文化財の返還 その歴史的変遷

 文化財返還について、大きく分けて2種類のタイプが考えられる。一つは、違法な輸出入によって国境を越えた文化財を、元の原産国に戻すという返還である。もう一つは、戦場や植民地から持ち出された文化財を、元の歴史的場所に戻すという返還である。

 ここでは、おもに軍事占領地や植民地から持ち出された文化財の返還について、取り扱う。

古代・中近世
近代
両大戦間
第2次世界大戦以降


古代・中近世

BC 1158年頃 戦争による略奪 イラクのシッパル Sippar にあったBC 2230年のアッカド王ナラム=シン戦勝碑 Stele of Naram-Sin を、エラミテ人 Elamites が戦利品として、イランのスサ Susa に運んだ。
この石碑は1898年に、有名なハンムラビ法典石碑 Stele of Hammurabi などとともにフランス人によって発見され、現在、ルーブル博物館にある。
BC 479年 戦争による略奪 ペルシャ帝国のクセルクセス王がアテナイを攻略。クセルクセスは、アテナイから首都スサに彫像を持ち帰った。持ち出された彫像には、暴君を殺害したハルモディオとアリストゲイトン the Tyrannicides Harmodios and Aristogeiton という2対の像がふくまれていた。BC 331年に返還。
BC 396年 戦争による略奪  ローマが隣接するエトルリアの都市ウェイイ Veii を攻略。神像をローマへ持ち出す。
ローマがイタリア半島で版図を拡大しはじめると同時に、神像や彫像をローマへ移送した。
BC 387年 戦争による略奪  アッリアの戦い Battle of the Allia でガリア人がローマを攻略。略奪をした。
BC 331年 返還 アレクサンドロス大王がペルシャを征服。クセルクセスがギリシャから運び出してバビロン、パサルガダイ、スサなどに移した像や礼拝像、その他の奉納品を戻すように言ったと伝えられている。
その中に、BC 479年にアテナイから持ち出され、スサにあった暴君を殺害したハルモディオとアリストゲイトン the Tyrannicides Harmodios and Aristogeiton の人物像もふくまれていた。
BC 212年 戦争による略奪 ローマ軍がシキリアのシュラクサエを征服した。彫像や財宝などほとんどすべてを略奪して、ローマへ持ち帰った。その規模は、後のカルタゴ敗北後(BC 146年)の略奪に比肩するほどだったと伝えられている。
この時に、ローマへもたらされた彫像によって、ギリシャ風の審美観がローマ人の間に広まったという。
BC 146年 返還 第3次ポエニ戦争でローマ軍はカルタゴを全滅させた。この時の指揮官だったスキーピオー・アーフリカーヌス(小アーフリカーヌス)が、シキリアから略奪されてカルタゴにあった神像などを、元の場所に返還した。
BC 86年 戦争による略奪 スッラの率いるローマ軍がアテナイを攻略。多数の住民が虐殺され、兵士たちが略奪した。
BC 73~71年 植民地略奪 シキリア総督のガーイウス・ウェッレースが、シキリアの神像、家具、食器、その他多数を略奪した。キケローがシキリア人を代弁して、ローマでウェッレースを弾劾。ウェッレースは公判中に亡命した。『ウェッレース弾劾』
この公判でキケローの明示した文化財保護と返還の議論は、近代および現代になっても重視されている。
324年~ 持ち出し  コンスタンティヌス1世の新しい都市コンスタンティノープルの建造で、ギリシャ、小アジア、東地中海から大量の彫像が集められた。略奪は、コンスタンティン1世、その息子のコンスタンティヌス2世、テオドシウス1世、ユスティニアヌスの時代まで続いた。その多くは破壊あるいは溶解されて、現在、残存数は少ない。
有名なものとして、現在ヴェネチアのサン・マルコ寺院にある4頭の青銅製馬像がある。この馬像は、コンスタンティヌス2世の孫テオドシウス2世が、競技場のスターティング・ゲートに置いたのだが、1204年の第4回十字軍の侵略で、ヴェネチア軍が戦利品として持ち帰った。ナポレオン戦争の時にフランス軍によって奪取され、カルーゼル広場にあったが、その後返還されて、再びサン・マルコ寺院に置かれた。4頭の馬像の初源地は不明で、年代も紀元前あるいはローマ帝政期とも言われている。
410年 戦争による略奪 西ゴート族のアラリック1世 Alaric I がローマを攻略。住民の虐殺、強姦、皇帝廟や施設の破壊、略奪が起きた。アラリック1世は、家にあるすべての金銀製品、5,000ポンドの金、30,000ポンドの銀を要求。そこでローマ人は神像を溶解した。


1204年 戦争による略奪 第4回十字軍が東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを征服し、略奪した。ヴェネチア軍が略奪。ヴェネチア軍が4頭の青銅製馬像を戦利品として持ち帰った。
1297年 戦争による略奪 イングランド王エドワード1世 King Edward I が、 スコットランド王家の守護石とされた運命の石 Stone of Destiny を持ち出す。1996年に返還。
1453年5月29日 戦争による略奪 オスマン帝国(トルコ)がコンスタンティノープルを征服し、略奪した。
1476年3月2日 戦争による略奪 グランソンの戦い Battle of Grandson で、ブルゴーニュ公シャルルが敗走。勝者のスイス盟約者団が、シャルル陣営にあった財宝を戦利品として持ち帰る。The Burgundian Booty。傭兵の問題、今でもスイスの各地で展示。
1495年 戦争による略奪 フランスのシャルル8世がイタリア遠征。ナポリの図書・文書を持ち帰る。
1527年5月6日 戦争による略奪 神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍勢が、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦。傭兵による徹底的な略奪が行なわれた。。


1618~1648年 戦争による略奪 30年戦争。ドイツからスウェーデンへ。グスタフ2世アドルフのスウェーデン軍がドイツに侵入して多数の財宝をスウェーデンに持ち去った。
1625年 国際法・条約 グローチウス『戦争と平和の法』1625年
グローチウスは、この著作のなかで、戦争で神聖な物の破壊や略奪を認めたが、無益な破壊を禁止し、さらに不正な戦争で略奪された物の返還を要求した。

第3巻第5章で、敵の財産は、神聖な物・奉納物をも破壊し、略奪できるとした。しかし神像の破壊が、正義でない、不敬虔、万民法に違反したと非難されることがあると指摘している。一方、第3巻13章で、戦時に生ずるものを債務と考え、敵の債務以上に捕獲し、保有することは許されないとした。
第3巻第12章で、無益な破壊・荒廃を回避する原則を記述し、特に神聖な物に対して適用されるとした。その理由は、戦争の放縦を抑制して、節度や寛大をしめすことが利益になるからと述べている。
第3巻第9章で、捕獲された自由人には帰還する戦後復権があるとしたが、動産については、戦後復権によって返還されないとした。ただし第3巻第10章で、不正な戦争で捕獲したものを返還する義務があるとした。第3巻第16章で、不正な戦争で敵が他より取ったものを返還すべきだとし、実例として、スキーピオーがカルタゴの攻略後、シキリア諸都市に財産や献納物を返還したことを述べた。
1648年1月30日 国際法・条約 オランダとスペインで締結されたミュンスター条約 Peace of Münster で、押収されたすべての財産の返還が規定された。
1648年10月24日 国際法・条約 ウェストファリア講和条約、Peace of Westphalia
1686~1708年 持ち出し リビア・トリポリにいたフランス領事クラウデ・ル・マイレ Claude Le Maireが、レプティス・マグナ遺跡 Lepcis Magna から大理石の支柱600本以上を持ち出した。支柱はパリに送られ、ルイ16世のヴェルサイユ宮殿の建築材として売却された。
1692年 持ち出し 宣教師ロメロ Fra Francisco Romero が、北コロンビアの祠堂から木像をローマへ送り、教皇イノセント12世に寄贈した。イノセント12世は、 Palazzo di Propaganda Fide に収蔵し、後の民族博物館の非ヨーロッパ考古遺物コレクションの基礎となった。
1758年 国際法・条約 Vattel, Emmerich de, The Law of Nations or the Principles of Natural Law. 1758.
1762年   ルソー『社会契約論』1762年
「戦争は人と人との関係でなくて、国家と国家の関係なのであり、そこにおいて個人は、人間としてでなく、市民としてでさえなく、ただ兵士として偶然にも敵となるのだ、祖国を構成するものとしてでなく祖国を守るものとして。それぞれの国家が敵とすることができるのは、ほかの諸国家だけであって、人々を敵とすることはできない。」
「君主にたいして戦争開始を宣言せずに、臣民からものを取ったり、これを殺したり、または監禁したりする外国人は、国王であろうと、個人であろうと、また人民であろうと、それは敵ではなくて、強盗である。戦争さいちゅうにおいてさえ、正しい君主は、敵国において、公有財産はすべて没収してしまうが、個人の生命と財産は尊重する。」
宣戦布告のない殺人、略奪は強盗である。戦時でも個人の生命と財産が尊重される。
1794年 略奪 ポーランド3回目の分割。王室コレクションをプロシャ、ロシアが略奪。
1796年   カトルメール・ド・カンシー
フランスの Quartremere de Quincy が、「the improvement of the human race」
1799年 植民地戦争 イギリスがインドの Tipu Sultan の首都 Sri Rangapattana を攻撃。ティッポーのトラ Tippoo's Tiger その他を略奪した。この楽器彫像はロンドンへ、東インド会社の東インドの家 East India House に送られて展示され、評判となった。その後サウス・ケンジントン博物館(現在ビクトリア・アンド・アルバート博物館)に移された。
1801年 持ち出し 在コンスタンチノープルのイギリス大使エルギン伯爵 Earl of Elgin が、オスマン帝国からパルテノン Panrthenon での複製許可を得る。
1813年 返還 The Marqis de Somerueles, Stewart's Rep. 482
略奪の対象外、Quatremere de Quincy の原則を裁判に初めて適用
1816~17年 調査 リビア・トリポリのイギリス人領事ハムナー・ワッリングトン Hamner Warrington が、レプティス・マグナ遺跡 Lepcis Magna の調査許可を得て、建築遺物100点以上をイギリスに送った。1826年まで大英博物館の庭園に置かれていたが、その後ウィンザー宮殿に移されて、「廃墟」庭園の一部に組み込まれた。


近代

1796~1815年 戦争による略奪 ナポレオン戦争で多数の美術品がパリに送られ、ルーブルに置かれた。イタリアから、 Apollo Belvedere、Dying Gladiator、ラオコーン the Laocoon、the Medici Venus、ラファエルの絵画9点、コレッギオの絵画2点、ヴェネチアのサン・マルコ寺院から4頭の青銅製馬像、有翼ライオンなどを持ち出す。
エジプトに学術遠征隊を派遣。1801年にフランスがエジプトから撤退し、ロゼッタ・ストーン Rosetta Stone など収集品はイギリスのものとなった。
オランダのマーストリヒトから、1780年に見つかった7,000万年前の化石モササウルス Mosasaurus が、1794年にパリ自然史博物館に持ち込まれた。1996年にオランダが返還を要求した。
1815年 返還 1815年11月20日に第2次パリ条約が締結され、ナポレオンの戦利品であった美術品を各国に返還することになった。プロイセンは条約締結前に、ルーブルに軍隊を派遣して梱包をはじめた。オランダはルーブルにあったフランドル派の絵画を取り戻した。イタリア・バチカンのものは、条約によってフランスが所有権を主張したが、認められなかった。
1815年 植民地戦争 イギリスがスリランカのキャンディ王国 Kingdom of Kandy を攻略。Sir Robert Brownrig が王の寺院、王笏、王冠などを持ち出す。1934年に返還。
1816年 持ち出し エルギン Elgin がイギリス下院に パルテノン大理石 Parthenon marbles の購入を請願した。特別委員会は35,000ポンドで Parthenon marbles の購入と、大英博物館への移送を決定した。
1821年 持ち出し 在アテネのフランス使節団秘書のマルセルス the Vicomte de Marcellus が、在コンスタンティノープルのフランス大使 the Marquis de Riviere の指示で、ミロのビーナス Venus de Milo を購入した。
1827年 調査 リビアのキュレネ遺跡 Cyrene にあるアポロ聖所 the Sancturay of Apollo を、イギリス領事ハムナー・ワッリングトン Hamner Warrington の息子 George が発掘した。出土品は大英博物館にある。
1842年 調査 イラク・モスル Mosul のフランス領事ボッタ Paul Emile Botta が1842年に発掘をはじめ、1846年にはアッシリア王サルゴン2世の都市ホルサバド Khorsabad (Dur Sharrukin)を発掘した。多数の彫像がティグリス川を利用して運び出され、ルーブルに置かれた。
1845年 調査 イギリス人ラヤード卿 Sir Austen Henry Henry がイラクのニオニセド Nionicede 、クユンジク Kuyunjik 、アシュール Ashur で発掘した。有翼牛 the huge winged bulls 、シャルマネセル3世 Shalmaneser III の黒オベリスク Black Obeliskアシュール=ナシルパル像 the sculptures of Ashur-nasirpal など、多数の出土品が1848年に大英博物館に収蔵された。
1849年 植民地戦争 第2次シク戦争、およびシク王国のイギリス併合で、首都ラホール Lahore が略奪された。ナンジット・シンの玉座 the throne of Ranjit Singh が持ち出されて、現在、ビクトリア・アンド・アルバート博物館にある。1980年代からシクで返還運動が起きている。
1850年 持ち出し イギリスはラホール Lahore (パキスタン北東部、パンジャブ地方)を支配下に置く。インド総督 Load Dalhousie がビクトリア女王へ、巨大なダイヤモンド、コ・イ・ヌール Koi-i-Noor を寄贈した。元来191カラットだったが、1852年にカットされて109カラットとなった。1937年に製作された女王王冠 the Queen Mother's Crown の中央に置かれている。デリーのムガルに213年間、カンダハルとカブールに66年間、ラホールのシクに36年間あったとされ、複雑な所有変遷を見せている。
パキスタン、インドが返還を要求したが、イギリスは、王冠の宝石は人民の財宝であり、女王の主権を保持するものだと応答している。
1850年 調査 ルーブルからエジプトにオーガスト・マリエッティ Auguste Mariette が派遣され、エジプト古代局長官 the director of the Egyptian Service of Antiquities として、発掘の規則化、出土品の保存、博物館を建設した。乱掘や国外流出の防止策を講じ、保存施設を制度化した。
1860年 植民地戦争 アロー戦争(第二次アヘン戦争)で、中国北京の円明園をフランス・イギリス軍が略奪。
2000年に青銅製十二支頭部像がオークションに出品され、中国が買い戻した。
1860~61年 調査 リビアのキュレネ遺跡 Cyrene を、イギリス人のロバート・ムルドック中尉 Lieutenant Robert Murdoch 、エドウィン・ポーチャー指揮官 Commander Edwin Porcher が発掘した。多数の彫像を持ち帰り、大英博物館の収蔵品となっている。
1863年   リーバー規約、Lieber Code, Instructions for the Government of Armies of the United States in the Field
アメリカ軍の
1866年 植民地戦争 フランスが朝鮮・李王朝の江華島を襲撃し、朝鮮王室儀軌など外奎章閣の図書を持ち出す。2011年に返還。
1868年4月13日 植民地戦争 イギリスはエチオピアを「懲罰遠征」、首都Magdalaを攻略。Magdala Treasures、王冠、タボツ(聖板)tabotなどを略奪した。
ビクトリア女王の時代に、古代伝説 Kebra Nagast Chronicle of the Queen of Sheba の1部を返還。1920年代に、ビクトリア・アンド・アルバート博物館にあった2点の王冠のうち1点を返還。ジョージ5世が玉座を返還。1965年のエリザベス2世訪問時に皇帝の帽子と玉璽を返還。2003年に聖ヨハネ・スコットランド聖公会がタボツ tabot 1点を返還。
1873年 持ち出し シュリーマン Heinrich Schliemann がトルコのヒサルリク Hissarlik を発掘。1873年に金製装飾品などの財宝を発見した。この出土品を、彼はプリアモス王の財宝としたが、ずさんな発掘・記録などから疑問視された。トロイ秘宝 Troy Treasures は、アテネ経由で秘かにトルコから持ち出され、ドイツ・ベルリンに寄贈・展示された。第2次世界大戦末期にソ連軍によって持ち出された後、長らく行方不明となっていたが、ソ連崩壊後に博物館にあることが確認された。
1874年 植民地戦争 イギリスが、西アフリカの黄金海岸にあったアシャンティ王国(ガーナ南西部)を「懲罰遠征」した。街は黄金に満ちていると伝えられていた。王都クマシ Kumasi が略奪され、黄金マスク、王の剣、大量の胸板、珊瑚装飾品、銀板、金製・銀製ナイフ、絹織物などの財宝が強奪された。 Ashanti Gold 多数の王権の装飾品は人間博物館 the Museum of Mankind 、もしくはウォレス・コレクション Wallace Collection にある。
1874年 国際法・条約 ブルッセル宣言、Brussels Declaration
国際
1880年 国際法・条約 オックスフォード・マニュアル、Oxford Manual, Manual published by the Institute of International Law
  
1885年 植民地戦争 イギリスは、the Third Burmese Warの賠償としてビルマ王から、the Burmese regalia 王権の象徴、the Mandalay Regalia を没収。サウス・ケンジントン博物館(現在ビクトリア・アンド・アルバート博物館)に収蔵された。1964年に返還。
1888~1900年 調査 アメリカがイラクのニップル遺跡で調査。出土品の一部を研究者が受け取る。Edgar James Banks 事件
1894年 植民地戦争 オランダがインドネシアのロンボク Lombok 島を「懲罰遠征」。オランダ兵が宮殿から1,000以上の金製品、230kgの金貨、7,199kgの銀貨、そしてネガラケルタガマ・ヤシ葉文書 the Negarakertagama palm leaf を略奪。直後に別の宮殿も強奪され、指輪、槍先、金製タバコ箱、パイプ、王冠が持ち出された。Lombok Treasure
オランダは17世紀初頭からインドネシア植民地化を進めた。1778年に王立バタビア美術学術協会 the Royal Batavian Society of Arts and Science が設立され、植民地政府所有の文化財が寄託された。協会の博物館で文化財が保管され、その多くを植民地領域内に留めることができた。
ロンボクのほとんどの財宝は、王立バタビア協会のジャカルタの博物館に保管された。その他(金銀・宝石)75荷がオランダへ、アムステルダムの国立銀行に移され、一部は博物館へ配られた。1977年に返還。
1897年 植民地戦争 イギリスはナイジェリアのベニン王国を「懲罰遠征」し、2,000点以上の青銅製品 Benin Bronzes と、大量の象牙製品を略奪した。破壊と略奪により、数百年続いたブロンズ美術の伝統が途絶えた。青銅製品は、イギリス、ドイツ、アメリカなど世界中の博物館にある。ナイジェリアは1963年に独立し、文化財の返還・回収をはじめた。2002年には、大英博物館に対して、公式に返還を要求した。
1899年 国際法・条約 第1回ハーグ条約、Convention respecting the Laws and Customs of War on Land
  
1899~1917年 調査 ドイツがイラクのバビロンで発掘。出土品をドイツへ持ち出す。
1900年 植民地戦争 北清事変(義和団の乱)で中国・北京に、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、日本など列強の軍隊が乱入し、多数の文物・財宝が略奪された。紫禁城の天壇、社稷壇、歴代帝王廟が強奪され、翰林院が放火されて永楽大典四庫全書が散逸した。その一部が日本にも将来し、東洋文庫などの収蔵品となった。これ以後、高価な文物が中国から大量に流出しはじめた。
日本軍が略奪したのはおもに馬蹄銀で、首謀者は軍法会議で予審免訴となり、行政処分で停職となった。
1904~05年 持ち出し 日本軍が日露戦争中に、北朝鮮の咸鏡道臨溟駅にあった北関大捷碑を持ち出し、靖国神社に放置した。大韓帝国は、日露戦争前に中立を宣言していた。2006年に韓国を経由して北朝鮮へ返還。
1904~05年 持ち出し 日本軍が日露戦争中に、中国・旅順にあった鴻臚井の碑(唐碑亭)を無断で持ち出し、皇室に献上。皇居内建安府の前庭に置かれた。清朝政府は、日露戦争前に中立を宣言していた。
1904~11年 調査 アメリカ人のリチャード・ノートン Richard Norton が、リビアのキュレネ遺跡 Cyreneアポロニア Apollonia (キュレネの港)を調査。1909年に調査隊のメンバーがアポロニアから遺物を着服したと報告されている。数年後、その一部をノートンはボストン美術館に売ろうとしたが、成功しなかった。伊土(イタリア-トルコ)戦争勃発の直前に、調査は終了した。
1906~08年 植民地戦争 オランダがインドネシアのバリ島を「懲罰遠征」。彫像、家具などを破壊・略奪。
オランダに不服従の領主の宮殿から、貴重な文化財が大量に持ち出された。現地に派遣された王立バタビア協会の職員が民族資料を取り扱ったが、その職員はオランダ兵の暴虐な振る舞いに衝撃を受けたという。410点の文化財を入れた3荷のほぼ半分が、1907年春にオランダの民族博物館に届いた。
1907年 持ち出し 中国で敦煌文書の発見。イギリスのスタイン Sir Aurel Stein 、フランスのペリオ Paul Pelliott 、ドイツのル・コック Albert von Le Coq 、日本の大谷光瑞、アメリカのウォーナ Langdon Warner 、ロシアのオルデンブルク Sergey Fyodorovich Oldenburg などが押し寄せ、競って文物を持ち出した。
1907年 国際法・条約 ハーグ条約、Convention respecting the Laws and Customs of War on Land
1912年 調査 エジプト・カイロにあるドイツ研究所所長ボルハルト Ludwig Borchardt がアマルナ遺跡 Tell el-Amarna を発掘した。1924年に、ファラオ・アクナテンの妻ネフェルティティ女王の胸像 the bust of Queen Nefertiti が突如ベルリンに出現し、それ以前にエジプトから持ち出されたと見られている。
1913年 調査 イタリア軍はリビアのダー・ブク・アンメラ遺跡 Dar Buc Ammera でローマ時代の邸宅を発掘し、1929年から保存がはじまった。イタリア人によるはじめてのキュレネ遺跡 Cyrene の発掘も、軍隊によって実施された。アポロ聖所 the Sancturay of Apollo で、BC4世紀のキュレネのビーナス(浴槽から上がるアフロディテ像) the Venus of Cyrene (statue of Aphrodite Rising from bath)が見つかった。この像はイタリアに持ち出され、ローマ国立博物館 Museo Nazionale delleTerme に展示された。第2次世界大戦中は、保護のためバチカンに移された。2008年に返還。
レプティス・マグナ遺跡 Lepcis Magna にある有名なナイル・モザイク邸 the Villa of the Nile Mosaic も、新しい道路を造るため石材を探していた兵士が見つけ、その後、イタリア人考古学者が発掘したのである。
1916年 調査 1910年に日本は韓国を併合。1916年に「古蹟及び遺物保存規則」を制定して、古蹟調査委員会が設置された。韓国併合に前後して、古墳の盗掘や乱掘、石塔・仏像の盗難が横行し、多くの文化財が市場に出回った。遺跡から出土した遺物の一部が日本へ流出した。
1917年 調査 ドイツ考古学研究所がトルコから、ボガズキョイ遺跡 Boğazköy の出土品を持ち出す。1987年と2011年に返還。
1919年6月28日 国際法・条約 ヴェルサイユ条約
パリ講和会議
1921年3月18日 国際法・条約 リガ平和条約Peace of Riga。ポーランド・ソビエト・リガ平和条約。第7条。
1922~1923年 国際法・条約  空戦法規案
1923年 持ち出し カンボジアのアンコール Angkor 近傍の寺院で、フランス人作家アンドレ・マルロー Andre Malraux が石像を切断し、持ち出そうとした。プノンペンで逮捕され、初審で実刑判決が下され、石像は没収された。控訴審で減刑、執行猶予刑となった。
1907年にフランスとシャムは条約を結んで、フランスは獲得した地域 the Siam-Reap territory で所有権を得た。カンボジアはフランスの保護国となっていて、1908年に寺院は歴史的記念物(モニュメント)に分類されて、寺院の所有者はフランスとなっていた。
1925年 持ち出し 教皇ピウス11世が、非西洋世界における宣教師の活動を誇示する展覧会を開催した。100,000点が集められ、展覧会後にその半分が返却された。教皇は、民族資料をふくむ新しい博物館 the Pontifico Museo Missionario-Etnologico を建てることにして、1927年に開館した。パプア・ニューギニアやオーストラリアのアボリジンの彫像物などを収蔵している。


両大戦間

1926年   国際博物館局 (IMO、International Museums Office)設立。
国際連盟・教育文化部門のICICの決定による。
1933年 国際法・条約 Draft International Convention on the Repatriation of Objects of Artistic, Historical or Scientific Interrest
国外へ流出した文化財を戻すための最初の条約案。
1934年 返還 イギリスからスリランカ(セイロン)へ、1815年に持ち出した Kingdom of Kandy の王冠を返還。
1934年 調査 リビアはイタリアの植民地となる。ローマ時代の遺跡2ヶ所を発掘。
1935年4月15日 国際法・条約 The Roerich Pact

1935年4月15日 国際法・条約 The Treaty on the Protection of Movable Property of Historic Value
1936年 国際法・条約 Draft International Convention for the Protection of National Artistic and Historical Treasures
文化財返還に関する2番目の条約案。
1937年3月9日   国際博物館局 (IMO)の提唱で、発掘に関するカイロ国際会議 The International Conference on Excavation at Cairo が開催され、発掘に関する規則 Final Act of the International Conference on Excavation がまとめられた。
1937年 植民地略奪 イタリアがエチオピアから、オベリスク Obelisk of Axum を持ち出す。2005年に返還。
1937年 没収・売却 ドイツで、退廃芸術 degenerate artの作品16,000点が没収され、ミュンヘンで退廃芸術展 a Degenerate Art Exhibition (entarte Kunst)が開かれた。収集された作品は売却され、アメリカ、スイスなどに渡った。販売促進のため、1939年3月にベルリン消防局の庭で、数千点の絵画、彫像、水彩画、デッサンが焼かれた。
1937~45年 戦争による略奪 日本軍は、アジア・太平洋戦争で文化財の破壊・略奪を行なった。
戦後GHQは、日本にある略奪文化財の返還を実施する際に、当初1931年9月18日の満州事変を起点にして、それ以降に日本へ移入された文化財を略奪と認定しようとした。しかし結局、1937年7月7日の盧溝橋事件以降に、日本に持ち込まれた文化財を略奪文化財とした。
日本軍による文化財の破壊・略奪は、戦争犯罪として極東軍事裁判などで追求されなかった。
1938年 国際法・条約 Preliminary International Convention for the Protection of Historic Buildings and Works of Art in Time of War
国際博物館局 (IMO)や国際法学者によって作成された戦時文化財保護条約案。
1939年 La protection des monuments et ceuvres d'art en temps de guerre, 1939.
国際博物館局 (IMO)編集・刊行の戦時文化財保護のマニュアル。砲撃の衝撃など戦闘から文化財を保護する方法が具体的に詳述され、戦時文化財保護の略史、および1938年の条約案も収録された。戦争による文化財破壊・略奪を予防しようとした。
1939年 国際法・条約 Draft International Convention for the Protection of National Collections and History
1939年 持ち出し イタリアの植民地リビアのレプティス・マグナ遺跡 Lepcis Magna のハディリアニク浴場 Hdrianic Baths で見つかったプラクシテレス Praxiteles 作のローマ時代複製カピトリーノのビーナス Capitoline Venus を、ファシストのリビア総督がナチス・ドイツのゲーリングに寄贈した。2000年に返還。
1939~45年 戦争による略奪 ナチス・ドイツは、ヨーロッパ戦線で大規模に文化財の破壊・略奪を行なった。
戦後、ニュルンベルク裁判で戦争犯罪として訴追された。それ以後も、とくに1990年代になって略奪の戦争責任の追及が続いた。
1940年   Manual on the Technique of Archaeological Excavations, 1940.
国際博物館局 (IMO)編集・刊行の発掘調査マニュアル。盗掘を防止して、乱掘にならないように、学術調査方法を詳述した。
1941~45年 戦争による略奪 アメリカが第2次世界大戦に参戦し、ヨーロッパ戦線のチェコなどので
1941~45年 戦争による略奪 ヨーロッパ東部戦線で攻勢に転じたソヴィエト軍が、ドイツから大量の文化財を持ち出した。


第2次世界大戦以降

1943年1月5日 国際法・条約 Declaration of London, Inter-Allied Declaration Against Acts of Dispossession Committed in Territories Under Enemy Occupation or Control.
  
1944年 Rapael, Lemkin, Axis Rule in Occupied Europe, 1944.
    Pari Statement of Policy with Respect to the Control of Looted Articles
1944年~ 返還 ドイツ・ナチスが略奪した文化財の返還。
アメリカ
1945年 ヴィースバーデン宣言 Wiesbaden Manifesto
1945年12月 持ち出し アメリカ占領軍は、ドイツから著名な絵画202点を持ち出し、アメリカ国内で展覧会を巡回させた。202問題。
1945~46年 ニュルンベルク裁判
1945~52年 返還 アジア・太平洋戦争で日本が略奪した文化財を、GHQのもとで返還した。
GHQの公式記録によると、文化財2,394式、図書192,813式が返還された。返還された図書の大半は中国から略奪された。日本軍による文化財の破壊・略奪は、戦争犯罪として極東軍事裁判などで追求されなかった。
1946年1月14日 国際法・条約  Final Act and Annex of the Paris Conference on Reparations
1946年1月22日   Definition of the Term "Restitution"
1947年2月10日 国際法・条約 パリ条約、Paris Peace Treaties
連合国と枢軸国(イタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、ハンガリー)との間で講和条約。
1951年9月8日 国際法・条約 サンフランシスコ平和条約、Treaty of Peace with Japan
  連合国と日本との間
1954年 国際法・条約 ハーグ条約(戦時文化財保護条約)、Convention for the Protection of Cultural Property in the Event of Armed Conflict
戦時文化財保護をテーマにして、はじめて成立した条約。
ハーグ条約・第一議定書、First Protocol
1956年12月5日 Recommendation on International Principles Applicable to Archaeological Excavations
1959年 盗掘 イギリス人考古学者メラート James Mellaart が、トルコのドラク王墓出土品 Dorak treasure の盗掘報告 report of a clandestine excavation を、1959年11月28日の絵入りロンドンニュース the Illustrated London News で発表した。トルコ当局は、これらの遺物が秘密裏に持ち出されたとして、返還を要求するとともに、メラートがトルコ領内で発掘することを禁止した。結局、出土遺物は謎につつまれたままとなった。
1960年 返還 カナダからポーランドへ、第2次世界大戦中に持ち出された財宝を返還。1940年にカナダ政府の許可のもとで、クラクフのワウェル宮殿 Wawel Royal Castle の財宝がカナダに搬入された。1945年にポーランド新政府が承認される数ヶ月前、ポーランド亡命政府代表によってケベックの州博物館へ移送された。ケベック州はポーランド新政府を認めていなかった。長い交渉と法律論争をへて、ポーランド新政府が所有権を獲得し、財宝が返還された。
1964年11月 返還 イギリスはビルマ(ミャンマー)に、1885年に略奪した Mandalay Regalia を返還。
1965年 返還 日韓条約を締結。
1970年 取得に関する倫理、Ethics of Acquisition
ICOM
1970年11月14日 国際法・条約 文化財不法輸出入等禁止条約
1971年 返還 デンマークからアイスランドへ、フラート島本 Flateyjarbok王の写本 Codex Regius など中世の伝説文献 the medieval Saga を返還した。
アイスランドは1380年からデンマーク領となり、1918年にデンマーク主権下の独立国、1944年に独立を達成した。アイスランド出身の学者 Arne Magnussen が18世紀初頭に収集した古文献をめぐり、1830年代から返還交渉がはじまった。古文献はデンマークの研究機関 Arnamagnaean Institute の所蔵品で、アイスランド側には請求する法的権限はなかった。長期間の交渉、デンマーク国会の決議、および最高裁の判決をへて、返還が実現した。
1976年 返還 アメリカのハーバード大学ピーボディ博物館 the Peabody Museum からメキシコへ、ユカタンのセノテ・チチェン・イツァ Cenote Chichen Itza のトルテク硬玉製装飾円盤 Toltec engraved disc of jadeite など、玉製品コレクションを返還。
1977年 返還 オランダからインドネシアへ、1894年にロンボク Lombok 島から略奪された文化財を返還。243点。そのなかにルビーを配した王冠がふくまれていた。Lombok Treasure。公式返還は、1978年4月24日。
1949年にオランダがインドネシア独立を承認してから、文化財の返還交渉が進められたが、なかなか進展しなかった。戦利品として持ち出されたロンボク島とバリ島の文化財のうち、ロンボク島のものが返還され、バリ島のものは未解決。
1977年 返還  オランダからインドネシアへ、13世紀の Prajnaparamita 石像を返還。
ライデンの国立民族博物館の最重要品の一つだった。1978年4月24日に公式返還。ジャカルタの国立博物館に置かれ、いくつかの複製品が地方博物館にある。インドネシアはこの石像は、時々オランダに貸し出している。
1977年  返還 オランダからインドネシアへ、絵画パンゲラン・ディポネゴロ逮捕 Arrest of Pangeran Diponegoro を返還。
オランダ支配に反逆したディポネゴロが1855年に死去して、インドネシアの画家ラデン・サル Raden Saleh が逮捕された時の絵を描き、オランダ王ウィルヘルム3世に寄贈。王家は1967年にアムンヘム Arnhem のブロンビーク博物館 Museum Bronbeek に寄託した。その後10年してインドネシアへ返還された。
1977年 返還 オランダからインドネシアへ、反逆者だったインドネシアの国民的英雄パンゲラン・ディポネゴロ Prince Pangeran Diponegoro の遺品を返還。
ディポネゴロは1825~30年にオランダ支配に反逆。1830年に捕まり、武器と王権の象徴を所持していた。赤色の鐙、馬のくつわ、傘、槍。1865年と1869年にオランダ・アムンヘム Arnhem のブロンビーク博物館 Museum Bronbeek が、個人コレクションから取得していた。
1977年6月 返還 1977年6月に、オーストラリア博物館評議会 the Australian Museum Trust は、パプアニューギニアの国立博物館とアート・ギャラリーに、17件の文化財を寄贈した。
1978年6月に、オーストラリア博物館評議会は、独立を記念してソロモン諸島博物館 the Solomon Islands Museum に、カヌー船首装飾品2件を寄贈した。
1978年 返還 アメリカからハンガリーへ、聖冠 Crown of St Stephen を返還。1001年にシルヴェステル2世教皇が初代ハンガリー王に授けた王権の象徴。第1次世界大戦後にハンガリー王は空位となった。ナチス・ドイツとソ連軍の手中になるのを恐れて、第2次世界大戦末期にアメリカへ手渡された。戦後、ケンタッキー州の Fort Knox 空軍基地に置かれていたが、カーター大統領が「ハンガリー人民」のために返還を決意した。
1978年6月7日   A Plea for the Return of an Irreplaceable Cultural Heritage to Those Who Created It
Amadou-Mahtar M'Bow, Director-General of UNESCO
1978年11月28日   Recommendation for the Protection of Movable Cultural Property
1978年   違法に横領された文化財を原産国へ返還・回復を促進させる政府間委員会
Intergovernmental Committee for Promoting the Return of Cultural Property to its Countries of Origin or its Restitution in case of Illicit Appropriation
ユネスコは、文化財返還を推進させるために政府間で協議する委員会を設置した。
返還の実現した文化財は少ない。
1983年:イタリアからエクアドルへ、プレ・コロンブス時代の遺物12,000点以上(違法輸出)を返還。
1986年:アメリカのシンシナティ美術館とヨルダンは、ぺトラ遺跡の女神像 Nike with Zodiac の合体に同意。
1987年:旧東ドイツからトルコへ、1910年代にドイツ考古研究所が調査した出土品、ボガズキョイの粘土板 Boğazköy cuneiform tablets を返還。
1988年:アメリカからタイへ、石像 the Phra Narai lintel (違法輸出)を返還。
2010年:スイスからタンザニアへ、マコンデ・マスク the Makondé Mask (違法輸出)を返還。
2011年:ドイツからトルコへ、1910年代にドイツ考古研究所が調査した出土品、ボガズキョイのスフィンクス Boğazköy Sphinx を返還。
1981年 返還 アメリカのハーバード大学ピーボディ博物館 the Peabody Museum からホンジュラスへ、マヤの壷コレクションが返還された。1950年代にホンジュラスから「貸与」され、返還が要求されていた。
1981年 返還 デンマークからグリーンランドへ、文化財の移転がはじまった。グリーンランドは1721~1953年までデンマークの植民地だった。1979年に本国と同じ政治的地位となり、1981年に完全な自治権が与えられた。1981年からデンマーク国立博物館のグリーンランド・コレクションが、グリーンランド国立博物館・文書館に移され、1997年には考古資料30,000点、民族資料1,500点となった。
1981年 ザンビアが、ロンドンの自然史博物館 the Natural History Museum に収蔵されている頭骨化石ブロークンヒル・マン Broken Hill Man の返還を要求した。この頭骨は、ネアンデルタール人と同時期の化石とされ、1921年に発見された後、自然史博物館に送られた。博物館側は返還を拒否し、複製を渡した。
1982年 返還 イギリスからケニアへ、霊長類プロコンスル・アフリカヌス Proconsul africanus 頭骨化石を返還。
頭骨化石発見者のメアリー・リーキー Mary Leaky が1948年に大英博物館に貸与した。その時にケニア政府官房長は、一時的な貸与、頭骨はケニアの所有であり、将来回収されると規定していた。ナイロビに国立博物館ができ、ケニアから頭骨の返却が要請されると、大英博物館は、寄贈品であり博物館の収蔵品だとして、長らく返還を拒否していた。1982年にメアリー・リーキーの秘書が、国立公文書館でケニア政府官房長の書簡を見つけても、博物館側はまったく認めようとしなかった。数ヶ月たって、大英博物館評議委員会 the Trustees of the British Museum で「売却 deaccession」となり、ようやく頭骨化石の返還が実現した。
1982年 返還 イタリアからエチオピアへ、メネレク2世の王冠 the throne of Emperor Menelek II を返還。
1982年 返還 イラクと、アメリカのハーバード大学セム博物館 Semitic Museum 、シカゴのオリエント研究所 the Oriental Institute との交渉により、バグダードの国立博物館へ、楔文字版584点が返還された。
1982年6月19日 メキシコのジャーナリスト、カスタネーダ Jose Luis Castaneda de Valle が、パリの国立図書館 the Bibliotheque Nationale から18葉のアステカ写本 the Aztec Codex 、トナラマツル・オービン Tonalamatl Aubin を無断で持ち出し、メキシコの国立人類学歴史学研究所 Instituto Nacional de Antropologia e Historia に渡した。フランスは窃盗として返還を要求したが、カスタネーダはメキシコ文化遺産を救ったと主張した。
この写本は、1740年の文書でスペイン総督が所持したと言及された。大学図書館や政府事務所をへて、スペイン人所有となり、スペイン人の死後、1840年にパリでドイツ人によって購入され、さらにフランス人学者 Joseph M. A. Aubin の手に渡った。フランス人学者の死後、1848年に国立図書館に寄贈された。
1982年 ユネスコ:エルギン大理石 Elgin Marbles の返還を勧告。Recommendation No. 55
The Recommendations of the World Conference on Cultural Policies (Mexico)
1985年 返還  オランダからアンティル諸島のアルバ Aruba (1986年から自治領)へ、考古資料を返還。アルバが自治領となった時期に、ライデンの国立民族博物館からプレ・コロンビア時代の遺物4,500点を返還した。
1986年   Code of Ethics for Museums、倫理規定
1986年 返還 スイスからメキシコへ、新大陸の植民地初期の絵画2点を返還。スペイン製武器を手にインディアンがアパッチの村落を襲撃する絵 Segesser I 、スペインとプエブロ・インディアンの待ち伏せの絵 Segesser II が、ニューメキシコ博物館の総督宮殿 the Palace of Governors at the Museum of New Mexico に返還された。これらの絵画は、1758年に、イエズス会神父 Father Phillip von Segesser von Brunegg によって、メキシコの Ures からスイスへ送られたとされている。18ヶ月の貸与として返還された。
1987年 返還 ドイツ民主共和国(東ドイツ)からトルコへ、ボガズキョイの粘土板 Boğazköy cuneiform tablets 7,400点を返還した。1910年代にドイツ考古学研究所が遺跡を調査し、1917年に出土品をドイツに送った。トルコがユネスコの政府間委員会に申請して、返還が実現した。
1988年 返還 1988年に、オークションに出品されたマオリ族の遺骸が返還された。ロンドン・ボンハムのオークションに出品された刺青のあるマオリ族首長の頭部遺骸を、マオリ族のリーダーたちが撤去を求めた。高裁は販売を停止させ、所有者は埋葬のため頭部遺骸の返還に同意した。
1990年代初頭、ドイツ・ハンブルグの民族博物館 the Museum fur Volkerkunde とスイス・バーゼルの文化博物館 the Museum der Kulturen が、刺青のある頭部をニュージーランドに返還した。収蔵されたウェリントン the Wellington Museum では、先住民族しか触れることができない。
1990年   Native Americal Graves Protection and Repatriation Act (NAGPRA)
1990年9月12日   ドイツ最終規定条約、Treaty on the Final Settlement With Respect to Germany
連合国と東西ドイツ
1994年 返還 スウェーデンからカナダの先住民族へ、精霊ポールを返還。ストックホルムの国立民族博物館 the National Museum of Ethnography からブリティッシュ・コロンビアのミスクサ村 the village of Misk'usa へ、ハイスラ精霊ポール the Haisla spirit pole が返還された。天然痘で家族を失ったハイスラのイーグル族 the Eagle clan の首長により1862年に製作され、1929年に秘かにスウェーデンに持ち出された。
1994年10月 返還 アメリカ・インディアン国立博物館 the Nationl Museum of the American Indian (NMAI)が、ジョージ・ヘイ George Gustav Heye のコレクションを基礎に、開館した。ヘメス族 Jemez のプエブロ・インディアンに関する精霊、カチナ人形、マスク、土器など83件が先住民族に返還された。
1995年 国際法・条約 UNIDROIT Convention
1995年 返還 人間の遺骸を自主的に返還する政策がカナダで採用され、1995年にカナダ文明博物館 the Canadian Museum of Civilization が、オンタリオの六族連盟会議 the Six Nations Council に返還した。1998年に南西オンタリオからモホーク民族首長会議 the Mohawk National Council of Chiefs へ大量のコレクションが返還された。2000年にカナダ文明博物館からハイダ・グワイ the Haida Gwai へ100件以上返還された。
1998年   The London Conference on Nazi Gold (1997/12/02~04)
1998年 国際法・条約 ワシントン宣言、Washington Conference Principles on Nazi-Confiscated Art
Washington Conference on Holocaust-Era Assets (1998/11/30~12/03)
1999年 国際法・条約 ハーグ条約・第二議定書、Second Protocol
1999年 返還 イギリスからアメリカ先住民族へ、ウッデット・ニー虐殺に関する遺品を返還。
スコットランドのケルヴィングローブ美術館 Kelvingrove Art Gallery からラコタ・スー族 the Lakota Sioux とサウス・ダコタ博物館 the Museum of South Dakota へ、ラコタ・ゴーストダンス衣装 the Lakota Ghost Dance shirt が返還された。この衣装は、1890年のウッデット・ニーの戦い the Battle of Wounded Knee で着用され、1892年にスコットランドに持ち込まれた。グラスゴー市議会で倫理問題として取り上げられた。市議会法律部は、法的に返還義務はまったくないが、所有権移転の権限が市議会にあるとした。保管と展示を条件に返還が実現した。
2000年 返還 イタリアからリビアへ、1939年にナチス・ドイツのゲーリングに寄贈されたカピトリーノのビーナス Capitoline Venus を返還した。
この像は、第2次世界大戦中に戦利品としてドイツからモスクワへ持ち出され、1958年にドイツへ返却された。しかし、その後行方が分からなくなっていた。ベルリンのペルガモン博物館にあることが分かり、ドイツは、美術品略奪を戦争犯罪とするヴィースバーデン宣言 Wiesbaden Manifesto にしたがい、1999年7月22日にイタリアに返還した。すでにリビアは、1965年に要求していたため、この像は2000年にリビアに返還された。現在、アッサーラヤ・アルハムラ博物館 Assaraya Alhamra Museum に展示されている。
2000年 買い戻し 香港のオークションで、1860年に北京・円明園から略奪された青銅製十二支頭部像を、中国の返還団体が購入。
2000年12月 Plunder and Resitution: Findings and Recommendations of the Presidential Advisory Commission on Holocaust Assets in the United States and Staff Report, Decembaer 2000.
合州国にあるホロコースト財産に関するアメリカ大統領諮問委員会の調査報告と勧告
2002年 国際法・条約 Draft Principle relating to Cultural Objects Displaced in relation to the Second World War
2002年 返還 フランスから南アフリカへ、ブッシュマンの遺骸が返還された。
南アフリカ・ケープ州のブッシュマン、コイサン族 the Khoisan people は、17世紀にオランダ人やイギリス人が侵入してから悲惨な状態に陥り、彼らは人間と見なされなかった。グリクア族 the Griqua tribe のホッテントット・ビーナス Hottentot Venus は、性的奇形として、イギリス海軍軍医によってイギリスに運ばれ、ヨーロッパ中で見せ物となった。死後も遺骸が、フランスの人類博物館 the Paris Museum of Mankindで、1974年まで展示された。1994年に南アフリカ大統領ネルソン・マンデラが返還を進め、2002年2月にフランス議会で送還を許可する法案が可決された。彼女(本名 Saartjie Baartnan)は、植民地主義と人種差別主義の象徴だった。
2002年12月 世界博物館の重要性と意義に関する宣言、Declaration on the Importance and Value of Universal Museums
2003年 返還 1868年にイギリスがエチオピアを「懲罰遠征」し、多数の財宝 Magdala Treasures を略奪した。そのうち最も重要とされているエチオピア正教会の宗教的木版タボツ tabot の1点が、エディンバラの聖ヨハネ・スコットランド聖公会 St John's Episcopal Church から、エチオピアへ返還された。
大英博物館にタボツ tabot 11点が収蔵されていて、同じ時期に、貸与として返還されると伝えられたが、実現していない。
2004年 買い戻し アメリカにあったファベルジェの卵 Faberge eggs 9点を、ロシアの富豪が買い戻す。ロシア・ツアー所有のファベルジェ・コレクションには、50個の装飾卵があった。1917年のロシア革命後にセント・ペテルブルグからモスクワへと移され、いくつかが失われた。スターリンが売却を命じ、10個だけがクレムリンに残されていた。
2004年 オーストラリアのビクトリア博物館で、アボリジンの「樹皮に描く Etched on Bark」展が開催された。イギリスの大英博物館と王立植物園 the Royal Botanic Gardens から貸し出されて展示された樹皮絵画2点について、デジャ・デジャ・ウルング族 the Dja Dja Wurrung tribe が返却拒否を主張し、裁判となった。1点は1850年代、もう1点は1870年代のもので、個人コレクションをへて博物館・植物園が購入、収蔵していた。結局、展示物はイギリスに戻された。
2005年 返還 イタリアはエチオピアへ、1937年に持ち出されたオベリスク Aksum Obelisk を返還。
2005年 返還 日本から韓国・北朝鮮へ、1904~05年の日露戦争中に日本軍が朝鮮半島から持ち出した北関大捷碑を、韓国をへて北朝鮮に返還。
2005年 返還 オランダからインドネシアへ、影絵人形を寄贈。ロッテルダムの世界博物館が、ワヤン人形 Wajang puppets 185点をジャカルタのワヤン博物館 Museum Wayang に寄贈した。
2006年  返還 オランダからスリナム共和国(1975年独立)へ、ツロペン博物館 Tropenmuseum にあった絵画、彫像、写真、絹絵などの美術品45点を寄贈。
2006年 返還 オランダの教育文化科学相が交流400年を記念してオーストラリアを訪問した際に、考古資料の返還を声明した。
2006年7月14日 返還 日本から韓国へ、朝鮮王朝実録を返還。朝鮮王朝実録は、朝鮮李王朝の宮廷文書館・五台山史庫から、1913年に朝鮮総督府によって持ち出され、東京大学附属図書館に移管された。全794冊あった実録は、1923年の関東大震災によりほとんどが焼失、74冊だけが残った。そのうち27冊は、1932年に京城帝国大学に移管され、現在ソウル大学奎章閣韓国学研究院に保管されている。残る47冊が2006年に東京大学からソウル大学に返還された。
2007年9月13日 先住民族の権利に関する国際連合宣言、Draft United Nations Declaration on the Rights of Indigenous Peoples
2008年8月 返還 イタリアからリビアへ、1913年に見つかったキュレネのビーナス(浴槽から上がるアフロディテ像) the Venus of Cyrene (statue of Aphrodite Rising from bath) を返還。
長い返還交渉と、2つの裁判所の判決をへて、ようやく返還が実現した
2008年 返還 オランダからインドネシアの西カリマンタンへ、民族資料を返還。現地のシンタン Sintang に新しい博物館ができ、ツロペン博物館 Tropenmuseum とカプチン会教団 the Order of Capuchin が植民地時代の資料を貸与。博物館側は寄贈に備えている。
2009年 返還 オランダからインドネシアのスマトラへ、民族資料を返還。カプチン会教団 the Order of Capuchin がグニイグ・シトリ Guning Sitoli のプサカ・ニアス博物館 Museum Pusaka Nias に、植民地時代コレクションの一部を返還した。
2010年 返還 オランダからスリナム共和国(1975年独立)へ、文書を返還。
1913年に植民地政府は、収蔵庫ができるまで一時的に文書をオランダへ移すことに同意した。2002年から収蔵庫の建設がはじまり、学芸員も養成された。オランダ国立公文書館は、すべての文書をデジタル化。個人情報もあるので、スリナムでは公開に制限がある。
2011年4月 返還 フランスから韓国へ、1866年に略奪した朝鮮王室儀軌などの外奎章閣の図書を、貸与として返還した。
2011年5月 返還 オランダ副首相が中国を訪問した際に、1911年から北京のオランダ大使館にあった18世紀の希少な青銅製香炉を返還した。
2011年7月 返還 ドイツからトルコへ、ボガズキョイのスフィンクス Boğazköy Sphinx を返還。1910年代にドイツ考古学研究所が遺跡を調査し、1917年に遺物をドイツに送った。トルコがユネスコの政府間委員会に申請して、1987年にボガズキョイの粘土板 Boğazköy cuneiform tablets が返還され、その約4半世紀後にスフィンクスも返還された。
2011年12月 返還 日本から韓国へ、朝鮮王室儀軌81部167冊と図書69部1,038冊を返還した。朝鮮王室儀軌は、日本の植民地政府であった朝鮮総督府が、李朝・大韓帝国の宮廷文書館(おそらく五台山文庫)から秘かに持ち出し、1922年5月に宮内省図書寮に寄贈した。図書は、朝鮮総督府を経由して、収蔵年が不明の1冊を除いて、1911年に宮内省に収蔵された。総督府が入手する以前の収蔵者は不明となっている。