これは夢だと判っている 暗闇の中誰もいない 歩き出そうにも体がうまく動かない 地に手を付いた両手は小さく子供のようだ 無力だった頃の自分 顔を上げるとぼんやりとした明かりが灯った。それは形を変えて人の姿になっていく。 いつものバカ面ニヤケ面、そして常に絶やさない笑みが見える。 子供の姿になっているせいかひどく心細くて順に声をかけてみる。 「悟空」 「悟浄」 そして次の名前を呼ぼうとした瞬間、八戒は何故か豚の姿に変身した。 「豚?」 すると豚になった八戒は目に涙を溜めてくるりと向きを変えると、そのまま向こうへと走って行ってしまった。 「豚ですか」 ひどく近くで声が聞こえて思わず目を開けるとそこには、俯いて表情の見えない八戒と、ドラえもん手になった悟空と悟浄が怯えていた。 ひどい悪寒がしているのは本当に熱のせいなのか、今の三蔵には判断できない。 「そうですか、僕だけ豚なんですね」 八戒の低い呟きでその場の空気は瞬間冷凍され、悟空と悟浄は手を取り合いカタカタと震えはじめる。 やばい、やばいよ三蔵。いくらひどい熱にうなされてたからって、ずっと看病してくれてた八戒に豚はないよ。何かいつもより八戒が怖ぇよ。すげー吹雪が吹いてくるよ。寒い、寒いよー どーしちゃったのよ三蔵。八戒を豚呼ばわりするなんてどんな悪夢よ。いや本当の悪夢は今だな。夢じゃなくて現実だけどな。事実は小説より奇なりって本当だな。いや俺はそんな本なんか読まねーけどな。ていうか何か向こうの方からペンギンと白くまが仲良くマイムマイムしながらやってくんのは俺の気のせい?ヤベ、何か眠くなってきやがった… 2人が手を取り合ったまま雪だるまになっていく前で、八戒はサイドテーブルの上に置かれた洗面器に手を入れる。カラカラと氷の澄んだ音が響いて、更に部屋の気温は下がり天井にはオーロラが揺らめき始めていた。八戒は洗面器から凍っていないのが不思議なタオルを取り出すと、引き千切らんばかりの勢いで絞り、開いてそっと三蔵の額の上に乗せた。瞬間三蔵が目を見開いたため、眠りの淵に足を突っ込みかけていた悟空と悟浄は、三蔵が凍死したと本気で心配した。 2人の予感は的中し、三蔵は確かに凍っていた。 しかしそれは八戒から発生している寒帯気団のせいではなく、八戒の瞼から大粒の涙がこぼれ落ちたせいだった。 「…折角あなたがくれた名前があるのに」 消え入りそうな涙声は、雪像と化していた悟空と悟浄をも正気付かせる。しかし2人が解凍するよりも早く、八戒は手の平で顔を覆ったまま脱兎のごとく部屋から出て行ってしまった。 「ひでーよ、三蔵!八戒はずーっと三蔵の看病をしてくれてたんだぜ」 「そーよ三蔵。どんな夢みてたんだか知んないけど言い訳なり、誤解を解くなりしないと後が大変よ?何しろアイツときたら、後ろを向いたら一直線っつー特技があるからな」 ちょっと様子見てくるわと言って悟浄が部屋を出ると、俺も行くと言って悟空も後を付いて行った。部屋に誰もいなくなると静けさが戻り、三蔵は大きな溜息を吐いた。 「ったく勝手に変身したのはそっちだろーが。夢と同じにいなくなりやがって…」 豚の姿ではあったが夢の中でも、そして夢から覚めても八戒は泣いていて胸が痛む。 三蔵は一人ごちると、八戒の乗せた冷たいタオルの上に手を置いた。 実はタオルが乗せられたのと同時に八戒から気孔が送られていたのだった。そのお陰で頭痛や悪寒はなくなり、今は発汗して熱はまだ少しあるが体は楽になっていた。 あいつこんな事まで出来るのかと思っていると、壊れるような勢いで扉が開き悟空が飛び込んできた。 「大変だ三蔵!八戒がいないんだ!!」 「カードはあるから買い物ってわけでもなさそーよ?三蔵サマ。けどジープもいないってのはちょーっと厄介かもね」 んじゃ俺達探してくるからと言って悟浄と悟空が消えると、程無くして扉がノックされた。 「お風邪を召されたようで、具合の方は如何ですか?お坊様」 期待した人物ではなく、宿の主人がお盆を持って入ってきた。お盆の上には土鍋と椀、そして湯呑みが乗っていて主人はそれらをテーブルの上に置いた。 「お連れの方が作ってらしたんですが、届けておいてくれと頼まれまして。すぐに食べられるのでしたら、そちらにお持ちしましょうか?」 ベッドの上で横になっている三蔵に主人が気を使うと、三蔵はタオルを取って上半身を起こした。 「いや大丈夫だ。そこに置いておいてくれ」 「そうですか。食欲がおありでしたら、冷めないうちに食べられた方が宜しいでしょう。それからこちらは葛根湯だそうです」 湯呑みを差して説明すると、お大事にどうぞと言って主人は部屋を辞していった。 三蔵はベッドから降りるとテーブルに着き、先ずは何故か茶柱が立っている葛根湯を飲んだ。次に鍋の蓋を開けると、白い湯気が立ち上り薬草の香りが広がる。湯気が引いて中を覗いた三蔵は、蓋を持ったまま固まった。 鍋の中には炊き立ての白い粥の上に紅色の薬草が乗っており、それは大きなハートの形に並べられていたのだった。 三蔵は無言で鍋の蓋を置くと散蓮華を取り、おもむろに粥の中に差し込み、椀にもよそらず食べ始めた。 ――― 絶対完食してやる ――― 固い決意を胸に、三蔵が一人で土鍋を抱えて粥をかっ食らっている頃、八戒は泣きながらジープを運転していた。 ひどいです三蔵。いつもはあの2人のこと猿だの河童だの言ってるくせに、どうしてこんな時に限って僕だけ豚なんですか?!こんな事ならあの粥に豚の頭でも入れておけば良かったです。その周りに薬草をあしらえば完璧でした。僕もまだまだ修業が足りないようですね。そうだ!どうせなら転職してもっと修業を積むというのはどうでしょう。素晴らしいアイデアです!思い立ったが吉日、電話は急げですね。 八戒はジープを止めると三仏神から支給された携帯電話を取り出し、○人事○人事と番号をプッシュした。 「もしもし?」 「はい、○タッフ・サービスです」 応対してくれる女性の声にほっとすると、どこからともなく荘厳な曲が聞こえてきて期待も膨らむ。 「豚は嫌なんです。きちんと名前を呼んでくれる職場をお願いしたいのですが」 「はい、少々お待ちください」 待たされる事1分後、八戒は停止したジープに乗ったまま、見たこともないまったく別の場所へと移動していた。 「え??一体どこですか、ここは?ジープ、あなたが勝手に移動したんじゃないですよね?」 「キュ」 竜の姿になったジープも判らない、と2人して小首を傾げていると後ろから声をかけられた。 「よう、俺がやったんだよ」 「あ、貴方は…」 振り向けばそこには、楽しそうな笑みを浮かべた観世音菩薩と渋顔のお付きの人が立っていた。 「いつぞやは三蔵を助けていただいてありがとうございました。お陰様で元気に妖怪を殺しまく…いえ、任務遂行に向けて旅を続けております」 「で、おまえは旅から脱落か?まぁ任を受けたのは三蔵だから構わんが、嫌になって転職したいそうだな。なら俺の元で働かんか?天蓬元帥、いや今は猪八戒だったな」 「申し訳ありませんが、お断りします」 「ほう、何故だ?」 あまりの即答ぶりに、観世音菩薩は面白そうに片眉を上げる。 「僕の名は天蓬元帥という名ではありません。猪八戒です。名前をきちんと呼んでいただけるのが第一条件ですから、この先も違う名前で呼ばれる可能性があるのは困ります」 では失礼しますと頭を下げると、車に変身したジープに乗って八戒はあっという間に走り去ってしまった。事の成り行きを黙って見ていた二郎神が溜息を吐く。 「宜しかったのですか?ここは天界ですのに。未だに健在している天蓬元帥私設親衛隊の面々に見つかると大騒ぎになると思われますが…」 「その方が面白いじゃねーか。見てるだけじゃなく、奴らも直に会いたいだろーからな。しかしキッパリと断るとはヤツらしいな。あいつの手料理を食ってみたかったんだがな」 「本当にそれだけですか?」 疑わしげに眉を顰めた二郎神に、観世音菩薩は人の悪い笑みを浮かべる。 「判ってるじゃねーか、二郎神。八戒は天蓬の時より可愛くなってやがるからな。メイドの恰好でもさせて色々と奉仕させてみたかったぜ」 「やっぱり……」 八戒の先見の明は天蓬元帥の時と変わらないと感心する一方、絶対似合った筈だと力説している観世音菩薩に、二郎神は深い溜息を吐いた。 一方逃げ去るようにジープを走らせていた八戒だが、右も左も判らない不安から徐々に減速し、やがてジープを止めた。ジープは竜の姿になると肩に止まり、俯く八戒の頬にキスをした。 「慰めてくれるんですね、ありがとうジープ。でも一体ここは何処なのか、僕は何処へ行ったらいいのか全く判らないんです…」 「キュ――…」 心配そうに覗き込むジープを抱き締めた八戒は、そのたてがみを優しく撫でる。とふいにジープが頭をもたげた。 「どうしました?ジープ。あ、何か聞こえますね。何の音でしょう?」 「キュ?」 2人で首を傾げあい耳を澄ますと、微かな音が聞こえてくる。 「何かよく知っているような……、これ人の声でしょうか?」 八戒がそう思った瞬間、体が勢いよく音のする方へと引き寄せられていく。 「わ ―――!?何ですコレ?あ、足が着かないんですけど」 「ピッ!?」 見えない何かに引っ張られように、八戒はキャ―という叫び声と共に下界へと落ちて行く。ジープも八戒を見失うまいと、急いで彼の後を追った。 さて下界では八戒の行方を探していた悟浄と悟空が、街外れの丘の上に座り込んでいた。 とそこへ、愛のお粥を食べ終え完全復活をなしとげた三蔵が姿を現した。 「だーめだ三蔵。ジープに乗った八戒がこっちの方まで走ってきた事は判ったんだが、その先はアウトだ」 「でも変なんだよ、三蔵。こっから見るとタイヤの跡が途中で無くなってるんだ。もし歩いてんなら、こんな何も無いとこ俺ぜってー見つけられるし。本当に八戒どこ行っちゃったんだろう」 捨てられた子犬のような目で見上げられて、三蔵は舌打ちをすると腰を下ろし胡坐をかいた。 「フン、探してだめなら呼べばいいだろ」 「八戒〜って?それはさっきからやってみたけど八戒出てきてくれなかったぜ」 「だよな。それで出てくるようなら最初っから出て行かないっしょ、八戒は。そんでももう一回全員で大声出して呼んでみんの?三蔵」 「そーじゃねぇ。あいつの右目には呪が入れてあんだよ」 意味が判らず悟浄と悟空の目が点になる。 「あ?何よそれ?!八戒のこと呪ってんの?」 「ええっ!?ひでーよ三蔵!八戒のこと嫌いなのかよ?」 同時に叫ばれて、三蔵はハリセンで応戦しながら怒鳴った。 「んな訳ねーだろう馬鹿共が!!!真言も呪と言うんだ。ヤツは巻き込まれタイプだから、余計なモンに巻き込まれねーように呪(まじな)いがしてあんだよ。だが違った遣い方も出来るがな。てめぇら静かにしてろよ」 言うなり三蔵は目を閉じて合掌すると、真言を唱え始める。 何だか判らないがこれで八戒が戻ってくるならいーやと思った悟空と、これは反則ではなかろーかと理解した悟浄だがやっぱり戻ってきて欲しかったので、とにかくここは三蔵に任せて2人は大人しく八戒を待つことにした。 悟浄が煙草を吸う事3本目、片膝を抱えた悟空がふと顔を上げる。そしてキョロキョロと辺りを見回すと、耳に手を当てた。 「何してんの?」 「なんか変な音が聞こえる」 「あ?」 三蔵の邪魔にならないよう2人は小声で話しながら、今度は悟浄も手を当て耳を澄ませた。よく聞くと三蔵の声の間に、確かに奇妙な音が交じっている。2人は顔を見合わせると、音の正体を掴もうとさらに耳を傾けた。 そして音のする方向を聞き分けた悟空が顔を上げ目を凝らすと、今度はそのまま固まった。 「なぁ、何アレ?」 「あぁん?」 悟空が指差す方向に悟浄も目を向けるとそこには、乾いた荒野に突然大きな木が現れていた。さっき見たときは影も形もなかったそれは、だんだんとこちらに近付いて来ているように見える。どうやら音はそこからしていて、ずるずると土を擦る音と低い呻き声が聞こえてきた。悟空と悟浄は顔を見合わせ、もう一度その木を見てみると幹には大きなこぶ、いや人がしがみついていた。 「もしかして、八戒!?」 「何やってんの…アイツ」 2人が呆然としている間に巨木はどんどん近付き、今や心配そうに周りを飛ぶジープの姿もはっきりと見える。 「う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」 そして八戒付きの大きな木は、遂には三蔵の前まで来て止まった。すると三蔵はようやく真言を唱えるのを止め立ち上がり、目の前の八戒を見据えた。 実は八戒は手近にあった大きな木に掴まり必死の抵抗をこころみたのだが、三蔵の法力に負けて木ごと引き寄せられてしまったのだった。そして今や三蔵の仕業と理解した八戒は、木にしがみついたまま目の縁に涙をためて三蔵を睨み上げる。 「僕を強引に呼び寄せてどうするつもりです。豚の僕に一体何のご用ですか?」 豚というよりはコアラになってしまっている八戒の姿に三蔵は目眩を起こし、額に人差し指を当てて必死に耐える。 「何か八戒かわいい」 「オイ、気をつけねーと鉛弾が飛んでくるからな猿。しっかし三蔵も八戒相手だと手段を選ばねーなぁ。にしてもあの木に付いてる白いヒラヒラが気にならねー?」 「あ、俺知ってるよ。確かゴシンボクとかって言うんだぜ。前にその木に登ったら三蔵にすげー怒られたんだ」 「………何かソレ、やばくね?」 「え?それって八戒が怒られるってこと?せっかく戻ってきたんだから三蔵も怒んないだろ?」 顔色の悪くなっていく悟浄を不思議そうに眺める悟空の前で、ようやく目眩を克服した三蔵が口を開いた。 「あのなぁ、夢の中でおまえが豚に変身したんだ。しかも泣いたままどっかに行っちまうし…。せめて名前を呼ぶまで待てなかったのか?」 寝覚めが悪くて仕方なかったと言う三蔵に、八戒は目を瞠る。 「…そう、だったんですか。そういえば夢の内容を全く聞いてませんでしたね。すみません三蔵、僕とした事がとんだ早とちりを」 羞恥のあまり真赤になった八戒は、するすると幹を滑り落ち、そのまま木の根元にペタンと座り込んだ。俯いた八戒の頭に三蔵の手が触れ髪をクシャリと撫ぜる。 「まったくな。もしかして名前を呼んだら夢の中のおまえも元に戻れたかもしれねーだろ。黙ってどっかに行くな八戒。涙も拭ってやれん」 「すみませんでした、三蔵。でも体の具合良くなったみたいですね」 良かったですと言ってはにかむように微笑んだ八戒は、頬に朱を散らし目には涙をためて当社比三割増しは可愛くなっており、辛抱たまらんと三蔵は思わず抱き寄せた。 その途端八戒に引っこ抜かれてきたご神木が傾き、何故か非常に占いを気にする乙女心の悟浄に向かって倒れていく。 「ギャ〜〜〜〜何でこっちに来んだよ!!引っこ抜いたのは俺じゃねぇ!」 注連を引かれたご神木の迫力に圧倒され、一瞬逃げ遅れた悟浄危うし!の場面を危機一髪救ったのは、素敵な悟空の蹴りだった。但し蹴られたのは悟浄である。 「ってーな、あにすんだ猿!!」 「助けてやったんだろ?!木けるより早かったしサ」 「ぜってーわざとだな、このバカ猿」 「何だよ助けてやったのに礼もなしかよ!馬河童」 ご神木は地響きを立てて倒れ、悟浄と悟空のいつもの小競り合いが始まり拡大するにつれ、核シェルター並の2人の世界に入っていた三蔵と八戒にも被害がではじめる。 「ビキッ」 こめかみに青筋の立つ素晴らしい音がして 三蔵の愛銃が火を吹くまで残り1カウント |
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2004/04/04