安徽省   揚州   鎮江

2004年10月22-25日   


揚州への旅   2004-10-23

 揚州と聞くと、私は「揚州炒飯《を連想する。北京の下町の食堂で食べると、普通の卵入り炒飯(焼き飯)と比べて、中華ハムなど具の種類が多く、値段も少し高い。しかし、ここは炒飯よりは、隋の時代の最後の皇帝・煬帝が殺された場所としてよく知られている。彼は暴君として有吊だが、華北から江南への大運河の建設は彼の偉業として見直されているようだ。でも、そんなことは私にとってはどうでもいい。彼が都から連れてきた、数多くの後宮の美女たちが洛陽へ帰れず、この地に居ついたために、ここにはそのDNAを受け継いだ美女が多いと聞いたことがある。それでいつか機会があれば行ってみたいと思っていたのだ。

小旅行をしようと思い立ち、鉄道時刻表をよくよく見ると、北京から揚州までノンストップ特急が走っているではないか。2、3年前までのガイドブックには、鉄道がないからバスか船を利用するしかないと書いてあった。ノンストップ特急は2004年5月にできたばかりで、大都市間を結ぶ。全部で18往復あるが、その中に北京-揚州間の列車があった。その他の都市と比べると揚州は小さいので、なぜ揚州に?という気はしたが、その理由は後に分った。次の訪問地、鎮江で散髪したときにシャンプーをしてくれた女の子が揚州出身で、色々なことを教えてくれた。揚州は江沢民・元国家主席の出身地だったのである。日本でも政治家が自分の地元に利益誘導をするのは普通だが、中国でも同じなのだなあと思った。でもおそらくは江沢民があからさまに要求したわけではなく、地元からの陳情に周囲が気を使ったのであろう。

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ノンストップ特急
ここでノンストップ特急について記しておく。これは2004年4月18日から始まった鉄道の第5次スピードアップの目玉として導入されたもので、列車の最高時速は160キロのまま、線路の改良と途中停車駅をなくすことで時間短縮を図った。例えば、北京-上海間、約1,460キロを従来の特急は14時間かかっていたのが、12時間に短縮された。ノンストップ特急ができた時に私が見た新聞には「車輌が新しくなり、グリーン寝台には各ベッドにテレビがつき、部屋単位でエアコンが調節でき、トイレも垂れ流しではないので、駅に停車している時も使える《などと紹介されていた。なお、18往復の内17往復は北京が始発で、上海、南京、長春などの大都市を結ぶもので、いかに北京が優遇されているか分る。

それでどんなものか実際に試してみようと上海から北京行きに乗ったことがある。北京-上海間にはノンストップ特急が1日5往復走っていて、全てグリーン寝台である。サービスとして歯ミガキセットがつき、さらに私が乗った列車には夕食までついていたが美味しくはなかった。値段は夕食の有無には関係なく499元。
エアコンは確かに部屋単位で調節できたが、テレビはなかった。部屋の中の様子は写真のようで、これまでの特急グリーン寝台とそれほど違うわけではない。私は車輌がよくないので代りに夕食サービスをしているのではないかと思い、「どの列車だとテレビがついているの?《と乗務員に聞くと、そのような車輌もあるが、北京-上海間には全く投入されていないと言う。

私が切符を買った時は、江沢民の出身地とは知らず、揚州のようなどちらかといえばマイナーな都市への列車の車輌がいいはずがないと思い込んでいた。だから、揚州行きにはグリーン寝台と普通寝台があったが、迷わず普通寝台の切符を買った。グリーンだと417元、普通だと281元。
乗務員に聞くと、グリーン寝台にはテレビがついているという。何輌も混んだ車内を通り抜けて、行ってみると各ベッドの頭の所に、航空機の背もたれの後ろについているような液晶テレビがついていた。ちょうどカメラを持っていなかったので、写真を撮ることができなかったのが残念!

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揚州への列車が開通したのは2004年4月で、駅舎も真新しい。駅前にはまだ何もなく、物売りやホテルなどの客引きもない。こんなところは珍しいと中国人が話し合っているのが聞こえた。簡単な売店で地図を買い、市内へ向かうバスの乗り場を聞いてバスに乗った。2元。駅前広場から大通りへ出たところに江沢民の大きな看板があった。ちょうど深センにある鄧小平の看板のような感じである。市内へ向かう道路は立派な道路で、暫く走ると多くのマンションらしい建物や建築中の建物が目に付くようになった。非常に経済活動が盛んという印象だったが、この時はなぜだろう?と上思議に思った。

 地図を見ながら、ここが中心部かと思い「人民大厦《というバス停で降りたが、これは間違いであった。後で分ったが、本当はもう2つ、3つ先のバス停の方がよかったのだ。とにかく、少し歩くと招待所があったので入ってみた。招待所と呼ばれる宿泊施設は外国人は泊まれないことが多いが、ここは泊めてくれるというので、面倒くさくなってここに泊まることに決めた。3つベッドのある部屋を1人で使って1日30元。こんな値段ではトイレは当然共同。

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痩西湖
 とりあえず荷物を置いてバスで石塔寺というバス停まで行き、後は地図を見ながら市場を通り抜けて北へ向かい、痩西湖へ出た。ここは杭州の西湖のように美しいが、湖の幅が狭いので「痩せた西湖《と呼ばれている。実際は湖ではなく、河をせき止めたようなものである。
公園に近づくと左の写真のように大きな柳の木が河の両側に並んだ美しい景色になる。こうした公園はどこも似たりよったりだとは思ったが、おそらく二度と来ることもないだろうと思い、入場料50元を払って入ることにした。 入ってみると、予想通りで、公園の中には例によって中国式の建物があり、いくつも橋がかかり、遊覧船やボートが浮かんでいるという変わり映えのしないもので、湖は西湖とは比べ物にならないほど小さかった。


でも、季節も天気もよく、気持ちがよかった。これで水が澄んでいたらどれほどいいだろうか。ちょうど土曜日だったので観光客がたくさんきていて、揚州の人形劇という大きな人形を使った劇も行われていた。
上左の写真の右寄り奥に白い塔が見える。白塔は北京の北海公園にあるのが有吊だが、これはそれを真似たものだという。清の時代、乾隆帝が「ここには北京のような白塔があるか《とご下問、「あります《と答えると、見に行くというので、あわてて塩の袋を積み上げて作り、急場をしのぎ、後に本当の塔を建てたといわれている。ここ揚州は塩の取引で栄えた町で、その富を象徴するような立派な庭園や邸が市内には多くある。

 かなり歩いたところで門に到着、聞くとここは西門で、北門まではまだ歩かなければならないといわれた。北門までの間はめぼしい施設もなく、ただ川に沿って歩くだけ、景色もたいしたことはない。だからこんなところまで来る人は当然多くはない。やっと、北門へたどり着き、大明寺のふもとへ出た。ちょうど昼になっていたので、ここの観光レストランで昼食をとることにした。揚州焼き飯と獅子頭を注文、焼き飯は北京で食べるのとほとんど同じで、20元は高いと思う。

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大明寺
 大明寺は大きな塔が特徴。先ず正面から上ると大雄宝殿の建物がある。中国では大体どこの寺でも建物はいいが、仏像が金ぴかで、年代を感じさせないのが多い。
それから左の方へ歩いていくと天下第五泉という看板があったのでそちらの方へ歩いていった。池の中に突き出た小さな半島のようなものがあり、その先に小さな亭があり、そこに井戸があった。周りの水は薄茶色でとても飲めるような代物ではない。この泉の水はどうかなと思っていると、暫くして店の人がつるべで水を汲み上げた。汲んだ水は透明できれいそうに見えた。中国では普通は生水を飲む習慣がなく、沸かしてお茶をたてていた。私は冷たい水が飲みたかったが、この水は本当に飲んでも大丈夫だろうかと心配で、飲むのを我慢した。


再び寺の方へ戻る。さらに歩くと鑑真さんを祭った本堂へきた。ここは唐招提寺を真似て作ったという建物で、中国風とはだいぶん雰囲気が違う。仏像も唐招提寺の鑑真像を真似て作ったというもので落ち着いた感じで、中国の仏像とは全く違い、ありがたい感じがする。寺の前には唐招提寺の管長が贈ったと言う塔があった。
そこからさらにこの寺の象徴、棲霊塔へ行く。上るのに確か5元かかったが九重の立派な塔である。上からは四方が眺められる。寺の屋根を上から見ても唐招提寺風は全く違う。左の写真の中央やや右寄り奥の、少し曲線的な屋根がそうである。それから寝仏を見て大明寺を後にした。

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 地図を見ると、この近くに唐代の城壁があったので、重い足を引きずりながら行ってみたが15元もする割にはたいしたことはなかった。これなら「何園《や「個園《などの庭園へ行ったほうがましだ。

プハーディン墓
それからバスでプハーディンの墓へ行こうとしたがなかなか来ないのでタクシーで行った。言葉はちょっとわかりにくいが色々親切に教えてくれた。鎮江へ船で行きたいがどこから乗るのかと聞くと、もう船はないとのことで、バス乗り場を教えてくれた。
なんだか遠回りされた感じだったが、着いてからすぐそばの橋が架け替え中で渡れなかったことが分った。プハーディンという人はイスラム教の宣教師だが、私はどんな人か知らないので、ここもこんなものかという感じであった。お墓は左の写真のような小さなお堂の中に大きな石をいくつも積み重ねてあった。お堂がなく、屋外に石だけ積んであるのもあった。

 この揚州という街では電動自転車が多いのがとても目に付いた。バイクもあるが、電動自転車の方が遥かに多い。両方合わせると2輪車全体の4割くらいになるのではないかと思われた。以前、蘇州でも電動自転車が多いと思ったが、これほど多くを見たのは初めてであった。まるで台湾のバイクのようである。こうした購買力も江沢民のおかげであろう。

ところで、揚州美人はというと、私の眼には他の都市と大差なかったのである、残念!

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