あまりに悪い山道に悟空と悟浄の小競り合いも聞こえなくなった頃、急に山道が開けて満開の桜が目に飛び込んできた。まるで両手を広げて待っていたかのように、その桜は大きく伸ばした枝に今は盛りの花を咲き誇っている。皆あまりの存在感に圧倒されて声も出ない。 八戒が自然にブレーキを踏んでジープを止めると、ようやく悟空が口を開いた。 「すっげぇきれー。なぁなぁ、ここで弁当食べよーぜ」 「やっぱサルは花より団子だな」 「何だよ!だってこの下で食った方が絶対弁当もっと美味くなるだろ」 「ばぁっか、こういうのは花を愛でるんだよ。ま、俺としちゃ酒もあった方がいいけどな」 悟浄がちらりと視線を投げれば、八戒はハイハイと答える。 「村でいただいた秘蔵酒がまだありますよ。まぁどうせなら、僕もこの桜を見ながらが嬉しいですけどね。三蔵、まだお昼には少し早いですけど、どうしますか?」 「何処で食うのも同じだろ」 そう言いつつも三蔵がジープから降りると、悟空のやったーという大きな声が辺りにこだまする。 桜がそれを笑うように、枝を震わせ花びらを散らした。 杯の中に花びらが一枚舞い落ちて、八戒はそのまま酒を飲み干す。 「ふふ、やっぱり桜の下のお酒は格別ですね」 「おうっ、八戒が作ってくれた弁当もすっごく美味いぜ」 八戒が上機嫌で微笑めば、悟空も絶品の卵焼きを口に頬ばり嬉しそうに返す。幸い前夜は宿に泊まる事ができたので、悟空たっての願いで作られた八戒手製の弁当は、絶品の花見弁当となった。 「ま、俺としちゃ酌をしてくれる綺麗なお姉さんがいてくれれば、完璧だったけどな」 おにぎり片手に手酌した悟浄も言うほど不満な顔はない。悟空との諍いが少ないのはやはり桜を満喫したいのだろう。 それまで黙って食べていた三蔵が箸を置くと、八戒が徳利を持った。 「三蔵」 すぼんだ口を向けられて三蔵が杯を差し出すと、八戒は飲みやすい七分目ほど酒を注ぐ。 秘蔵と言っていただけあって流石に香りが高い。三蔵が一口飲むと杯の中で黄金の波が揺れて芳醇な酒が舌を転がり潤す。 「美味いな」 「でしょう?」 隣には嬉しそうに微笑む八戒、サルと河童の騒がしさも不思議といつもより気にならない。空を覆うような満開の桜を見上げて確かに悪くないと、三蔵も眉間の皺を消していた。 弁当があらかた片付いた頃、三蔵は肩に重みを覚えて振り向き、その正体に驚いた。まるで酔いつぶれたように、八戒が寝息をたてて三蔵に寄りかかっていたのだ。三蔵が言葉を無くしているのと同様に、悟浄も悟空も目を丸くしてその光景に見入る。何しろあの八戒が酔いつぶれて昼寝で熟睡、更には枕にされた三蔵は銃もハリセンも出せないまま動揺の図である。 なんとも言えない沈黙の時間が通りすぎた後、悟空がいつもの何倍も小さな声で呟いた。 「……八戒、疲れてたのかな」 「あぁ、そうだな。そこの鬼畜生臭坊主のせいかもしれねーな」 「ざけんな。てめぇらの世話が大変だったんだろう。今日も朝早くから弁当を作ってたしな」 いつもならこの小さな火花から大騒ぎの火事へと発展するのだが、全員の視線は八戒に釘付けで、呟く声は炎にもならない。 「ま、ドライバーさんがこんな調子じゃ、食後の一服してきても良いってことだろ?おい悟空、お前が花見をしようって言い出したんだろ」 取り出した煙草を咥えて悟浄がにやりと笑うと、悟空はポンと小さく手を打った。 「あ、そっか。じゃ三蔵あっちの方まで桜見てくるな。ジープも行く?」 「きゅ」 八戒の傍らにいて心配そうに見ていたジープは首を上げて頷き、悟空の肩へと移動する。 全員に共通しているのは、八戒の眠りを守る事 「んじゃまぁ、ごゆっくり」 「じゃーな、三蔵」 悟浄が手をヒラヒラとさせれば、悟空もジープと一緒に駆けて行く。その姿はすぐに花の雲間に消えていった。 「……ちっ、あいつら」 悪態も続かず、どちらかと言えば照れ隠しに近い。自分にかかる重さが増して三蔵は、こげ茶色の髪をさらりと撫でると、八戒の頭をそっと膝上に乗せる。そして寝ているのを確認するよう頬を撫でてから、袂より煙草を取り出し静かにライターの火を点けた。 水色の空を遮って白く薄い紅の花びらが重なり広がり花陰を落とす。 ゆるゆると立ち昇る紫煙が風に乱され消えていくのと同時に、花がざわめき視界を覆うように花びらが散る。 と三蔵は桜を見たまま懐に手を入れると銃を取り出し、振り向きもせず背後に向かって構えた。するとクスクスという忍び笑いが漏れてくる。 「随分と物騒な人ね。それを使ったら折角寝ている悟能が目を覚ましてしまうわ」 「試してみるか?」 三蔵が構えを下ろす気がないのが判って、女は溜息交じりに言う。 「悟能を起こすのは貴方の本意ではないでしょう?」 「気配に敏感なこいつが今起きない方がおかしい。貴様、こいつに何をした?」 「あら、私の気配に安心して起きないのかもしれないでしょう?」 確かにそう言える女の名前を一人知っている。しかもこの気配は人でも妖怪でもない。だがそうだとしたら逆のように三蔵には思えた。 「側に近寄れもしねぇくせに、よくも言えたな」 「そんな事はないわよ、もう会ってきたんですもの。それに今も夢の中で一緒にいるのよ。ねぇ、もしこのまま悟能が目を覚まさなかったら、貴方はどうする?」 ひどく楽しそうな女の声に、三蔵は煙草のフィルターをぎりりと噛む。まったく八戒の事を悟能と呼ぶヤツに碌なのがいない。膝上に眠る八戒の頬に触れれば温かく、唇から洩れる規則正しい吐息を確認してから、髪に指を絡ませた。 「この引き鉄を引くまでだ」 「短気な人ね」 声と同時に花が陰ろい、目の前に栗色の長い髪をした女の姿が現れる。三蔵は正面へと銃口を向けた。 「何の真似だ?」 「ねぇ、貴方悟能を諦めてくれないかしら?」 柔らかく微笑む女に、三蔵は瞳を眇めて紫暗の色を濃くする。 「何故俺に言う?決めるのは俺じゃなくてこいつだろう」 「そうかしら?貴方が悟能を諦めてくれれば、彼は今すぐ私の元に来てくれると思うの」 「ならどうしてお前は生きてる時に諦めた?」 「諦めきれないからこうして…」 「こいつがお前と行くと言ったのか?」 かち合った紫暗の瞳がひときわ鋭くなって、女の唇が止まる。 どうあっても諦めない。この強い思いを自分が持てなかった事が、妬ましくもあり羨ましかった。生あるものの力強さ。ましてや強い意志力に適うわけもなく、今あるのは… 女は俯き影となった瞳から一筋涙を落とした。 ――― 淋しい ――― 呟いた声は風のように響いて、女の姿はやがて桜に透けて消えていった。 三蔵は銃を下ろすと懐へとしまい、まるで何事もなかったように二本目の煙草に火を点ける。と今まで固く閉ざされていた八戒の瞼が震えて、ゆっくりと開く。三蔵がそれに気付いて前髪を撫で上げると、仕草に誘われるように翠の瞳がこちらを向く。まだ夢見ているようなぼんやりとした視線に、三蔵が髪に指を絡ませると翠の瞳が大きく瞠られた。 「……えっと、…三蔵?」 「あぁ、よく眠れたか?」 一緒に眠った翌朝よくそうするように、三蔵はまた八戒の髪を梳くようにして撫でる。何度か瞬きをした八戒は、仰向けに体勢を変えると、下から三蔵を見上げた。 自分を見つめる紫暗の瞳は柔らかく、陽の光を集めたような金糸の髪が落ちて、背後には夢のように満開の桜が咲いている。 「まだ僕、夢見ているんですかね?」 「どんな夢だった?」 「花喃が出てきて……よくは憶えてないんですけど、一緒にいた頃の夢だったと思います。何だか幸せな夢でした」 「それで?」 紫暗の瞳に影が落ちたのを見て、八戒は手を伸ばしてそっと三蔵の頬に触れた。 「それで目が覚めたら満開の桜の下、貴方の膝枕でお昼寝してた訳じゃないですか。夢の続きか、もしくは思わず昇天しちゃったのかと思いましたよ」 「何なら天にも昇るような状態にしてやろうか?」 一瞬後、八戒の顔は音が聞こえる勢いで赤くなり、三蔵はそれを楽しそうに眺めた。 「…ちょっと、どうしたんです?何かありました?それともやっぱり、まだ夢の中とか…」 「確かめてみるか?」 頬に触れていた手を取るとそのまま屈み込み、三蔵は八戒に口付ける。すぐに離れる気になれず、舌で唇をなぞれば八戒も応えて舌が絡まる。そのまま撫で合いなぞり角度を変えて強く吸えば、八戒の顎が上がる。唇の端から透明な雫が落ちる頃、手は指を絡めて握り合っていた。 見せつけてやりたいと思った こんな風に自分の前で無防備に横たわる八戒を 自分に応える八戒を 空いていた八戒の左手が上がり、これ以上無理だと言うように、三蔵の後ろ髪を引いてようやく唇が離れる。三蔵が体を起こしても二人を繋ぐ糸はなかなか切れず、手は握りあったままだった。 三蔵が絡んだ指に力を込める。 「で、どうだった?」 「……夢じゃないみたいです」 まるで頭上に咲く桜のように八戒がふわりと笑う。その笑顔は自分といる時にだけ見せる顔だと、三蔵は知っていた。 「俺といろ、いいな?」 「ええ」 三蔵の言葉に笑みを深めて八戒は体を起こす。正面に合わせられた緑の瞳は真っ直ぐに三蔵を見つめる。 「僕は八戒ですから」 花喃がいてどんなに幸せでもそれは過去だと、これは夢だとどこかで判っていた。貴方が付けてくれて、皆が呼んでくれるこの名前が今の自分だと。今を生きるために貴方の側にいるのだと、八戒は愛しい気持ちで三蔵を見つめた。 すると自分が映る紫暗の瞳が近付いてきたので、目を閉じると優しいキスが降りてきた。 額に 瞼に 頬に 唇へと。 もう一度翠の瞳を開けた八戒は、腰に伸びてきた三蔵の手の上に手を重ねる。 「……三蔵、これ以上は困ります」 「何を困るんだ?」 「だってもうすぐ悟空達が帰ってきますし」 言ってる側から三蔵は、八戒の首筋に口付ける。 「三蔵!」 声を荒げても構わず三蔵は、首筋まで赤く染めた八戒を抱き寄せた。 「おまえのやる気に応えるのはやぶさかじゃねーな。安心しろ、既に結界が張ってあるようだぞ」 「え?」 見てみろと言われて首を巡らせ見渡せば、辺りはいつの間にか白く霞がかったようになっている。不自然な霧と人ならざる気配に警戒を漲らせた八戒を、三蔵は強く抱き締めた。 「……どうして」 「諦めきれないんだろう?」 「誰がですか?」 「お前を眠らせたヤツだ」 見つめる紫暗の瞳は思いの外真剣で、八戒は力を抜くと三蔵に身を預ける。 「それなら僕は、貴方のお陰でここに帰って来れたんですね。ありがとうございます、三蔵。言われてみれば落花のお酒を飲んだ時一瞬くらりとして、それから徐々に意識が遠くなったように思えます。だとしたら……」 二人は顔を見合わせると同時に桜を仰ぐ。見渡す中では一番大きい古木の桜だった。 「ふ…ん成程な。なら諦めさせる手っ取り早い方法があるだろう?」 「三蔵、僕ギャラリーがいる前ではちょっと…」 「人じゃねぇだろ。それともこの木を吹っ飛ばすか?」 「……それも確かに惜しいですね」 八戒が悩んだのは数秒だった。そして三蔵を見つめ返す。 「判りました。それで貴方を諦めるなら」 額が触れ合う距離で言われた言葉に、翠の瞳に宿った強い光に、三蔵は唇の端に笑みを作る。 「声を殺すなよ」 聞かせてやる 自分を呼ぶ声を 求め受け入れ乱れる姿を見せてやる 誰にもやらない こいつは俺のものだ やがて花の霞が消える頃、桜の色にほんのり赤味がさしていた。 |
<back> |
2005/04/07