Get under cover |
「怪我の功名とは言い得て妙ですけど…」 空を見上げて八戒は、落ちてきた雨粒に店の軒先で傘を広げた。今日の天気予報では雨は降らないはずだった。けれど雨の降る日は腹の傷が疼くので、八戒は傘を持って出掛けて来ていた。 「あら、用意がいいわね」 「ええ、家までちょっと距離がありますから」 話しているうちにも雨足は強くなっていく。 「随分ひどい降りになってきたわね。もう少し弱くなってから帰ったら?雨宿りしていきなさいよ」 気のいいパン屋のおかみの言葉に八戒は笑みを浮かべた。 「ありがとうございます。でもこのくらいなら大丈夫ですから。傘もありますし」 「でも今日はスーツじゃないの。折角のいい格好が台無しになるよ。あ、それならちょっと待ってて」 おかみは店の奥に引っ込んだがすぐに戻ってくる。その手には新品のレインコートを持っていた。 「これ着てって。くじ引きで当てたものなんだけど、うちの亭主には大き過ぎて使ってないのよ」 「え、でも傘はありますし」 「今度来てくれた時に返してくれればいいから。この前教えてもらった料理、亭主と子供に好評なのよ。そのお礼」 持っていた買い物袋を取り上げられウインクをされれば、八戒も観念して笑うしかない。 「判りました。じゃあお借りしていきますね」 「気を付けてお帰り」 アイボリーのレインコートを着た八戒は、軽く会釈をして雨の中を歩き始めた。 雨は弱まるどころかますます激しくなり、時たま吹く風が顔に雨粒を当ててくる。確かにレインコートは正解だったようだ。雨で滑り落ちそうになるビニールの買い物袋を抱え直しながら、八戒は足早に歩く。まだ夜になっていないとはいえ、雨は未だに過去へと誘う扉であり、自失する事がある。傘もささずに雨の中を何時間もさ迷い歩いたり、立ち尽くしていたり、倒れていた事もある。そんな時は同居人である悟浄が、連れ帰ってくれる。あまり心配をかけたくないし、迷惑をかけたくもない。ただでさえ家に置いてもらっているのだから、これ以上は… 八戒は傘の柄をしっかりと握り、自分自身を叱咤するように更に足を速める。雨は止む気配もなく、音を立てて責めるように八戒に降り続ける。そんな雨を少しだけ遠ざけるレインコートと腕にかかる食料品が、今の八戒を支えて家路へと向かわせた。 無事に家へと辿り着いた八戒は、玄関にレインコートをかけて買い物袋をテーブルへと置いた。 「 ――― 正直、助かりましたね」 正気で家に戻れた事に安堵の溜息を吐くと、八戒は買ってきた食料品を片付け始めた。冷蔵庫を閉めた丁度その時チャイムが鳴って、八戒は玄関へと向かった。 「……三蔵」 そこに居たのは悟浄ではなく、外では待っていられないとばかりにずぶ濡れになった三蔵が立っていた。突然の来訪とその姿に唖然としたがそれも一瞬で、八戒は大急ぎでバスタオルを持ってきた。 「早く入って下さい。このままだと風邪をひきますからお風呂に直行して下さい」 「お前は随分と用意が良かったんだな」 濡れた傘と雨の伝うレインコートを見て、三蔵はタオルを受け取る。 「傷が疼くので雨の降る日は判るんですよ。でもレインコートはパン屋のおかみさんが貸してくれたんです。ほら、今日はこんな格好をしていたので濡れたら大変だろうからって」 髪から落ちてくる雫を被ったタオルでうっとうしそうに拭きながら、三蔵は改めて八戒の姿を見た。ネクタイを締めたスーツ姿の八戒は初めて見るもので、普段の静けさにインテリが加わり固い雰囲気となって、いつもと違った印象を受ける。モノクルではなく眼鏡をかけているせいかもしれないと、三蔵はどこか引っかかるような気持ちで八戒を見つめた。 「僕の事はいいですから、三蔵早く入って下さい。貴方は濡れ鼠なんですから」 焦れたように言われて、三蔵はようやくその場を動き出す。 「あ、夕飯食べていきますか?」 「あぁ」 止みそうもない雨を窓越しに見た三蔵は、答えてバスルームへと消える。三蔵を見送った八戒も同じように雨を見つめて溜息を吐いた。安堵と憂いを混ぜて自嘲気味な笑みを窓に映す。三蔵が来てくれて嬉しい半面、彼の存在に頼ってしまい雨の夜を一人で越せない自分の疎ましさに溜息が出た。けれど、やはり彼に会えたのは嬉しい。 蝸牛が通った後のように濡れた床を拭きながら、八戒は夕飯のメニューを考えた。 三蔵がバスルームを出ると、そこにはきちんと畳まれたタオルと着替えが用意されていた。ネイビーブルーのシャツに袖を通し、白のコットンパンツを穿けばどうやら八戒の服のようである。悟浄の服でない事にほっとして三蔵が部屋に戻ると、八戒がコーヒーポットを持って顔を出した。 「コーヒーいかがですか?」 「ああ、貰おう」 三蔵が椅子に座ると八戒は、テーブルに置いたマグカップにコーヒーを注いだ。何度かこの家に来るようになってから八戒が買ってきた、三蔵専用のマグである。ゆっくりと音を立てて褐色に満ちていき、白い湯気がほかりと浮かぶと芳ばしい香りに包まれる。八戒がどうぞと言って目の前にコトリと置いた。それまでお茶を飲む事が圧倒的に多かった自分をコーヒー好きにさせたのは、間違いなく八戒の淹れるコーヒーのせいだった。そして八戒が雨が苦手な事を知った時も、このコーヒーがあった。だから今日、雨宿りの場所をここに選んだのだ。予報外れでずぶ濡れになり最悪な気分を浮上させるためでもあり、八戒の顔を見るためでもあった。いつもより苦く感じながら、それでも美味いコーヒーを淹れてくれた器用貧乏なヤツの顔を見た。 「お代わりありますから、夕飯が出来るまでゆっくりしてて下さい。体がすぐに温まるように雑炊にしちゃったんですけどいいですか?」 「ああ、ところでこれはどうしたんだ?」 椅子にかけられたスーツとネクタイを三蔵は目で指し示した。 「今日面接だったんですよ。仕事が決まったら報告に伺おうと思ってたんですけどね」 成程と納得してコーヒーを飲んだ三蔵は、珍しく直線的な八戒の視線とぶつかった。 「何だ?」 「いえ、貴方の洋服姿を初めて見たのでちょっと新鮮で。そうしてるととても最高僧というか、お坊さんには見えないですね。悟浄の服の方が似合ったかなぁ、とか思いまして」 「河童の服なんざごめんだな」 それを着るくらいなら裸でいた方がマシ、とでも言うような三蔵の態度に八戒は笑いを零す。 「でも着方が判って良かったです。僕お手伝いしなくちゃかな、とかちょっと思ったんです」 「お前な…。着物の下に着てるのはタンクトップとジーンズだろうが」 「あ、そう言えばそうでしたね」 にこやかにしている八戒に、呆れた顔をしながらも内心ほっとした三蔵は、もう一度椅子にかかったネクタイを見た。 「確かにそれはねぇがな…」 「じゃあしてみます?良かったら僕が絞めて差し上げますよ」 楽しげな瞳は雨の日には珍しい事だと、三蔵は八戒の申し出を受け入れた。 襟にするりと通した後、八戒は三蔵の胸の上でネクタイを交差させる。 「えっと、反対だから…」 形の良い手が時々止まりながら、ゆっくりとネクタイを結んでいく。三蔵は間近にある真剣な顔を見ながら、これは八戒以外にはさせられない行為だなと思った。これ程近くにいて嫌悪が沸かないのも、首元を絞められる行為に警戒心が生まれないのも、こいつだけだろう。やがて首元を軽く絞められ形の良い指が離れていった。 「こんなものですかね。どうですか?初体験のご感想は」 「少し苦しいが、悪くはねぇな」 そう言って三蔵は、離れずにいた八戒にキスをした。驚いた八戒は綺麗な翠の目を丸くして固まっている。その顔に三蔵は悪戯が成功した子供のように口の端を上げた。 「ちょっ…三蔵、突然…何ですか?」 口元を押さえて言葉を詰まらせる八戒は、スーツを着ていた時と違って取り澄ました風もなく、本当に悪くないと三蔵は目の前の体を抱き寄せた。 「お前が一生懸命になってるのを間近で見られて悪くないと言ってるんだ。こんな隙も出来るしな」 囁きながらカフスごと甘噛みした三蔵は、しっかりと腰を抱いて身体を密着させる。 「三蔵、僕いつも真面目ですけど」 不満そうな声とは裏腹に、八戒は力を抜いて身体を預けると背中に手を回す。現れた首筋に三蔵が唇を寄せても抵抗はなく、逆に八戒の手に力が篭り肩に頭を乗せて温もりを伝えあう。雨の日の八戒は、こんな風に素直に身体を預けてくる事が多い。普段はあまりない事だが、温もりを欲しがるように触れたがる。無意識なのか、自我を無くす事を恐れているのか、追憶を辿っているのかは判らない。そしていつもと違う声音で、誰にも真似出来ない響きを持って名を呼ぶのだ。 「 ――― 三蔵」 肩に額を付けてくぐもった声で呼ばれた名は身体の奥まで浸透し、簡単に熱を生み出す。三蔵は抱き締めている手に力を込めた。 「………火が」 顔を上げて少しだけ離れた八戒を咎めるように、三蔵は口付ける。 「今、食いたいのは雑炊じゃない」 「 ――― 僕の部屋に鏡があります。まだ自分の姿を見てないでしょう、三蔵」 折角結んだんですからと小さく言い添える八戒に、三蔵は触れるだけの口付けを繰り返す。それ以上欲しがるように少し開いた唇を残して身体を離すと、八戒は淋しげな瞳から咎める視線を向けてきた。ベッドまでの我慢を強いられる仕返しとばかりに三蔵は、いつもはすぐに外す眼鏡すら取らない。 「そうだな、折角お前が結んだネクタイだ。一応見ておくか」 唇の端を上げて三蔵は、八戒の脇をすり抜け部屋へと向かう。 もっと焦らせてやりたいと思う そしてもっと欲しがればいいのだ 自分以外考えられないくらい乱れさせたい 夢すら見れないくらいに抱き締めたい 特にこんな雨の日は ベッドの上に座る間も無く部屋に現れた八戒に、手を伸ばして三蔵は望みどおりに眼鏡を外す。そして深い口付けを与えながら八戒をベッドの上に押し倒した。満足するまで長いキスをして漸く顔を離すと、翠の瞳は熱を孕み溶けながらも真っ直ぐに自分を映していた。そして形の良い指が髪から首筋を滑り降りて、喉元に掛かる。 「どうでした?」 「性に合わねぇな」 「似合ってますよ、でも結構苦しいでしょう?」 「そうだな、もう十分だ」 三蔵の答えに八戒は凄艶に微笑むと、時間を掛けて結んだネクタイをあっという間に解いてしまった。 |
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2005/09/08