【油壺湾】


油壺の名のいわれは、永正十三年(一五一六年)
新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立て
籠もった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に三年
間にわたって奮戦しましたが空しくついに全滅し
一族の将三浦道寸義同(みうらどうすんよしあつ)
をはじめその子荒次郎義意(よしもと)は、自刃
他の将兵も討死、または油壺湾へ等身したと伝え
られそのため湾一面が血汐で染まりまるで油を流
したような状態になったので後世「油壺」と言わ
れるようになりました。           
北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のよ
うに記しています。             
 「今も七月十一には毎年新井の城に雲霧おおいて
日の光りも定かならず、丑虎の方と未申の方より
電かがやき出て両方光入乱れ風猛火を吹き上げ
光のなかに異形異類の物有りて干戈(かんか)
をみたし、虚空に兵馬馳け散り乱れ天地をひび
かし戦う有様おそろしきと言うばかりなり云々」

三浦市説明板から