文化財返還問題の経緯・現状・課題
(日本考古学協会第77回総会 研究発表要旨、2011年5月)

五十嵐 彰・森本 和男

 文化財は、地域社会や民族などの集団的アイデンティティを共有する物象として、社会的に保存・伝承されてきた。文化財の保存・伝承は、単に文化的美意識や歴史感覚に由来するだけでなく、集団意識を高め、集団への紐帯や忠誠を再確認する社会的機能を保持していた。そして闘争や戦争で文化財を破壊・略奪して、敵対者の闘争心・戦意を喪失させ、さらには敗者の集団的帰属意識を抹消しようとした。戦争および侵略こそが、文化財の破壊、略奪の最大の要因となっていた。

 ヨーロッパにおいて文化財を破壊と略奪から保護する気運は、ルネサンスの頃から出始めた。1648年のヴェストファーレン条約以後、戦時に略奪された文化財を返還する条項が次第に増えていった。美術品の略奪が「あらゆる正義および近代戦の慣習に反する」として、ナポレオンによってフランスへ持ち去られた美術品が、1815年に同盟国諸国によって返還された。

 戦争法に大きな影響を与えた1863年のリーバー規約(the Lieber Instructions)では、芸術の古典作品、図書館、学術資料のような文化財は、回避しうるすべての損害から保護されなければならないと規定された。1874年のブリュッセル宣言(the Brussels Declaration)を経て、1899年と1907年にオランダのハーグ万国平和会議で採択された陸戦条約では、戦時における文化財保護、文化財略奪禁止の条項が明記された(Toman 1996 The Protection of Cultural Property in the Event of Armed Conflict:4〜11)。ハーグ万国平和会議で採択された多数の条約や宣言は、ヨーロッパ諸国間における交戦規約として各国が批准し、戦時の文化財保護・略奪禁止が、国際規範として広く認識されるようになった。

 戦時における文化財の略奪禁止が明文化されると、次に文化財を初源(オリジナル)の場所で保持する意見が強くなった。戦争と講和のたびに文化的財宝、歴史的遺産の帰属・所有権が転移し、文化財は離合集散を繰り返していた。こうした事態を回避しようと、美術的歴史的遺産を初源の場所で一体性を保持したまま保存することの重要性が、国際法学者などから指摘された。

 第二次大戦中にナチス・ドイツは大規模な文化財略奪を行なった。アメリカ政府は、第二次大戦参戦後にロバート委員会を設置して、戦時における文化財保護を重視した。軍に文化財の専門家を派遣し、略奪文化財の発見、占領下の文化財保持、損失文化財の調査などを実施した。しかしドイツ降伏後に、アメリカ軍は絵画をドイツからアメリカへ持ち出した。このドイツ絵画の移送に対して、占領軍に所属していた文化財の専門家たちは、文化財略奪を禁ずる倫理規範にもとづいて強く抗議した。アメリカ本国でも、ドイツ絵画の移送は大論争を巻き起こした。

 日本の敗戦前、アメリカは賠償のために皇室財産を接収する計画を立て、その中に文化財も含めていた。しかしドイツ絵画移送をめぐる論争の後、賠償から文化財は取り除かれることになった。文化財専門家としてGHQに勤務したシックマン(L. C. Sickman)の提案で、第二次世界大戦の賠償に文化財を含めないことがロバート委員会によって決定され、戦時に文化財を現地で保管するアメリカ国務省の基本方針となった。こうして文化財を初源の場所に留める国際規範が強化された。敗戦後に、周辺各国から日本に対して強く要求された損失文化財の同種のものによる返還(restitution in kind)も、アメリカ占領軍によって拒否された(森本和男 2010 『文化財の社会史』:619, 631〜4, 637, 653)。敗戦国の日本から文化財が持ち出される可能性は十分あったのだが、アメリカ軍政下で国外への移送は起きなかった。

 南アフリカのアパルトヘイト(人種差別政策)に対する考古学者の姿勢を明確にして、1987年に世界考古学会議(the World Archaeological Congress:WAC)が創立されると、考古学や文化財の社会性が注視されるようになり、過去は誰のものか(Who owns the past?)という議論が活発になった。1994年から国連で始まった先住民族の国際10年により、先住民族の人権、文化、言語の回復が推進され、文化財を初源の場所・人々に戻す返還運動が世界的に広がった。同時に欧米の大博物館が所蔵する外来品についても、帝国主義時代の文化略奪の産物として、旧植民地国から返還の声が高まった。文化財を本来の当事者である人々、民族、国家の下で保存・継承するため、初源の場所に戻す傾向は、今後もますます強まると予測される。

 一方で45年前の「日韓基本条約」締結後に、日本のある学会から以下のような声明が発表された。
「文化財はその国独自な文化・芸術の直接的表現として民族的な価値自体である。それゆえ、朝鮮民族の意志と心情に反してその文化財をもちさることは、殺害や言語抹殺と同じく彼等にとって最大限の屈辱と怒りであるはずである。私たち日本の考古学研究者が、個々人の意識無意識のいかんにかかわりなく、朝鮮文化財の日本流入に手をかした事実は、もはやうちけすことはできない。そのことの反省なしに、そして戦後二十年余この事実に無関心をつづけたことの反省なしに、私たちは、どこに研究の姿勢を据え、何を根拠として文化財保護を叫ぶことができるだろうか。」(考古学研究会委員会 1965・11・14「「日韓条約」に反対し過去の日朝関係を反省しよう」『考古学研究』第12巻 第3号:表紙裏)

 その後、日本でも様々な立場の人たちが様々な立場から当該事案について問題提起をしてきた。それにもかかわらず日本の考古学においては、関心が一様に低い。しかし先にも述べたように、世界の考古学では文化財返還問題は先住民再埋葬問題や報告書未刊行問題とともに考古学という学問を考える際に欠かせない主題となっている。専門分野(Preucel & Mrozowski 2010 Contemporary Archaeology in Theoryなど)はもとより、一般書(Bahn 1996 Archaeology, A Very Short Introduction、レンフルー&バーン 2007 『考古学 -理論・方法・実践-』、ギャンブル 2004 『入門現代考古学』など)においても、「私たちにとって過去とはどのような意味を持つのか」そして「過去はいったい誰のものなのか」という設問が、考古学という学問を考えるのに欠かせない主題となっている。しかし日本における考古学に関する概説書・入門書においては、文化財返還問題や過去の所有権問題あるいは考古学の倫理について言及されることは極めて稀である(鈴木公雄 1988 『考古学入門』:177-8)。世界の考古学と日本の考古学との間に大きな認識上の落差を認めざるを得ない。

 自らのすなわち日本における文化財返還問題について言及する考古学的言説は、さらに限られてしまう。それは、何故なのだろうか。考古学を取り巻く国家間の政治/経済諸関係を「考古学研究それ自体」から切り離す考え方がある。それは以前に「学問を現実から引きはなし、現代史にかかわりない態度で、現実に関係のないことを研究するのが、研究者の正しい在り方である、つまり、学問のための学問こそ、その科学性を保証するただ一つの態度である、と考える当時の学問一般の考え方」(近藤義郎 1964 「戦後日本考古学の反省と課題」『日本考古学の諸問題』:314)として、戦時期における日本考古学の負の側面として指摘されていた在り方そのものである。しかし残念なことに、現在も同様の傾向は払拭されることなく、引き続き継続しているように思われる。

 隣接学問からも「学問(科学)をめぐる政治性に自覚的であることがどんな研究者にも必要だという至極当たり前の主張」(坂野徹 2005 『帝国日本と人類学者』:505)が詳説されている。しかしこと「日本考古学」においては、文化財返還問題が正面から取り上げられることはなく、問題提起がなされても「継続的な扱い」あるいは「扱うべき事案ではない」とされる。

 「日本考古学」としてどのように歴史に向き合うのか? 問われているのは、私たちの倫理的な選択であり、歴史に対する誠実さである(Scarre & Scarre 2006 The Ethics of Archaeologyなど)。考古学という学問、特に日本という空間において考古学に関わっている全ての人々が、文化財返還問題に向き合い、積極的に問題解決の糸口を見出す努力をすべきである。文化財返還問題は、日本考古学が負うべき社会的責任であり、問題解決を先延ばししてもいたずらに状況を悪化させるだけである。単に返還するかしないか、どこからが合法でどこまでが非合法かといった実際レベルの問題にとらわれることなく、文化財の所有の在り方から国家と人類という枠組みそのものについて着実な議論を積み重ねる必要がある。それが世界考古学の一部を形成する「日本考古学」の責務でもある。

 現在の「日本考古学」が問われているのは、「どこに研究の姿勢を据え」るのかという、私たち考古学者としての基本姿勢に関わる問題点である。