慶雲院の奥まった一室から低く淀みない声が響いている。しかしその声は楼門に詰めている見張りの僧兵の耳には届かない。起きているのは不寝の番くらいの深夜に聞き咎める者はなく、やがてその声も止んだ。その声は誰にも届いていない。結界の張られた部屋で唱えられていた真言は、外に洩れる事がなかったからだ。今夜は月も星もなく、ただ闇だけが広がっている。然しながらさほど大きくない部屋には灯りがあり、燭台の上の蝋燭が炎を揺らめかせている。灯りの下には白い単を着た八戒が寝台の上に横たわっている。目を閉じた寝顔を傍らに立つ三蔵が見つめ、その秀麗な顔も蝋燭の火は照らしている。揺らめく炎は明かりを届けると共に、暗影をも浮かび上がらせる。部屋の壁に映し出された大きな影がゆっくりと動き出し、やがて横たわる影と一つになった。
 三蔵は八戒の上に覆い被さると、閉ざされた右の瞼の上に口付ける。すると睫毛が震えてゆっくりと両の目が開き、美しい緑の瞳が現れた。けれどその瞳は三蔵を映しはしても見てはいない。空ろな瞳はまるで夜の窓のようにぼんやりと三蔵を映している。無機物な右眼に有機物の左眼。生きる強い光や意志を示す視線のない緑の珠玉はそれでいて尚、美しさを放っている。三蔵は閉じない緑の瞳を見つめながら、答えない唇に口付けた。

 「どうして離れた?」
 
 そう呟いて



 義眼の経過を定期報告に組み込んだのは八戒だ。あまり代わり映えしない短い世間話だけでなく、少し実のある報告がしたいと言って。そのため病院帰りに慶雲院に寄る事も多く、そうすると森の中の一軒家に帰り着く頃には夜中になる。
 「別に夜道は恐くありませんよ」
 そう言った八戒は、その痩身から想像出来ない力を宿している。人間であった時でさえ、一振りの刀で千人もの屍を築いた男だ。その後妖怪になった体はそれ以上の力を持っているのは疑いようがない。
 しかし天候を理由に慶雲院に宿泊させた事がある。問題なのは外的な力ではなく内的な精神だ。特に雨の夜は過去に闇に引かれる。捉えた頃の姿を思い出して、戻って来ないのではないかと、不安と焦燥に駆られる。その日、意識のないまま雨に打たれ続ける姿を見つけた三蔵は、自分の中で何かが壊れる音を確かに聞いた。それは今まで漠然としていたものがはっきりとした形になり、表面に現れただけの事だった。雨で張り付いた白い単が透けて痩身の体をくっきりと見せていて、嗜虐の熱が生まれ欲情に駆られたのだ。濡れたままの八戒を部屋へと連れ込み、怒りにも似た熱を持て余しどうしようも出来ず、三蔵はそのまま彼を抱いた。その間八戒は正気に返ることもなく、愛した女の名を呼ぶこともなく、三蔵から与えられる熱を一方的に受け止めた。拷問に近い責め苦を受けた八戒はやがて意識を失い眠りに就く。その表情に三蔵は愕然とした。そこに見たのは罰を受けて安堵したような安らかな寝顔だったのだ。
 以来三蔵はこの躯に手を伸ばすのを止める事が出来ない。それが救いになどならないと知っていながら。




 触れただけの唇から頬、そして顎から首筋へと唇で辿り、合わせに手を入れ肌蹴させる。蝋燭の炎に照らしだされた白い肌は緋色を帯びてひどく艶かしい。三蔵は唇で鎖骨に触れ、手の平でなだらかな胸を撫でる。と八戒の躯が跳ねるように反応する。三蔵は冷たい笑みを浮べると、その表情とは裏腹に唇と指とで痼りはじめた胸の突起を優しく愛撫し始めた。唇で食み舌で弄り軽く甘噛みし、手の平で転がし指で挟みたまに爪で掻くようにして、ゆっくりと愛撫を与えると、八戒の唇から熱い息が漏れ出し、躯は感じるたびに跳ね上がる。意識の記憶はなくとも躯は抱かれるたびに三蔵を覚え、応えていく。空いていた片手を背中へ回し抱くようにして肩甲骨を撫でると、それだけで八戒の躯は感じて震える。以前は無かった事だ。荒い息に喘ぎ声が混じるようになって、三蔵は胸から更に下へと唇で辿り大きな傷痕に触れる。片手でたやすく帯を解いた三蔵は、完全に塞がった傷痕を癒すように舐める、と八戒の声色が変わった。
 「ぃやああぁっ……」
 悲痛な叫び声で顎を上げて仰け反るが、八戒の手は三蔵を押し止めず両手でシーツに爪を立てている。真言で呪縛された八戒に自由と抵抗は許されない。その声を聞きながら三蔵は傷痕への愛撫を止めない。舌で舐めるだけでなく吸うようにして軽く歯を立てると、絶叫に近い声が上がる。
 その傷痕は消えない罪であり、決して忘れないように何度も暴かれ抉られて、絶望の淵に墜とされる。今は感じない筈の下意識から痛みの記憶が甦る。裂かれた腹と失った心が激痛となって八戒を襲う。触れている三蔵の愛撫がひどく優しいのにも気付かずに。やがて八戒の緑の瞳から涙が溢れてくる。一度湧き出せば後から後から止めどなく流れ落ちて、頬を濡らしていく。嗚咽が漏れて三蔵は、ようやく傷痕に触れるのを止めて顔を上げる。八戒の顔を覗き込むと、眼を開けたまま子供のようにしゃくり上げて泣いている。
 「我慢するな」
 そう言って三蔵が額に口付けると八戒は、涙に濡れた緑の瞳に三蔵を映してゆっくりと両手を上げた。


 ――― この姿を誰にやれると言うのだろう ―――

 両腕で抱き締めてやると、八戒の腕も背中に回り抱き締めてくる。すすり泣く声に肩が濡れて、三蔵はあやすように背中を叩いてやる。そして真っ直ぐなこげ茶髪に指を差し入れ、梳くようにして撫でた。滑らかな手触りを楽しむように何度も撫でていると、しゃくる声が止み、疲れたような溜息を吐いて肩が落ちる。泣くのが治まった八戒の顎を取ると、顔を上向かせた。涙は止まったようだが睫毛と頬は濡れたままで、潤んだ緑の瞳を見ながら唇で拭うと、舌には塩の味が残る。躯を預けてくる八戒の手を取り指先に口付けて、後ろ手を付かせた。肘の辺りまで落ちた単は肩を露わにさせ、割れた裾は白い足を剥き出しにして、下着を取り去った下半身は三蔵に向けて晒されている。三蔵は膝に口付けると大腿に手を掛け開き、八戒のものを口に含んだ。
 「あ……」
 甘い声に三蔵は更に手と口を使って八戒のものを育てていく。先端に舌を這わせて目線を上げると、半ば開いた口から漏れる熱い息が掛かる。伏せられた目と唇を舐める表情は快楽に浸っていて、自身の熱も呼応するように高まる。赤い舌に誘われて三蔵は、手での愛撫を続けながら伸び上がり、舌でするりと撫でてみる。すると覗く舌がそれに応えてきたので、三蔵は舌を絡めたまま唇を合わせて深いキスをした。思いの外貪欲に求めてくるキスに三蔵も夢中になり、角度を変えて貪るように求め息すら奪いたくなる。唇へのキスは今まで応えてきた事がなかったからだ。三蔵は自分の方が我慢出来ず、早急に愛撫を早めて八戒を達かせ、迸りを手の平で受けると濡れた指で奥を探り始める。そのまま塗り込め指で解していくと、喘ぎ声が長いキスの中へ溶けていく。感じる場所を攻め立てると緊張した足が痙攣し、揺らめいた腰に思わず唇が離れた。三蔵はその勢いで八戒を押し倒し、指を引き抜き大腿を抱えて押し広げ、猛った熱を一気に捻じ込んだ。急な挿入に八戒は痛みを覚えて悲鳴を上げ、苦しさを逃がす。いつもならそのまますぐに動いてしまうのだが、三蔵は更に体重を掛けて伸し掛かり、赤く濡れた唇にキスをした。
 「…三蔵……」
 呟かれた声に三蔵は深く繋がったまま躯を硬直させた。求めて縋るような声音に八戒の顔を見つめるが、視線は合わず涙を溜めた緑の瞳はまるで泉のようだ。

 術は完全に効いている
 でなければこれ程従順な筈がない
 自我のない中でも知っているというのだろうか
 誰に抱かれているのか

 三蔵は自嘲の笑みを浮べると八戒の両肩に口付ける。すると八戒の手が三蔵の背中に回り抱きつくと、安心したように目を閉じた。繋がっている八戒の中が、自身の熱がやけに熱くて三蔵は遮二無二動き出す。壊されるような激しい動きに八戒は一際高い悲鳴を上げたが、三蔵を抱く両腕は離れない。やがて痛みを回避するように腰は動き、慣らされた躯が快感を拾い上げて喘ぎ声へと変わっていく。あまり時間を掛けずに達した三蔵は、がっくりと躯の力を抜いて八戒の上に重なり荒い呼吸を繰り返した。まだ自分の背中に回った手は離れていない。同じく自分の下で荒い息を吐く八戒の鼓動が聞こえて三蔵は、汗の流れる痩身の躯を強く抱き締めた。

 誰にも渡したくはない
 この脆くて強い存在を
 無慈悲なまでの優しさを
 自分だけのものにしてしまいたい

 互いの呼吸が落ち着いてきて三蔵は上体を浮かせる。
 「八戒…」
 触れるだけの口付けを落とすと、一度洗われた綺麗な緑の瞳が現れる。視線はなくとも自分だけを映している双眸。時を奪う瞳を見続けた三蔵は、目元に口付け両肩にもキスをした。すると自分を抱く腕が離れて下に落ちる。繋がったまま八戒を抱き起こした三蔵は、自分の上体だけを後ろに倒した。白の単を袖だけで着た八戒の躯は揺らめく灯りに妖しく浮かび上がる。扇情的な姿に三蔵は手を伸ばし、今は黒く見える艶髪や頬から肩へと触れていく。胸から腹を撫でると八戒は嫌がるように感じて躯をくねらせる。閉じていた足を開かせてから三蔵は八戒の手を取り指先に口付ける。するとそれを合図に八戒は腰を動かし、埋め込まれた三蔵の熱を育て始めた。引き上げ浅くしてから深く呑み込み、揺れる腰は角度に変化をつけて、自ら三蔵を求めて味わう。熱い締め付けに濡れた音、そして善がる声と姿に三蔵は唇の端を上げる。

 今は、今だけは全て自分だけのものである。
 思い通りにならなくても
 こうして繋ぎ止める方法があるのだ。
 離れたままでいる事など許さない。
 記憶になくとも躯に覚えさせればいい。
 餓えて渇く焦燥を知ればいいのだ。

 三蔵は八戒の腰を掴むと下から突き上げ深く繋がり、より強い刺激を与える。
 「あああぁっ…ぅ……」
 堪らず八戒は仰け反るが、最早痛みではなく強い快楽となって躯の芯を走り、愉悦の声で啼く。けれどそれで達することはなく、もっと深い快楽を求めて下からの動きに合わせてより激しく腰を動かす。
 「ああぁ………もっと…………」
 二つの影が享楽に耽り蠢くのを、短くなった蝋燭の炎が燃え尽きるまで照らしていた。






 キッチンから漂う良い匂いに誘われて、ふらふらと悟浄は近付いていく。後ろ姿の八戒は大きなパイを包みバスケットに入れていた。
 「なぁ、それ持ってくの」
 「えぇ。今日は悟空の家庭教師の日ですから、ご褒美のおやつに」
 「何か定期報告に行ってた時より回数多くねぇ?」
 「悟空の学力は放って置けないですよ。本人もやる気ですし」
 「目当てが違うっしょ」
 勉強ではなく八戒のおやつが目当てだろうと言い当てて、悟浄はどこか不貞腐れたように紫煙を吐き出す。そんな大きな図体をした子供の仕草に八戒は笑みを洩らした。その仕草に悟浄はどきりとする。最近の八戒は何でもない仕草に艶が混じる事がある。十人に聞けば十人とも綺麗と答える容姿も手伝って、目の毒だよなぁと悟浄は心の中で呟いた。
 「これは悟空用のアップルパイですが、ちゃんと貴方用にサーモンパイも焼きましたよ」
 そう言って八戒はテーブルの上に被せてあった布を取る。するとそこには丸いパイがあって悟浄の機嫌は簡単に浮上する。甘い物が苦手な自分用に八戒がわざわざ作ってくれたと分かるので。
 「僕もう出掛けますから、コーヒーは自分で淹れて下さいね」
 「んー分かった、じゃ今日は泊まりね。八戒いないんじゃ俺も外泊すっかなぁ」
 「万一夕飯が必要な場合はお鍋にポトフを作ってありますから、温めて食べて下さい」
 「相変わらず抜かりないねぇ、サンキュ」
 ちょっとした悪戯心で悟浄が目の前のこげ茶髪にキスをした。するとあまりに過剰な反応が返り仕掛けた悟浄の方が面食らう。丸くなった真紅の瞳と振り返った緑の瞳が見詰め合う事数秒。
 「…そんなにびっくりした?つーか嫌だった?」
 「そんなんじゃないですけど、すごく驚いただけです。悟浄、感謝の気持ちなら言葉だけでも十分ですよ」
 「感じちゃったとか?」
 「何言ってるんですか!欲求不満なら今日は外泊して下さい、僕も帰りませんから。もう行きますね」
 からかい口調にぴしゃりと言い退けて八戒は慌しく出て行く。その後ろ姿を見送って悟浄は片眉を上げた。本気の怒りでないのは明白で、あれではまるで図星を指されて逃走したようである。艶めいた八戒の仕草を思い出した悟浄は、大きな紫煙を吐き出すと外泊を決め込んだ。
 森の一軒家が見えなくなって八戒は大きな息を吐いた。正しく逃げるが勝ちを選択したのだが、動揺したのは悟浄に見破られているだろうと思いつつ。
 悟浄なりのコミュニケーションの取り方には慣れてきたつもりだった。肩に腕や顎を置かれたり、髪に指が触れたり、背中合わせで体重を掛けてきたり。今まで嫌だと思った事などないのに今日に限って、髪にキスをされて体に電気が走ったように反応してしまった。瞬時に紫の瞳が思い浮かんで、それにも驚愕した。同時に体の芯がぞくりとした事も。
 動悸が治まってくるとバスケットが目に入る。一つ溜息を吐いた八戒は、バスケットを抱え直して慶雲院までの長い道のりを歩き始める。その足取りは決して重いものではなかった。


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2007/09/09
2007/10/07