中国では、南京医科大学の孟国祥教授が日本の中国侵略で被った文化財被害を、膨大な資料にもとづき、極めて克明に詳述している(4)。

 日本と周辺諸国との間で、文化財について歴史認識にズレがあるというよりも、単に日本人が歴史事実を直視してこなかったのではなかろうか。東アジアで政治経済的関係が深まるなか、未来へ向けた良好な文化交流を築くためにも、歴史事実を共有する必要性を感じざるをえない。




(1) 外務省 2010 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/korea/visit/1011_ks.html
(2) 森本和男 2010『文化財の社会史』彩流社,692, 700-1, 705頁
(3) 高麗博物館 2009『失われた朝鮮文化遺産』2頁
(4) 孟国祥 2005『大劫難』中国社会科学出版社,孟国祥 2007『南京文化的劫難』南京出版社,孟国祥編 2010『抗戦時期的中国文化損失』中共党史出版社