休日を好天に恵まれ、久々のトレッキングで充実した一日を過ごした明智は、心地良い疲労感に浸りながらハンドルを握っていた。しかしその余韻も、カーナビが知らせた交通情報により終わりを告げようとしていた。一瞬顔を曇らせた明智だが、渋滞の長さと都内までの距離を比較して、手近なインターから高速を降り国道を走る事にした。降りた国道も決して空いている訳ではなかったが、まったく動かない高速よりもましである。それに時折車窓に現れる、民家の庭先や街頭に咲いた辛夷や木蓮、連翹に紫荊などが赤信号の苛立ちを緩和してくれる。
「たまには良いものですね」
春を謳歌する花達を横目に、明智は機嫌を損なう事なく帰路への道を辿った。
「ルートが変わりました」
春の宵も過ぎた頃、慣れぬ国道に間違えた道をカーナビに指摘されて、明智ははっとした。
「少し浸り過ぎましたか…」
間違えた地点に戻るか、それともこのまま進み迂遠しながら国道に戻るか、明智はUターン出来そうな場所を探しながら車を走らせる。小さな川に掛かった太鼓橋を渡ると、見事に並んだ花明かりが見えた。目に飛び込んできた夜桜並木は果てが見えず、明智は思わずウィンカーを出してハンドルを切った。桜堤の下にあった駐車場とおぼしき空き地に車を置くと、明智は車両進入禁止のパイプの向こうに続く桜並木の入り口に立つ。連なる提灯の明かりに照らされた桜に誘われるように、明智はどこまでも続く桜のトンネルをくぐり始めた。
これだけ見事な桜並木、まだ夜も更けきらぬ時間であるにも拘らず何故花見をする人が居ないのか、不思議に思っていた明智だったが歩くうちに理解した。急傾斜な堤の両脇は、夜間で見えにくいが恐らく田畑が広がり、又少し離れた所々に人家もあり、シートを敷いて花見をする適当な場所がないためのようだった。そう言えばここに来る手前の国道で、宴もたけなわな花見客と桜の一群を見てきたのを明智は思い出した。恐らくそちらに花見客が集中するのだろうと推測して、明智は美しく咲き誇る桜を眺める。
「随分と贅沢ですね」
いつ終わるともしれぬ桜並木を歩きながら、明智は極上の気分を味わっていた。
どれくらい歩いたか。小さな陸橋を渡りしばらくした所で、提灯の明かりが途絶えていた。しかし桜並木は終わる事なく更に奥へと続き、未だ果ては見えない。街灯もない闇へと続く細道を、明智は誘われるまま再び歩き始めた。
月明かりを頼りに歩くと、やがて目は夜に慣れて闇に映える桜は限りなく白に近く、ほんのりと明るい。
相変わらず人と出会わず音もなく、ただ十六夜の月だけが影を落とす。
浮世を忘れる時に、明智は高遠を思い浮かべた。
何故かと自問したその時、前触れもなく風が吹いて、桜が笑い花弁が舞う。
一瞬視界を奪われ右腕で顔を庇った明智だったが、花吹雪の美しさにゆっくりと腕を下ろす。と闇の向こうにぼんやりと人影が現れた。体の表面に軽い緊張が走り、明智は目を凝らしてその人が有視界に入るまで待っていると、向こうから声を掛けてきた。
「今晩は、明智さん」
思わぬ声に立ち尽くした明智へと、その影は更に近づき顔を見せる。
「お久しぶりね」
明智の前に現れたのは近宮玲子だった。
月に雲が掛かったためかアスファルトの影はひどく曖昧で、闇に近付いた辺りを満開の桜がほのかに照らす。
押し黙ったままの明智に近宮は微笑んだ。
「明智さん、折角だから一緒に歩かない?」
変わらぬ声と姿そして笑顔に明智は、彼女が稀代な天才マジシャンだった事を思い出す。
――― こんなマジックがあっても良いじゃないですか ―――
この状況を甘んじて受ける事にした明智は、近宮に笑みを返す。
「そうですね。ご一緒させていただきます」
答えながら明智は、今彼がここに居ればと強く想った。
けれど花人が増える事もなく、2人は闇に向かって先の見えない桜並木を歩いた。
「奇麗ね、マジックなど足元にも及ばないくらい…。きっとこれが本来の夜の桜なのね」
伸ばした手を、はちきれんばかりに咲く桜の一枝に近付けながら、近宮は呟きを洩らした。
「ええ、私もこんな風に桜を観るのは初めてです。閑かなのに華やかで、長く歩いているとこちらが見られている気がします」
ふとした沈黙の後、明智は申し訳ありませんと近宮に謝罪した。
「どうしたの明智さん、何故謝るの?私は貴方からアイデアを貰い賛辞を戴き、花束を受け取ったわ。時に鋭い意見も頂戴して、本当にマジックを愛する良き理解者出会えてとても幸運だった。だから私は貴方にお礼を言いに来たのよ。ありがとう明智さん」
それを聞いて明智は静かにかぶりを振った。
「いいえ、私はお礼を言われるような事はしていません。むしろ何も出来なかったのです。彼よりも先に真実に辿り着けなかったため、警察という組織にいながら貴方を死に追いやった被疑者達を検挙する事も出来ず、貴方の大切な人の手が血に染まっていくのを、観客として眺める事しか出来なかったのです」
感情の起伏を見せず静かに語った明智を見つめ、近宮は視線を戻した。
「そう……なら私の仕掛けも間に合わなかったのね」
冬が戻ったような呟きに明智は沈黙で答えたが、桜を見つめて付け足した。
「ただ、取りは貴方に譲りましたよ」
思わず近宮の足が止まり、併せて明智も立ち止まる。
「ねぇ明智さん。貴方は怒るかもしれないけれど、私今とても嬉しいの。あの人の母親でいる事は出来なかったけれど、こうして繋がりを感じる事が出来て…」
目を伏せた近宮は少し俯いて、言葉通り笑みを浮かべた。その仕種は明智に高遠を思い起こさせる。
「心残りはこの目であの人のマジックが見られなかった事。でもこれが、母親よりもマジシャンを選んだ事への報いなのかもしれないわね」
つと顔を上げた近宮は、明智に晴れやかな顔を見せた。
「ねぇ明智さん。あの人のマジックはどうだった?」
期待に目を輝かせた少女のような表情に、明智の瞳が柔和になる。
「初めて出会った時、既に彼はすご腕のマジシャンでした。その時彼はマジックで、二度も私を助けてくれたのです。それと知らずに再会した時は、貴方を彷彿とさせる鮮やかなマジックショーを披露してくれましたよ」
純粋にマジックを評価した明智の口元に笑みが浮かぶと、近宮も微笑んで桜の向こういつの間にか顔を出していた月を見上げた。
「明智さん、私ねあのトリックノートを書きながら思った事があるの。きっと貴方はあの人に出会うだろうって。そして私が消えてもあの人の中で私のマジックが生き続ければ、とも思ったわ。きっと今あの人は、私を越えようとしているマジシャンなのね」
明智は瞳に浮かんだ翳りをレンズの奥にしまったが、それでも胸は塞がれ息苦しくなる。
「しかし私は彼を……」
その時風が明智の言葉を遮るように吹き、花弁が闇に次々と舞って明智は言葉を奪われる。
どこかでこれと同じ光景を見たと思う。
明智は目の前に立つ近宮の笑顔で気付いた。
――― これは近宮玲子のマジックだ、と ―――
桜の花弁は後から後から絶え間なく舞い、そして散る。
明智は桜吹雪に覆われて眼鏡に花弁が当たった。目を閉じたほんの一瞬、透けるような笑みを残して近宮は消えた。
花の舞が収まる中、明智は一人取り残される。近宮の姿が消えた先に、いつの間にか桜は終わり闇が口を開けて待っている。明智は足を踏み出しそこへと向かう。桜の天井が終わると道は夜空に向かうように上り、明智は登りきった所で足を止めた。眼下に川は静かに流れ、開けた視界に夜は広がり、空からは十六夜の月が明智を見つめていた。
ふと目を開けると、フロントガラスに花弁が敷き詰められている。ダッシュボードの上にあった眼鏡を掛けると、散り花の間から明かりの消えた提灯と桜並木が見えた。駐車場に車を置いた途端、疲れが出て居眠りをしてしまったのか。
そう思った明智は無意識に眼鏡のブリッヂを上げたその時、視界の隅に何かが過り身体を固くした。
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