2014.7.25東京高裁「判決文」の内容考察     2014年8月5日
李 洋秀(イー・ヤンス) 日韓会談文書/全面公開を求める会 事務局次長 

目次
1、突如開示された「河合文庫中官府記録」
2、外務省の控訴を盲目的に受け入れた高裁判決
 文化財関係
 請求権問題
 竹島問題
 その他:北方領土問題、北朝鮮との関係、在日の法的地位問題、
      交渉相手に対する悪口や制裁・機密、天皇との猥談
3、例外的に開示された2文書の3ヶ所
4、インカメラ無視、30年公開原則否定

文中、赤い字は、編者の注目するところ。

1、最終尋問から2週間も経たず、突然隠していた文書を開示することで、控訴審の対象から消え去った、通し番号1-13文書「河合文庫中官府記録」

 2012年10月11日東京地裁703号法廷は「平成20年(行ウ)第599号 文書一部不開示決定処分取消等請求事件」に対し、「348(当初は369)の文書について外務大臣の不開示決定を取り消して開示を命じ」る、歴史的な原告側の勝訴判決(裁判長川神裕) を言渡した。
 これに対して外務省は「これなら勝てるだろう」という文書だけを抜粋し、2013年2月1日東京高裁第8民事部C係に一部不服申立て控訴をした。その「控訴理由書」82~83頁では、自信満々と「通し番号1-13」の文書を解説する。

第1 不開示理由1 (情報公開法5条3号関係)について
 1 通し番号1-13について
  (1) 原判決の判示内容

     通し番号1-13の文書は、外務省アジア局北東アジア課が作成した「河合文庫中官府記録目録」と題する文書であり、同文書に記録されている情報は、韓国において収集され、京都大学附属図書館に保管されている韓国古書


籍の「書名」、「数量」であると推認できる(原判決別紙5・281、282頁)。・・・

  (2) 不開示部分の情報内容
    通し番号1-13の文書に記録されている情報の内容は、おおむね原判決が認定しているとおりであるが、より正確に言うと、韓国側が、京都大学附属図書館の河合文庫(文学博士河合弘民氏が朝鮮史の研究に資するために収集した朝鮮文書類。乙A第499号証13,14ページ)の中に所蔵されていると主張し、我が国に引渡しを求めていたものの目録である。


  2013年4月26日、外務省アジア大洋州局北東アジア課の小野啓一課長が提出した「陳述書」(乙A第527号証)の12~13頁で、当時完全不開示中で発行日も何頁あるのかすら不明だった。

通し番号1-13の文書(編者注=文書番号385「河合文庫中官府記録」)には、元々記載されていた韓国古書籍の書名等に加え、韓国側の主張の当否に関する各書籍に係る日本側による調査結果が手書きで記載されています。・・・調査した結果が開示された場合、日本が韓国への引渡しに応じるか否かの検討についてどのような事項についていかなる調査をし、その結果がどのようなものであったか等をうかがい知ることが可能となり、北朝鮮や韓国が当該情報を国交正常化交渉や再度の返還請求に当たり我が国に対して返還を予測するために利用したりするなどして、我が国が交渉上不利益を被るおそれが生じることが十分予想される。


と記した。

 また2014年3月13日に東京高裁809号法廷にて行われた第3回口頭弁論においても、控訴人である外務省北東アジア課の小野啓一課長は証人尋問で下のように主張し続けた。
「尋問調書」の9頁

基本的な考えは陳述書において説明させていただきました。これに加えまして、若干補足的に申しあげさせていただければ、文化財と言いますのは、基本的には、このケースであれば日韓会談当時であれ、今であれ、基本的な文化財の価値というのは、まあ、大きく変わらない。多少の変動はあるかもしれませんが、大きく変わらないと考えます。そういう意味では、当時の資料、評価であっても、これは、現在の、あるいはこれからのいろいろなやり取りにそのまま影響するものであるというふうに考えます。


 当初から原告側の勝訴が確定し、一部のみ控訴して来た外務省だが、開示命令の判決に基づき、次から次へと五月雨式に文書を開示して来た。

 2013年3月には二度に分けて365の文書を開示したし、中には今までガードの堅かった文化財関係や韓国側の請求に対する外務省、大蔵省の試算額も含まれていた。しかし控訴審の目玉のような「通し番号1-13」は、当然その中には含まれてなく、7月25日の判決に委ねられるものと誰もが思っていた。

    ところが2014年3月24日付で開示した12のファイルの中に、何と文書番号385「河合文庫中官府記録」つまり「通し番号1-13」が含まれているのを見て、わが目を疑った。左がこれまで頑なに外務省が開示を拒み続け、控訴審の一番に掲げた実物そのものである。
    最後の頁に書かれた内容も重要そうなので、左に示す。「陳述書」で解説された「日本側による調査結果が手書き」で書かれているが、手書きで読みにくいので、重複してもここに記す。「□官府記録と思われるもの。但し、全部が江華島にあったものでは絶対ない」と、些か感情剥き出しの文が書き殴ってある。後は「△は他にもあると思われる。」程度。
   通し番号1-13 (文書番号385)
「河合文庫中官府記録」の1頁と9頁
 


 しかし、ここまで自信満々で押し出して来た「通し番号1-13」を、なぜ外務省が突如一変して撤回してしたのか、その理由は外務省に聞かなければ解からない。イヤ、聞けば聞くほど余計教えてくれないだろうが、証人尋問でこちら側の張界満弁護士が証人を問い詰めて、最後には返事もできないほどの境地に追い込んだのは、偉大なる成果ではなかろうか?
上記「尋問調書」の53~54頁

被控訴人(附帯控訴人)ら代理人(張) 日本の文書の中で、この河合文庫中官府記録目録と照合したことがあるかどうかというのを証人の記憶で述べてください。
証人(小野) ええ、それを正に申し上げようと思ったんですが。
代理人(張) したかしないかを、イエス・ノーで答えてください。
裁判長 大変申し訳ないんですが、代理人も持ち時間が残り少ないので、結論をまずおっしゃってください。
証人(小野) 記憶しておりません。


 問題はそう複雑ではない。京都大学まで出かけて行って、「河合文庫目録」まで入手しているわれわれと、役所の中で書類だけ見ながら隠蔽作業をしている外務省との差異。また文化財の専門家の考察や検証もなしに、開示・不開示を弄ぶだけの役所仕事

 それをただ追認することだけに余念のなかった2次訴訟(「平成20年(行ウ)第231号行政文書一部不開示決定処分取消等請求事件」2007年11月10日の3次開示のうち、墨塗りと不開示の13の文書の開示を求めた訴訟、2008年4月23日東京地裁に提訴、2009年12月16日地裁で敗訴、2010年6月23日東京高裁控訴棄却、2011年5月10日最高裁判所の上告不受理決定で1審判決確定)の裁判官たち。


2、外務省の一部控訴47件を、すべて盲目的に受け入れた高裁の不当判決

 基本的には地裁判決が確定し、その後多くの文書を開示して来たことは、既に上で記した。
しかしそれでもここだけは公開したくないと、ほとんど命がけで守ろうとしているような47の文書に対して外務省が一部控訴をして来た。そして、そのすべてがほとんど何の検証もなく、そのまま受け入れられた。

 本来、外務省の管理監督責任下にあるべき筈もない、国公立の博物館や大学の図書館、私立の文庫等で保管している韓国・朝鮮関係由来の文化財や図書・典籍等の目録が最も多い。

 次いで植民地時代から第2次大戦末までの間の軍人・軍属や徴用工等の未払い賃金や寄託金、郵便貯金の金額や恩給支給額等の数字を隠している。その中で、今まで決して明らかにして来なかった1962年1月当時、韓国側の対日請求額に対して日本政府内部で検討した金額、大蔵省と外務省の全体的な試算額は開示された。

 しかし個別な理由や詳細は、未だ墨塗りのままである。このお金は一体誰のものか?徴用や強制連行で海外の炭鉱や戦地に動員して置きながら、賃金もまともに払わず、死亡通告もせずに放置したまま、その金額まで隠蔽するのが「日本の国益」なのだろうか?

 いやしくも「開示した」と公言しておきながら、その文書を全部墨で塗りたくり、まったく見えない状態にしている国が、果たして地球上にひとつでも存在するだろうか?こういうのは「不開示」と呼ぶのであり、「開示した」等と言えないことは世界の常識である。日本政府は情報公開という側面からも、非常に恥ずかしい遅れた体制を取っていることを知るべきである。

 外務省が隠し続ける主要三本柱は、上の「文化財目録と入手経緯、請求権金額と根拠、竹島問題」に代表される。下に今回、争点になった文書一覧を紹介する。

文化財関係
1-60(386)「宮内庁書陵部所蔵の書籍に関する件」
 1960.9.20北東アジア課の文書1頁には、「宮内庁書陵部所蔵の書籍(註、1及び2)には、皇室費で購入したものと、一般行政費で購入したものとの2種類があるが、・・・3頁(註1) 宮内庁書陵部には朝鮮本74冊が所蔵されている。これら朝鮮本は徳川文庫楓山文庫、旧多紀家、旧徳山毛利家のものを継承したもので、その渡来の時期はすべて日韓併合前とされている。(註2) 宮内庁で所蔵している朝鮮本は上記書陵部のもののほかに内閣文庫(現在は国立国会図書館支部内閣文庫となっている=編者註、文書379の2~26頁に目録あり) 所蔵の約190冊がある。これらの書籍は紅葉山文庫、昌平坂学問所の所蔵本のほか、明治20年代に民間から購入又は献納を受けたもので、渡来の時期はすべて明治23年(1990)以前である。」という解説がある。

 4頁「針谷参事官の宮内庁書陵部往訪の件1964.3.11北東アジア課股野記」には、「冒頭、宮内庁側より別添2.の曽根本及び統監本の目録が手交され、同目録には曽根本152部762冊、統監府本11部90冊、合計663部852冊がある旨説明があった。」とある。

 所蔵した経緯についても6頁に「曽根本は明治43年(1910)東宮職に献上された。当時曽根氏は統監を辞した後であるので、同図書は曽根個人として献上されたものであると思われる。統監府本は伊藤公が日本に持参されたものを伊藤公の死後、皇室側と統監府(北東アジア課註。当時は総督府になっていた)との間の話合いで明治44年(1911)に皇室に献上されたものである。」とある。

 曽根荒助献上本と統監府蔵書の目録は12~21頁に収められているので、最初の頁だけ下に複写した。11頁に簡単な手書きのメモがある。

「昭和38年(1963)3月11日宮内庁より受領、昭和38年4月3日日韓予備交渉文化財関係第六回会合において韓国側に手交、4月11日よりくわしいリストを韓国側に手交、原本当日の会議記録あり」

   
12頁 21頁


   27頁 末松、田川博士等の数字が墨塗り。
左に複写 


2-27(386)「宮内庁書陵部所蔵の書籍」1960.9.20-1964.3.11
 22頁下~23頁上「宮内庁図書の韓国への寄贈に関する件打合せ」1964.3.11北東アジア課「西原書陵部長の発言が墨塗り」。
 しかし同日の会議内容「針谷参事官の宮内庁書陵部往訪の件1964.3.11北東アジア課股野記」の要点があり、9頁に西原部長の発言として「これらの図書は皇室として無ければならないというものではないが、学界としては貴重なものも多く含んでいるので、出来るだけ多く残しておきたい、」・・・「もし政治的配慮で一部を出すことに決まったらマイクロフィルムをとること」と続くことから、それほど大事なものではないという評価が書かれていることが推測できる。

 25頁「文化財(図書関係)調査報告」1959.3.19北東アジア課「宮内庁にある統監本。曽根本について末松、田川博士の調査結果の報告」下4行と次頁以下2頁不開示

1-61(387)「 宮内庁書陵部所蔵目録」目録。原本の日付は1963.4.11
 統監府蔵書11部90冊と曽根荒助献上本(43.12.3)152部762冊(部数は前記、文書番号386と合致)に対する「評価」が全頁墨塗り。田川○、末松△、伊地知□、宮内庁準貴本⦿。
全20頁ある。

2頁「統監府蔵書」の初め 4頁「曽根荒下助献上本」


1-62(390)「郵便文化財の回収問題」1958.2.15-1965.5.20
 25、26、28、30、33、35頁「逓信文化財の帰属等に関する事項」。

国側の言い分-  昭和40年頃、韓国から返還の請求を受けていた「逓信文化財について、外務省がそれを返還するとした場合、その受領権限が韓国又は北朝鮮のいずれに帰属するのかを検討した内容等」が記載。
原告側の主張-  既に開示されている情報には、文化財の帰属先として地名の記載があるから、それらの記載からでも、その受領権限が韓国又は北朝鮮のいずれに帰属するのかを検討した内容は推測できる。


1-63(458) 「文化財会合記録(引渡し品目)」1965.6.18
 5頁「韓国側より、墓誌を全部ほしい旨述べたのに対し、」に続く日本側の答弁

1-74(567)「韓国文化財の提供について」1953.10.23
 12~21頁別紙一「東京国立博物館所蔵韓国関係文化財一覧」1957.2.28文化財保護委員会  (一)歴史部、(二)美術部、(三)美術工芸部、(四)美術品部の「受理年月日、受理区分、備考」が墨塗り。別紙二「東京国立博物館保管の朝鮮古墳出土美術品のリスト」1958.2.6、22頁全部墨塗りと次頁以下3頁不開示。

1-75(570)「韓国文化財に関する件」1960.4.6-21
 「国有の朝鮮関係文化財の現状について」1959.1.16菅沼(北東アジア課長)記の16頁が墨塗り。「文化財を引き渡すに当っての問題点と必要となる措置等に係る情報・・・弱点とも捉えられかねない機微にわたる問題点の検討内容等」

1-80(583)「文化財保護委員会本間氏との会見報告」1952.2.18
  25頁1952.8.21市立米澤図書館岡博館長の「韓国書籍の調査報告」「次頁不開示」
  文書番号380「韓国国宝古書籍目録(第二次分)1953.10.15韓国側より受領」の156~157頁では目録を開示。下にその複写を紹介。

 27頁1952.8.21国立国会図書館阪谷俊作一般考査部長「韓国書籍の調査」1行墨塗り。目録はすべて「次頁以下11頁不開示

 しかし日本の国会議員からの問い合わせに対して、国立国会図書館は2012年4月付で資料を提供して来た。

 上の資料の4~33頁に1975年「国立国会図書館所蔵朝鮮関係資料目録・4.朝鮮本篇」が添付されているので、4頁の表紙と5頁の目次、6頁の「経部」を下に複写する。

 なお1頁の回答文にもあるが、「朝鮮関係資料目録」から漏れているもののリストも丁寧に2、3頁に添付して来たので、下に紹介する。

 28頁1952.8.23名古屋市蓬左文庫織茂三郎主事の文部省大学学術局情報室宛の報告「次頁以下11頁不開示」、目録と思われる。
 ただ次の29~30頁に「2、学術的価値の概要、3、入手経路、4、韓国より日本に到来した経路」に関する解説は開示されている。

 文書番号379「韓国国宝古書籍目録日本各文庫所蔵」74~87頁では「原(旧)蔵者および入手経路」を除き、目録が開示されている。
右に379の74頁だけ複写


1-81(584)「韓国関係文化財調査に関する打合」1953.5.20-7.4

 15頁別添リスト(2)「京都大学文学部陳列館所蔵韓国出土遺物」のうち先史時代の「品名、数量、出土地、受入年、入手経路、購入時代価」がすべて墨塗り。「次頁以下4頁不開示」
 左の複写参照。今年2014年3月26日付で「公開」された内容が、この惨憺たる姿。

 16頁「名古屋市蓬左文庫所蔵韓国図書に関する調査報告」次頁以下10頁不開示。上の379、583とは異なり、目録すらも不開示 ! ! ? ?

 31、32頁「静嘉堂文庫」の墨塗り二ヵ所は、「岩崎彌之助の17回忌に当たり、大正13年(1924) 小彌太が文庫を建て図書を収蔵した。」と静嘉堂文庫美術館のホームページで公開されているところから、墨塗りの中身は「岩崎小彌太」であり、外務省が隠ぺいすべき対象でないことは明らか。

1-82(586)「成簣堂文庫について」1963.6.5
 「成簣堂文庫について」2、26頁の墨塗りは「徳主婦之友部長石川武美氏」であると、29頁の記載から証明される。また3頁にも財団法人「文化事業協会」(理事長石川武美氏) と実名が露出しており、外務省の墨塗りの無駄さ加減が証明される。

 成簣堂文庫に関しては1992年、川瀬一馬編著により『お茶の水図書館所蔵 新修正成簣堂文庫善本書目』が発行されており、「第五編朝鮮本」は1127~1193頁を占める。
 70頁の目次と1175頁の「千字文」を、それぞれ下の右左に複写する。

     
 「尊経閣蔵書について」1953.6.10アジア二課
 6頁の下「次頁以下10頁不開示」。文書番号379「韓国国宝古書籍目録日本各文庫所蔵」88~106頁には目録が開示されているのだが。379の88頁だけ右に複写


1-84(588)「東京国立博物館所蔵韓国所出品」
 2~30頁 (一)歴史部、(二)美術部、(三)美術工芸部、(四)美術品部の「発見場所、受理年月日、受理区分、納入者、備考」が墨塗り。上記1-74(567)とほぼ同一。
 1頁に「美術品部の記載事項中、『受理区分』を『購入』としたのは、これらの発掘調査費が、旧帝室博物館により支出されたものであるため、一応『購入』としたものである。」とあるのが注目される。「一応『購入』とした」の意味は、「『購入』などしてなく、発掘した、つまり盗掘した」の意か?
 2頁だけ複写するが、最初の「斧頭」のみ「受理年月日、受理区分、納入者」の墨塗りをし忘れて、「昭六、二、七」「寄贈」「江波芳太郎」とそれぞれ露出しているのが、外務省の墨塗りの杜撰さの表れ。「漆耳杯」の欄外に、「北鮮」とあるのも注目される。


1-85(589)「韓国関係重要文化財一覧」
 1~8頁および8頁に「次頁不開示」とあり、「指定年月日、品目、員数、所有者、備考」がすべて墨塗りだが、判決文に「外務省が重要文化財を調査し、そのうち、日本国内に所在する朝鮮半島由来のものであることを確認した・・・情報である。」とあることから、「重要文化財に指定された朝鮮半島由来のものである」と確認できる。
 2頁の欄外に「発見、利川郡、前庵、五層」とあることから、重要文化財に指定されている大倉集古館裏庭にある五重石塔のことか? すべて墨塗りなので複写は省略。

1-86(591)「韓国文化財の現状等に関する調書」1962.12.24
 「1、朝鮮総督府により搬出されたもの」のうち、(1)慶南梁山夫婦塚出土品、(2)慶州路西里215番地古墳出土品、(3) 慶州皇吾里第16号古墳出土品に続く、3頁後半と次頁以下2頁不開示。
 判決文61頁に「出土した品について南北鮮の別、国有民有の別、現在の所蔵場所、所蔵に至った由来等の現状に係る情報」とある。「現在の所蔵場所、所蔵に至った由来」を隠さなければならないのは「不当に取得したり強奪、盗掘した証拠」と自ら認めている?

 10頁、東京国立博物館にある「(イ)楽浪遺跡7点10件、(ロ)公州、扶余12点17件・・・(ニ)南北鮮区分の明らかでないもの3点4件」の間、(ハ)に該当する部分が墨塗り。
 同じく10頁、京都大学には「1、朝鮮総督府により搬出されたもの」、「3、日本国有・・・」の他に、(イ)~(ロ) が墨塗り。

 14頁に大倉集古館の「八角五重石塔(重要美術品)平南大同郡栗里」「五重石塔(重要美術品)利川」の記述に墨塗りあり、余程日本側に不利な内容か?

 17頁「国有の朝鮮関係文化財の現状について1959.1.16菅沼」欄外に「次頁不開示」

1-87(592)「東洋文庫田川博士との懇談記録」1963.3.18
 宮内庁図書「宮内庁図書尞の蔵書目録は印刷されたものがあるが、現在頒布禁止になり外部では全く見られない。」の後、6~7頁墨塗りで内容は解らない。だが文書番号379の27~35頁には目録がある。右に複写。田川なる人物の嘘つきたる面目躍如か ! ?

 7頁には他に記述のない2010年に返還された「儀軌」に対する言及がある。
 「浅見倫太郎博士が宮内省の依頼を受けて皇室の儀式の参考にするため、景福宮にあった多種の儀軌(儀式の記録)の写本(編者=本当に写本か?)を行ったことがあるが、この儀軌は曽根本とは別に宮内庁に保存されている筈である。」
 


1-88(595)「文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定付属書説明」
 1965.9.20「文化財保護委員会事務局松下監鑑査官の談」2~3頁が墨塗り。「台帳の誤り」に続く。

2-32(1116)「寺内文庫現状」1963.5.24-1965.8.17
 48と76頁の墨塗り。判決文99頁によれば「寺内が取得した経緯に対する田川の見解」
 (編者註、78頁の文化財保護委員会松下課長の本音が面白い。「私はあの書(編者註=寺内文庫のこと)全部を渡したらよいと思う。日本文化の損失にならないものを多く渡して、博物館にある貴重な文化財をできるだけ救いたい」=「救いたい」という表現が表しているが、被害妄想の固まりで、略奪者という視点は完全に消えている)

1-103(1118)「韓国美術品の寄贈」1958.1.9-1965.11.22
 4頁 1958.4に贈与された「昌寧校洞出土リスト」から「台帳価格、時価」が墨塗り。
 (編者註、以前はこのリストすら墨塗りだった。)


請求権問題
1-69(506)「日韓国交正常化交渉の記録.総説八」179~86頁
 大蔵省・外務省試算額(1962.11962.1大蔵省理財局・外務省アジア局)がすべて墨塗り


1-97(718)「日韓政治折衝に臨む日本側の基本方針」1962.3.7
 11頁 欄外の「次頁以下2頁不開示」。内容は判決文69頁によれば、1-69(506)と同じ。
 15頁 1948年国連決議国名の欄外に「次頁以下10頁不開示」。内容は不明。

1-227(1779)「対韓焦付債権の処理方法」1962.12.15
 3頁「焦付債権の処理説明」下部の墨塗りと次頁以下3頁不開示。
 4頁「延滞利子」に関して墨塗りと次頁不開示。

2-10(1046)「日韓会談再開に関する第一回省内打合会議事要録」1953.1.23
 6頁 田中情報文化局長の発言。請求権の「相互放棄」について。判決文には言及なし。
 10頁広田課長の発言が墨塗り。判決文69頁によれば「米国政府の対応状況」
 18頁田中の発言が墨塗り。「事務局間で基本方針を決めることはむつかしい」の後
 25頁「国籍処遇」の後が墨塗り。

2-19(1298)「請求権についての法律問題」判決文によると時期は1952年頃
 2頁の墨塗りと次頁以下6頁不開示。「請求権の範囲」、判決の対象外。
 45~46頁の墨塗り。内容は判決文86頁によれば「日本国民の海外財産請求権」、同87~89頁には最近の韓国の判決に対しても言及あり。

2-20(1302)「在韓私有財産権放棄と国内補償問題」
 3頁 「日本人の在朝財産問題」判決文91頁に「韓国との交渉上不利益」。2-19(1298)のイを引用、最近の韓国の判決に対して言及。

2-61(1600)「請求権の経緯及び解決方針(昭和34年1-4月)」
 15~16頁「ポルトガルの対日クレーム・・・ポルトガルは第二次大戦中中立国であったが」の後、墨塗り。判決文116頁によれば「ポルトガルとの損害賠償請求権問題」

竹島問題
 2次訴訟の判決文95頁では「本件文書13(編者注=文書番号137「竹島問題に関する文献資料、頁数、作成年月日等不明」は、外務省アジア局北東アジア課(当時)に設置された日韓国交正常化交渉史編纂委員会が作成した資料であり、竹島問題に関する各文献資料の標題の記載に続き、それぞれに記録された内容について概略を説明したものが記録されている約40頁(編者注=こんなことすらわれわれが提訴するまでは調べる由がなかった)の「竹島問題に関する文献資料が記載された部分」・・・本件文件資料と時系列の2個の情報によって構成されている・・・約90の文献資料中、外務省が作成した内部資料は約6割を占めている。他方、時系列は、日本政府が韓国政府との関係で竹島問題を採り上げることとなった原因事実を把握するに至った端緒を含め、竹島問題をめぐる日韓政府間のやり取りについての事実関係が時系列で記録されたものである)という細かい説明の後、同97頁で「文件資料のリスト及びその概要が、一方的に交渉相手国である韓国政府に知られ得る状態になることは、我が国の交渉上の地位を一方的に不利益にするものであるし、・・・情報公開法により部分開示する義務はないし、全部不開示が相当であるともいえる。」と結論づけた。

3-12(652)「日韓予備交渉第21回会合」1962.12.26
 7頁が墨塗り。
 「日韓予備交渉第21回会合」1963.1.11 28~29頁が墨塗り

3-15(720)「日韓政治折衝第2回会談記録」1962.3.14
 「非公式発言」16頁墨塗りと次頁以下9頁不開示。非公式発言」26頁墨塗りと次頁以下5頁不開示。

3-16(910)「日韓国交正常化交渉の記録(竹島問題)」
 200~201頁が墨塗り。202~203頁墨塗りと202頁の「次頁以下2頁不開示」。215、216頁墨塗りと次頁不開示。238頁墨塗りと次頁不開示。

4-7(910)「日韓国交正常化交渉の記録(竹島問題)」1953.6.9 「竹島問題対策要綱(案)」
 11頁が墨塗り 判決文170頁によれば、「警察、海上保安庁、入管等の対応」

3-21(1399)「アジア局主要懸案処理日報抜粋」
 111、112頁の墨塗り。

3-24(1523)「日韓交渉に関する関係各省次官会議議事要旨」1957.9.6
 8頁 外務省大野次官の発言が墨塗り。判決文145頁によれば、「ソ連への対処方針」

3-27(1675)「日韓会談再開問題」
 1954.10.1井口大使発岡崎大臣宛電報106頁が墨塗り。
 1954.11.15沢田大使発岡崎大臣宛電報107~108頁が墨塗り。
 1954.11.16沢田大使発岡崎大臣宛電報109、110頁が墨塗り。
 1954.11.17井口大使発岡崎大臣宛電報115頁が墨塗り。
 1954.9.24井口大使発岡崎大臣宛電報147頁が墨塗り。
 1954.10.6緒方大臣発井口大使宛電報149頁が墨塗り。
 1954.11.2岡崎大臣発井口大使宛電報157頁の墨塗りと次頁以下7頁不開示。
 1954.11.2岡崎大臣発澤田大使宛電報158頁の墨塗りと次頁不開示。
 1954.11.19岡崎大臣発澤田大使宛電報159頁の墨塗りと次頁不開示。
 1954.10.18井口大使発緒方大臣宛電報201頁の墨塗りと次頁以下4頁不開示。
 1954.11.11澤田大使発緒方大臣宛電報202頁の墨塗りと次頁以下3頁不開示。
 「日韓問題に関する対米折衝の経緯」210頁の墨塗り

3-30(1695)「日韓会談に関する在韓米大使館参事官の内話」
 1965.5.4ソウル前田調査官発外務大臣宛電報19頁の墨塗りと次頁不開示。
 1965.5.11ソウル前田調査官発外務大臣宛電報20~21頁の墨塗り。判決文163頁によれば、「日本の竹島問題対応方針と米国側の意見」

3-34(1786)「韓国側希望と日本側方針 (昭和39年10-12月)」
 「日韓首脳間の会談において明らかにすべき日本側の立場(試案)」1964.12.21
 59、71頁の墨塗り。

3-43(1876)「日韓会談等に関する在外公館からの報告」
 1954.10.13パリ西村大使発岡崎大臣宛の電報4~5頁の墨塗り。判決文168頁によれば、「南シナ海での領土問題のフランス側の処理状況と方針」

その他
北方領土問題
2-55(1472)「日韓問題に関するニューヨーク・タイムズ論説」1956.3.12
 ワシントン谷大使発重光外相宛の電信、18頁が墨塗り。判決文113頁によれば、「小笠原帰島と北方領土」

2-96(1805)「大平大臣、ラスク長官会談」1962.9.24
 15~16、18頁の墨塗り。判決文124~125頁によれば、「ソ連が北海道を占領したい意向」

北朝鮮との関係
1-165(1567)「平和条約第4条」1952.2.6-7
 「第二条による分離地域に係る請求権の処理方法」22頁最後の4行が墨塗り
 内容は判決文73頁から「北朝鮮政府を法律上の政府として承認する必要」について

1-245(1851)「韓国提案基本関係条約案」1964.12.10-1965.1.26
 20頁欄外の手書きが墨塗り。判決文78頁によれば、「海底電線の北朝鮮部分」

在日の法的地位問題
2-11(1052)「日韓交渉に関する第一回各省打合会次第」1953.4.20
 19頁 鈴木入管局長の発言「治安当局の一致した意見」が墨塗り。判決文84頁によれば、「在日韓国人の国籍問題」
 20~21頁 下田条約局長の発言が墨塗り。判決文84頁によれば、「韓国国民一般に対する否定的評価」
 40~41頁 鈴木入管局長の発言「収監者、在日の犯罪率、生活扶助」の後が墨塗り。

2-89(1787)「日韓会談今後の進め方 」1965.1.5-4.7
 2頁「佐藤総理の指示」が墨塗り。判決文122頁によれば、「在日に対する佐藤の差別的表現」

交渉相手に対する悪口や制裁・機密
2-30(718)「日韓政治折衝に臨む日本側の基本方針」1962.3.7
 1962.3.14「日韓政治折衝の今後の進め方に関する打合せ会議概要」30~31頁が墨塗り。
 伊関局長の「数字を出すのは池田・金会談で約束したこと」と続く。
 判決文96頁によれば、「小坂外相の韓国側に対する否定的評価
 
2-36(1139)「対韓国強硬措置に関する会議関係の件」1960.2.4-3.3
 13、45、54、58~59頁「在日代表部設置問題」が墨塗り。
 具体的には「職員の総引揚げ要求、職員の再入国不許可等」2-38(1144)2頁から

2-37(1143)「日韓会談が不調に終わった場合に取るべき措置(試案)の大要」1960.3.2
 2、11頁「在日代表部設置問題」が墨塗り。2-36(1139)と同一か。

2-38(1144)「対韓国牽制措置および強硬措置として想定しうる手段(試案)」1962.5.31
 8頁「在日代表部設置問題」が墨塗り。上と同一か。

2-49(1399)「アジア局主要懸案処理日報抜粋」1960.3.10
 「日韓会談が不調に終わった場合に取るべき措置(試案)の大要」
 238頁「在日代表部設置問題」が墨塗り。上と同一か。

2-66(1618)「日韓問題に関する各種会談」1959.11.19と10.28
 179、265頁の墨塗り。判決文119~120頁によれば、「南鮮帰還者の補償金問題と米国の介入」

天皇との猥談
8-1(741) 「李東元外務部長官が拝謁を賜った際の状況概要」1965.3.26
 1頁の墨塗りと次頁以下9頁不開示。

8-2(1128) 「日韓国交正常化交渉の記録 (請求権・法的地位・漁船問題合意事項イニシャアル)」19653.26
 133~134頁の墨塗りとその間の「次頁不開示」。


3、こちら側の附帯控訴67件のうち、わずか2つの文書だけが例外的に認められ、3ヵ所の開示を命じた部分の複写。

 こんなものを開示したところで、誰にも何の影響も及ぼさない下らないものだが、こちら側で上告を予定していない以上、暇な外務省はこの部分すら不服として上告するのだろうか?

1-129(1348) 1961.2.11「韓国請求権検討参考資料」
 8頁「1908年~1944年の韓国における郵便貯金より生じた定期収入で日本大蔵省に移越した分」を試算した金額
 
 9頁「終戦時における朝鮮郵便貯金現在高」8552万7589円のうち、朝鮮人分が占める比率及び試算額


1-160(1558)「円形通貨並びに在外日銀券に対する我方の責任について」1949.1.24
 22、23頁の墨塗り 判決文248頁には、「『通貨別』の冒頭の『通貨名』については、同文書(2頁)・・・に照らせば『鮮銀券』と推認される。」とある。

 28、29頁の墨塗り

 



4、インカメラも無視、30年公開原則すら否定 ! ! ? ?

 今回の2審判決が、控訴人の主張をただ無条件に追従した何の価値もないものということは、これまで原文の複写や判決文の引用、関連文書の紹介、複写等で表示したので、もうこれ以上の説明は必要ないだろう。
 三権分立の大原則を踏みにじり、行政に盲目的に追従した本判決のもっと大きな問題点は、1審の判決では大きく踏み込んだ、インカメラ制度の導入問題と30年公開原則すら否定した、世界に恥をかく低次元なものということだ。

 1審ではその『判決骨子』7頁で「当裁判所の付言」を付け加え、「裁判所の審理の制約(当該情報の内容と開示部分の内容とを(訳者注=裁判官が)直接対照することができないこと)」と日本にインカメラ制度がないことを強く訴えた。これに注目する動きすら日本のマスコミには存在せず、立法府もまた完全に無視しづけたままだ。

 また1審の判決は、上のような状況「を超えて、当裁判所が説示した観点、特に本件各文書の開示部分に記録されてるものと同一の内容のもの等にあたるかどうかという観点から再度検討すれば、更にその全部又は一部を開示する余地のあるものもあり得ると考えられる」と、より積極的に開示するように「上記の観点からの再検討を真摯かつ速やかに尽くしていくことが切に望まれるべきである旨付言した。」のだった。このように高邁な思想と実践に基づき、外務省は1審判決で非開示が認められたものの中からも多くの文書を開示し、その判決の趣旨に答えた。

 しかし一転、2審判決ではこのような動きは完全に無視され、日本にはインカメラ制度がなく世界的な潮流に遅れていることに対しても、何の言及もなかった。

 30年公開原則について1審判決では、その判決文41~42頁に「①国際文書館評議会(International Council on Archives, ICA、日本の国立公文書館も1972年に加入している)の第6回大会の決議・勧告・要望において言及されている「外交文書は、原則としてそれが発生してから30年以内に公開しよう」といういわゆるICA公開原則が公文書管理の在り方等にに関する有識者会議でも確認されていること、②外務省情報公開法審査基準は、時の経過及び社会情勢の変化を考慮する旨、すなわち、ICA30年公開原則を踏まえなければならないことを自ら定めていること、③日本の外交文書記録公開制度は、ICA30年公開原則を基礎として、戦後の我が国外交の足跡について国民の理解を求め、それを深めるという趣旨に基づき、原則として30年を経たものは一部の例外を除いて一般的に公開していること」としたのにも拘わらず、2審判決はその判決文330頁で、30年公開原則について「このような取扱いが国際的慣習であると認めるに足りる証拠はなく、他に情報公開の解釈上このようなルールを斟酌すべき根拠は見いだし難い」とまで後退してしまった。

 それどころか2審判決は、その87~88頁で最近の韓国での法廷の動きに対して、次のように注文を付けた。(以下、判決分から複写)

 「韓国政府は2005年(平成)



 来年は日韓が国交を回復して50年、日本が敗戦して70年の節目を迎える年である。この間、政府が学界がマスコミが市民運動が(勿論財界や商工人、宗教界も含めて)何をして来たのか、また何をして来なかったのか、それを検証することなしに、次の50年や100年を云々する資格はないだろう。

 果たしてあの、1965年の協定で何が決まったのか、何が決められなかったのか、また何がどのように話し合われて、どのように協定が結ばれて行ったのか、まさに当裁判の焦点である。それなのに現安倍政権「特定秘密保護法」を制定してより情報を隠蔽し、「秘密」の指定期間を最高60年とし、「秘密」の漏洩について重罰を課することで、市民の権利をさらに抑圧しようとしている。これは上で引用した1審判決の「外務省情報公開法審査基準は、時の経過及び社会情勢の変化を考慮する」義務を完全に踏みにじるものだ。

 近現代史が学校教育でほとんど教わらない世界で唯一の国として、日本は諸外国から批判、糾弾され嘲笑の的にすらなっている。1945年、どのように戦争が終結し、新憲法が施工されたのか。朝鮮戦争の真っ最中、1952年の平和条約から戦後体制の構築された時期と日韓会談の開始・中断はピッタリ重なる。平和条約には日本の反対で南北朝鮮が参加できなかったし、日韓会談では36年の植民地支配清算問題は一切解決せず、議論は平行線のまま終わった。1910年の日韓併合が不法だったのか、正当だったのか、基本条約の「null and void(今やもう)無効」を巡って英文の解釈が両国で異なったままの条約等、国際的に前例もないいびつなものだった。

 現安倍内閣の麻生副総理は2013年7月29日の国家基本問題研究所月例研究会で、「憲法の改正(実は改悪)について、ナチスドイツに学べ」と暴言を吐き、全世界を驚嘆させた。こんな閣僚が何の責任も取らず、そのまま許される国は世界中どこにもない。欧米、中でもドイツでは処罰の対象になる。ナチスの犯罪=ユダヤ人、少数民族、障害者への管理、移送、殺害、人道に対する罪には時効がない。

 そんなナチスと日本、イタリアは枢軸国を組み、連合国と第2次大戦を戦った。日ソ不可侵条約を破り旧『満州国』から朝鮮、サハリンに攻め込んだソ連の行為を正当と評価する気などないが、たった2年しか維持できなかった「独ソ不可侵条約」を見れば、いかに虚構であったかは火を見るより明らかだ。そのような歴史的経緯を踏まえ、もっとも大事なことは1945年8月14日(15日はラジオで玉音放送を流しただけ)大日本帝国が「ポツダム宣言」を受け入れて無条件降伏した時、日本は孤立無援で日本側につく国が一つもなかった、つまり全世界を相手に戦争を遂行していたという事実だ。

 広島、長崎だけを前面に押し出し戦争犠牲者の仮面を被る、卑怯なオオカミの正体を世界は知っている。戦後の新憲法前文には「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚」し、「・・・われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。・・・いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とあるのを、裁判所や役人が「知らない」という資格はない筈だ。

 それなのに現安倍政権は世界的な情報公開の動きや原子力と人類の共存が不可という動きに背をむけ、いわゆる従軍慰安婦=性的奴隷や南京虐殺等「日本の戦争責任と植民地支配」をめぐって、韓国や中国のみならず米国、欧州等とも軋轢を生んでいる。
 隣国の韓国、中国とは首脳会談を開ける展望が全くないまま、南米や東南アジアを歴訪している安倍の姿はまったく異様である。

 そんな政権に擦り寄ってか、2014年7月14日最高裁大法廷(裁判長千葉勝美)は、米国で見つかった「沖縄密約」文書の存在すら無視し、情報開示の訴えを却下した。2審の一部控訴敗訴を受け、また当会の2次訴訟における2011年5月10日最高裁判所の上告不受理決定の記憶も未だ冷めやらない今日、日本の最高裁の良心にホンの少しでも期待を持つほど、われわれは歴史の真実や過去の教訓に無知ではない。

 2006年の1次訴訟から始まった長い闘いだったが、2007年1次訴訟1審判決の勝訴により1916のファイル、約6万頁近い文書を外務省に公開させた。そして2012年の3次訴訟の勝訴で25%の文書に含まれていた墨塗りを開示させ、完全不開示だった文書も竹島問題ひとつを除いて公開させた。その成果は、これからの学界の研究に大きく貢献するだろうし、既に世界的に多く利用されている。

 自分の仕事を投げ打ったまま、無報酬で裁判所に提出する書類作成に勤しんでくれた弁護団の労力による勝利であるともいえる。
 また日本国内だけでなく韓国の弁護士や日帝被害者原告らの力強い訴え、多くの会員や市民団体の支援によって、この運動がひとつの勝利の転換点を迎えたことを感謝しつつ、この考察を終えることにする。
 われわれの闘いが日韓の平和と友好に、また日本の民主化に大きく貢献したことを高く評価したい。