目の前にライトアップされた東京タワーを見上げながら、明智はoff
white のトレンチコートを羽織りベンチに座っていた。今日は朝から雨だったが、今は春らしくイルミネーションに靄がかかり普段とは違う夜景の中、時折雫が落ちる程度だった。
雨がレンズに掛かり、ハンカチで拭おうと外した眼鏡が忽然と消える。
「?」
「お待たせしました」
眼鏡の代わりに聞き慣れた声が落ちてきて、明智がそちらを向けば眼鏡が顔の上に戻ってきた。雫のないクリアな視界の先には高遠の顔。
「こんな所で待っていないで下さい。待つならせめて屋根のある所にしていただきたいです」
咎める口調で、それでいて困ったような笑みを浮かべながら高遠は、缶コーヒーを明智に手渡した。顔には必要最低限の変装らしく眼鏡を掛けている。冷えた指先に缶コーヒーは温かく、明智の顔が自然と綻ぶ。
「でも何も無かった訳ではありませんから。これで充分凌げましたよ」
仰げばそこには、満開の桜が夜空を覆っていた。
「それで僕をここに呼び出したのは、まさか…」
「ご名答です。一緒にお花見はいかがですか?夜の桜も綺麗ですよ」
固まる高遠という珍しい光景を目にして、明智は笑みを深めた。
「いけませんでしたか?」
「からかってますね、明智さん」
指名手配中の殺人犯と一緒に堂々と外を歩こうという警視を、高遠は据わった目で見つめた。
「いいえ、だって綺麗じゃありませんか?ここは東京タワーのライトアップも一緒に鑑賞できる絶好のスポットなんですよ」
言われて見れば目の前の東京タワーに、はち切れんばかりの桜が枝を伸ばしている。しかし春とはいえ今夜は肌寒く、その上雨ときては花見日和とは言いがたかった。
「こんな天気の中を、ですか?」
明智の心中を読めずに、高遠は訝るように眉を顰める。
「ええ、そうです。"三日見ぬ間の桜"というくらい桜の咲いている期間は短いのです。それに雨も悪い事ばかりではありませんよ」
どうやら本気で花見をしようと言っている明智に、高遠は溜息を吐いた。
楽しそうに微笑まれては、勝ち目はない
元より自分は明智に会いに来てしまっているのだから
「判りました。ご一緒します」
「では、行きましょう」
トレンチコートに袖を通した明智は、高遠の肩を抱くようにして歩き始める。一瞬明智の顔を見つめて高遠は、その力に抗わず歩調を揃えて歩き出した。
そこは大きな寺を中心に、広範囲の敷地に桜が植えられていた。周囲をぐるりと歩道が囲っていて、歩きながら花見をするにはお誂え向きとなっている。すぐ脇は大通りだったが昼間ほど交通量はなく、2人は街灯に照らされた桜を観ながらゆっくりと歩いた。
視線を下に向けた高遠は、敷地内に張り巡らされたロープに気付いた。桜の根元を中心にロープが区分けした箇所がいくつもあり、団体名の書かれた紙が置いてある。
「判りましたよ明智さん。雨の良いところが」
「気に入って貰えましたか?」
「……ええ」
答えながらも視線は合わせず、高遠は缶コーヒーに口を付ける。
「それは良かった。これくらいなら傘を差さずに済みそうですしね」
言いながら桜を眺めて、明智は微笑する。
「少し中に入りましょうか。この先は少し桜が途切れていますから」
歩道を外れて敷地内に足を踏み入れた明智の後を、高遠も続く。街灯の光は少し遠のいたが、それでも歩くには困らない程度の明るさがある。2人はロープの間を縫うようにして歩いていった。
たまに花見客も点在したが、片手の指で間に合うほどでロープの中はほとんど不在だった。雨のせいか騒々しい雰囲気はまったくなく、大学生とおぼしき若者達がランタンを中心に静かに話しをしながら飲んでいる脇を通り過ぎる。暫く歩き境内へと足を踏み入れると流石にロープは無く、人影もなくなり静けさに満ちている。足を止め、東京タワーをバックに咲き誇る桜を見ながら高遠が呟いた。
「日本人って不思議ですね。どうしてこんなに桜が好きなんですか?」
「少し前には梅見というのもありますが、今か今かと待つうちに、あっという間に散ってしまう桜の方が確かに人気はありますね。そこが日本人の心を惹きつけてやまないのかもしれませんが」
花弁が一枚落ちてきたのを眺めて、明智は高遠を見つめた。
「貴方はいかがです?」
「そうですね、こんな風に桜を観たのは初めてです。やっぱり綺麗だと思いますよ」
そう言って桜を見つめる高遠の表情が柔らかくなる。口元に笑みが零れるのを見て、明智は目を眇めた。
連れ出して本当に良かったのかと、後悔にも似た気持ちが沸き起こる
彼が生きていく上で、警戒が消えるのが良い事だとは思えない
けれど ―――
「明智さん、貴方は?」
「好きですよ」
問われた言葉に笑みで答える
自分の前でだけならと思い直しながら
すると満開の桜の下で、高遠が花のように微笑んだ。
その頬に手を添える。
「明智さん?」
「黙って ―――」
囁き高遠を引き寄せ、コートで包むようにして抱き締める。腕の中で高遠が息を呑み、身体を緊張させたのが判る。こんな公の場で抱き締めた事などなかったからだ。雨を含んでしっとりと濡れた髪に口付ければ、更に身体を固くした。
「こんなに冷えて、コートを着ないからですよ」
「明智さんっ、こんな所で」
抗議しながら慌てて離れようとした高遠の眼鏡を外してしまう。
「 ―― え」
不意をつかれて動きを止めた彼に、そのまま口付ける。角度を変えて閉じられた唇をなぞれば、諦めたように離れようとしていた手から力が抜けていく。けれども舌は入れずに唇を離し、替わりにもう一度深く抱き締めた。
高遠は抗わずに明智の肩に頭を置くと、吐息のような声で呟いた。
「…何かありましたか?明智さん」
「そうですね、こうしていれば近寄って来れないと思いまして」
「え?」
顔を上げようとした高遠の頭を左手で押さえると、明智は緩やかな力でもう一度自分の肩の上に乗せた。
「そのままでも見えると思いますよ。歩道の所です」
高遠が明智の肩越しに見たのは、あまりこちらを見ないようにして歩く警邏中らしい二人の警官だった。
「貴方の視界から消えるまで、このままです」
抱き竦められコートで包まれた自分は、明智との身長差を考えればただの恋人に見えただろう。高遠はそろりと両手を上げると明智の背中へと回し、肩に頬を押し付けたまま瞳を閉じた。
自分が選んだ道を後悔しそうになるのは、こんな時だ
二人で居るところを見られて困るのは明智の方だ
それが判っているのに、会うのをやめる事が出来ない
高遠は背中に回した手に力を込めて、明智のスーツに皺を作った。
「そういえば、大通りの向こうに交番がありましたね」
離れた後も押し黙っている高遠に、明智は話し掛けた。
明智が車道側を歩き、自分は桜を眺めていたためそれに気付かなかった事を知って、悔しさに唇を噛んで高遠は俯いた。
完全に浮かれていて警戒を怠り、明智に助けられたのだ
ひどい失態に強く握り締めた拳の中で、爪が手の平に食い込んだ。
顔を上げない高遠を置いて、明智は少し離れた所に咲く桜の下へと移動した。
「一本桜の銘木を鑑賞する花見から、並木桜を楽しむ花見に変わっていったのは江戸後期の頃だそうですよ」
高遠を見ずに桜を仰ぐと、その先には照らし出された東京タワーの姿がある。
「町内や長屋で揃って参加する催しになったからだそうで、それからは身分差別なく誰もが参加できる社交場になり、そのまま現在に受け継がれたんですね」
漸く顔を上げた高遠に、明智は微笑む。
「桜の下で楽しむのは、今も昔も変わらないという事ですね」
明智の言わんとするところが判り、高遠はこのまま消え去るのをやめた。
一つ溜息を吐くと、困ったような笑みを口元に乗せる。
「判りましたから、眼鏡を返していただけませんか?」
にっこりと微笑んだ明智はもう一度高遠の元に戻ると、眼鏡を返しながら耳元に囁いた。
「もしかして、中途半端でやめたから怒ってました?」
「明智さん!」
「そんなに困らせないで下さい、すぐに続きがしたくなりますから。もう少しで一周なんですから」
肩を抱くようにして促せば、高遠も一緒に歩き始める。
睨んでくる瞳の下には朱が走っていて、明智は肩に置いた手に一瞬力を込めると、楽しそうに微笑んだ。
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