若杉弘氏を偲んで 〜陽ちゃんとピノさんの交流(4)〜

若杉弘氏と福永陽一郎氏の絆

Hiroshi Wakasugi Hiroshi Wakasugi
1983年6月9日
藤沢市民会館大ホール楽屋にて
ケルン放送交響楽団演奏会終演後
1991年12月21日
藤沢市民会館大ホール楽屋にて
藤沢市民交響楽団「第九」特別演奏会終演後

 2009年7月21日午後6時15分、指揮者の若杉弘氏が都内の病院にて多臓器不全により死去した。2007年に新国立歌劇場オペラ芸術監督に就任し、任期途中、志半ばの死であった。痛恨の思いである。福永陽一郎氏(陽ちゃん)との交流も深かった若杉弘氏へのオマージュを、陽ちゃんとの"絆"を意識しながら書いてみたい。

【若杉弘氏との出会い】

 私がコンサート(主にオーケストラ)を聴きに行くようになったのは、高校時代(1970年代後半)からで、彼是30年以上になる。大学に入った1980年から陽ちゃんが亡くなる90年頃まで頻繁に聴きに行っていた。陽ちゃんの所に送られてくる在京オーケストラ等からの招待券を譲っていただき、1週間に1回は(当時のメイン会場であった)上野の東京文化会館に通ったものだ。私が夢中になって聴いていた学生時代は、朝比奈隆・山田一雄・渡邉暁雄の3大巨匠がオーケストラ界を牽引していた。私が今まで頻繁に聴いた指揮者は上記の3名に加え、福永陽一郎・若杉弘・小澤征爾・小林研一郎となる。ざっと記憶を辿ると、(オペラや合唱のコンサートも加えると)朝比奈50回、山田40回、渡邉70回、福永50回、若杉60回、小澤25回、小林50回位というところか。最近、素晴らしいと思う日本人指揮者は、大野和士・上岡敏之・沼尻竜典・広上淳一あたり。なお、日本で聴いた外国人指揮者でとくに素晴らしいと思ったのは(年代順)、ベーム、ヨッフム、マタチッチ、ムラヴィンスキー、マルケヴィッチ、チェリビダッケ、ヴァント、ジュリーニ、バーンスタイン、カルロス・クライバーがトップ10。また、在京オーケストラに頻繁に客演したおかげで名指揮者だと判ったのは、ロッホラン、ベルティーニ、インバルあたり。
 1990年2月に陽ちゃんが、6月に渡邉暁雄氏が、91年に山田一雄氏が亡くなられこともあり、尊敬できる音楽家として、また円熟期を迎える指揮者として、私にとっては"若杉弘"が大きくクローズアップされることになった。「若杉さんのコンサートとオペラは可能な限り聴きに行こう!」と。きっかけは、FM−NHKで聴いた海外コンサートのライヴ録音の数々と、1983年に当時の手兵・ケルン放送交響楽団を率いて行なった日本公演で聴いた「エロイカ」やブラームス第2交響曲、マーラー第9交響曲などの名演に感動したからである。とくに、6月9日に藤沢で聴いたマーラー第9交響曲は深く感銘に残る名演奏だった。客席で陽ちゃんと並んで聴いていたが、終演後、「若杉に会わせてあげよう!」と言われ、楽屋を訪問。暫し歓談し、サインを頂いたこともあり、そのお人柄にも魅了され、すっかりファンになってしまった。尊敬できる音楽家2人と同じ空間に同席できた喜びは忘れられない。その後、陽ちゃんと藤沢駅近くにあった「ステーキルーム松坂」(陽ちゃんが頻繁に通った贔屓の店)で、若杉氏の話をたくさん聞くことができた。お互い"陽ちゃん"⇔"ピノ"と呼び合う仲で、付き合いも長く、親交が深いことを知ることができた。その後、東京都交響楽団の音楽監督・首席指揮者に就任され、企画力溢れる斬新なプログラムを数多く指揮された。マーラー・シリーズをはじめ、随分と聴かせていただいた。オーケストラでいえば、NHK交響楽団や東京フィルハーモニー交響楽団でもプログラミングの妙は冴えわたり、演奏の充実と円熟も加わり、真に巨匠の道を歩まれていることを感じていた。晩年は体調の悪化により、やや不調の時もあったが、豊富な経験と才能に裏付けされた懐深い演奏はどれも素晴らしかった。
 2006年6月に亡くなられた岩城宏之氏への追悼記事で、若杉氏は共通の師であった渡邉暁雄氏が71歳、斎藤秀雄氏が72歳、そして、岩城宏之氏が73歳で亡くなれたことを書かれていたが、その若杉氏ご本人は74歳で亡くなられた。何か暗示のようなものを感じた。コンサートでは2007年12月13日、東京オペラシティで聴いた東京フィルとの「未完成交響曲」と「ブルックナー第9交響曲」が、オペラでは2008年の新国立歌劇場「ペレアスとメリザンド」が、若杉氏を聴いた最後になってしまった。

【若杉弘氏の名演】

 若杉氏の輝かしい経歴や師事した名指揮者達はプロフィールに掲載されているとおりである。いずれも、我が国の指揮者としては特筆に値するものである。東京芸術大学指揮科卒業後、NHK交響楽団指揮研究員となり、指揮者としてのデビューは、オペラが二期会の「フィガロの結婚」で1959年、オーケストラが1963年の東京交響楽団であった。30歳の時(1965年から)読売日本交響楽団の常任指揮者に就任し、30代は野心的なプログラムでヴァイタリティ溢れる活動を展開していた。大曲の指揮や"初演魔"と呼ばれるほど日本初演の曲を多く取り上げていた。この姿勢は晩年まで続き、「取り上げられる機会の少ない名曲を演奏すること」に使命感を持っていたと思う。読売日本交響楽団との欧州公演が成功を収めたことで、ヨーロッパ(とくにドイツ)での評価が高まり、ケルン放送交響楽団の首席指揮者に就任、その後はダムルシュタット歌劇場、ドルトムント歌劇場での活動後、ライン・ドイツオペラ歌劇場音楽総監督、ドレスデン国立歌劇場およびドレスデン・シュターツカペレ常任指揮者に就任と、40代〜50代はドイツを中心に活躍していた。その後は日本に戻り、1986〜1995年は東京都交響楽団音楽監督兼首席指揮者を務め、斬新なプログラムで名演奏を数多く生み出した。この期間中も、バイエルン国立歌劇場指揮者、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団首席指揮者に就任、また、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団、バイエルン放送交響楽団、ボストン交響楽団、モントリオール交響楽団などに客演指揮などもしていた。
 そして、得意のオペラの分野では、東京室内歌劇場芸術監督を皮切りに、滋賀県立芸術劇場「びわ湖ホール」の芸術監督を歴任、2007年9月から新国立芸術監督を務めていたが、任期途中の急逝となった。
 私は都響時代や晩年の東京フィルのオーケストラ演奏が印象に残っている。(N響との演奏は−正指揮者ではあったが−総じて良くなかったと思う。そもそも、NHKホールのような音響が劣悪な大衆ホールで定期演奏会を続けていること自体が−N響の伝統と実績は認めるが−私には信じられず、若杉氏が素晴らしい指揮をしても"響き"として伝わってこないもどかしさをいつも感じていた。また、かつての小澤征爾氏との決裂や最近では上岡敏之氏との軋轢などに似た雰囲気も感じていた。つまり、若杉氏とN響奏者との間に、しっくりいかない"何か"があったように思われたのである。これは、テレビで放映されたN響演奏会の模様からも窺い知れる不協和音的な雰囲気でも判ると思う。しかし、私が過去に聴いたN響の名演−マタチッチやマルケヴィッチなど−にも匹敵する名演を若杉氏の指揮でも何度か聴いているのも事実である。)
 若杉氏は山田一雄や渡邉暁雄に続くマーラー指揮者として名乗りを上げたが、ブルックナーやブラームスも玄人好みするドイツ的な演奏で多くの名演を残していた。実は本人も得意とされていたフランス音楽−ドビュッシーやメシアン、ベルリオーズ−も素晴らしかったと思う。奇妙なことに、このあたりは同い年生まれの小澤征爾と同じである。山田一雄や渡邉暁雄もフランス音楽を得意としていたが、山田の洒落っ気、渡邉のエレガントさとは一線を画す−小澤征爾とも異なる−ノーブルなフランス的響きを表現していた。私は晩年に聴いた東京フィルとの演奏に、真に巨匠的な風格を感じていたので、深みのあるモーツアルトやベートーヴェン、ブルックナー、ブラームスのシンフォニーをもっと聴きたかったという思いが強く残っている。
 そして、とくに深く感銘に残っているのは、海外のオーケストラや歌劇場の来日公演を指揮したコンサートとオペラである。前述の1983年のケルン放送交響楽団、1989年のドレスデン国立歌劇場管弦楽団の日本公演で指揮したR.シュトラウス「ドン・ファン」「四つの最後の歌」「ブラよん」、1990年のチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団、1995年のミュンヘン・フィルのマーラー第9交響曲はいずれも超名演だったと思う。(オペラでは、1981年のドレスデン国立歌劇場「魔弾の射手」が素晴らしかった!)
 オペラについては、東京室内歌劇場、藤原歌劇団、二期会、藤沢市民オペラ、新国立劇場で何度も聴いたが、根っからの劇場人だな〜、といつも感じていた。オペラが好きで好きでたまらない!という雰囲気であった。あの藤原義江をして"オペラの虫"と言わしめた陽ちゃんだが、若杉氏も同様に"オペラの虫"だったと思う。我が国のオペラ界は、実に多くに人々の功績・尽力の上に成り立っているが−増井敬二「日本オペラ史〜1952年」や岩波ブックセンター「日本のオペラ史」等に詳しいが−、指揮者でいえば、かのマンフレート・グルリットの系譜に連なる福永陽一郎と若杉弘の2人が残した足跡は大きいと思う。若杉氏の指揮で生の舞台を鑑賞したオペラは「椿姫」「蝶々夫人」「トゥーランドット」「ローエングリン」「リエンツェ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「フィデリオ」「魔弾の射手」「ダフネ」「ペレアスとメリザンド」等。陽ちゃんとの関係でいえば、藤沢市民オペラで聴いた3作、1993年の「トゥーランドット」、1998年の「リエンツェ」(日本初演)、2005年の「トゥーランドット」(ベリオ版日本初演)は、市民オペラ(アマチュアのオーケストラとコーラス)であること、陽ちゃんへの畏敬の念などから、丁寧な指導と情熱迸る指揮ぶりが印象に残っている。

【若杉弘氏と小澤征爾氏】

 若杉弘氏は小澤征爾氏と同じ1935年の生まれ、若杉氏が5月、小澤氏が9月生まれである。クラシック音楽ファン−とりわけ、オーケストラ・ファン−にとって、1つの試金石として、トスカニーニとフルトヴェングラーのどちらを評価するか、カラヤンをどう評価するか、というのがあると思うが、日本人にとっては朝比奈隆をどう評価するか、小澤征爾をどう評価するか、という観点もあると思う。私は朝比奈・小澤両方とも好きだし、山田一雄も渡邉暁雄も好きだし、25年以上の若杉ファンでもある。小澤がトロント交響楽団、サンフランシスコ交響楽団を経てボストン交響楽団の音楽監督に就任し大活躍をしていた頃、若杉氏がケルン放送交響楽団とドレスデン国立歌劇場などのポストを得ていたことは特筆に値し、とんでもなく凄いことだと思う。先達として、近衛秀麿という指揮者が居たが、真の意味でコスモポリタンといえるのは若杉氏と小澤氏だと思う。この2人、ライヴァル関係というよりも、お互いが尊敬し合っている盟友といえるであろう。
 若い頃(1966年、30歳の頃)には、「オーケストラル・スペース」という現代音楽だけを集めたコンサートを2人で開催しているのである。指揮者を2人必要とする難曲もあった(オーケストラと磁気テープのための「ライフ・ミュージック」(一柳慧)、センジュツ(クセナキス))が、2人で読売日本交響楽団を指揮しているのである。他は2人で振り分け、大盛況となった伝説のコンサートである。(タワーレコードで限定復刻盤CDが発売されている。)小澤氏が若杉氏をボストン交響楽団の演奏会に招聘したこともある。お互いがお互いを意識しつつ、世界に向けて羽ばたいて行った両雄といえるだろう。若杉氏の死を小澤氏がどう思われているのか…。限りない才能と国際人としての交流術、度胸とパイオニア精神など、文字通り、日本を代表する世界的指揮者として敬意を表したい。

【若杉弘氏と陽ちゃん&藤沢】

 世界的な指揮者となった若杉弘氏は、若い頃、畑中良輔氏と福永陽一郎氏が創設した「東京コラリアーズ」に入団し、陽ちゃんの指揮でコーラス・ボーイの一員として歌っていたことは有名な話であるが、それ以降、藤原歌劇団のコレペティトーワであった陽ちゃんの下で、オペラの創作に参加し、オペラの隆盛時代を裏から支えていた。陽ちゃんのことを"恩師"と呼び、終生親交を深めていた。
 "世界のワカスギ"が、陽ちゃんが創設し育成した藤沢市民交響楽団および藤沢市民オペラの活動に敬意を表し、陽ちゃんへの感謝と畏敬の念から、1991年12月に藤沢市民交響楽団で「第九」を指揮し、藤沢市民オペラでは1993年の「トゥーランドット」、1998年の「リエンツェ」(日本初演)、2005年の「トゥーランドット」(ベリオ版日本初演)を指揮している。これは"陽ちゃん⇔ピノさん"の強い絆の証しだと思う。陽ちゃんは若杉氏を弟子とは呼んでいなかったが、若杉氏は陽ちゃんを"恩師"と呼んでいた。
 上記のコンサートとオペラ上演にあたっては、若杉氏は連日のように藤沢に足を運び、アマチュア(市民・学生)を熱心に丁寧に指導をされていた。
 「第九」コンサートの数日後、クリスマスの日、藤沢在住の福永夫人(暁子さん)あてに、若杉氏から贈られてきたクリスマスカードには「第九の第3楽章−天上の陽ちゃんの力を借りて、実に美しい"アダジオ・モルト・エ・カンタービレ"を奏でることができました!」と書かれていました。
 「第九」の終演後、暁子夫人に誘われて、楽屋を訪問、素晴らしい演奏のお礼とともに、「1983年ケルン放送交響楽団藤沢公演の際、福永先生とこの楽屋で…。」と申しあげたところ、「よく覚えていますよ。一緒に写真を撮りましょう!」と言って下さった。本当に嬉しかった!ここでも、"これからは若杉さんの演奏は聴き逃さないぞ!"という思いを強く持ったものだ。

【若杉弘氏とレコード】

 若杉氏はその実力や名声に比して、レコード(CD)録音が極めて少ないと思う。若い頃の録音について詳細を把握していないが、それ程多くはないと思うし、殆どは廃盤のままである。
 私が所有しているものも数は多くない。「世界のオーケストラ名曲集」(日本ビクター)で、通俗的な名曲(「ジュピター」「驚愕&軍隊」「白鳥の湖&くるみ割り人形」等)が収録されたレコード(ドーナツ盤)数点とLPレコードでは「田園交響曲」「幻想交響曲」である。いずれも読売日本交響楽団の演奏である。それと、東京交響楽団第265回定期演奏会ライヴ「復活」である。CDでは、読売日本交響楽団との「モツ・レク」「夕鶴」、東京都交響楽団とのR.シュトラウス集、マーラー交響曲全集、N響とのブルックナー、ドレスデン・シュターツカペレとの「エロイカ」「巨人」「ワーグナー管弦曲集」、ザール・ブリュッケン放送交響楽団とのブルックナーとハイドン、同志社グリークラブとの「山に祈る」、日本合唱協会との「日本の歌大全集」「嫁ぐ娘に・美しい訣れの朝・月光とピエロ」、武満徹等の現代音楽作品集などである。
 N響とシリーズ化されるはずだったブルックナー交響曲のライヴCD化が途中で中止になったのは残念であった。演奏会は全曲行なわれたが、ライヴ録音だけが中止になったようだ。噂によると、ブルックナーの権威であった朝比奈隆氏を信奉する一部のブルックナー・ファンによる妨害があったとも言われているが、事の真実はともかく、若杉氏のドイツ仕込みのブルックナー全集が完成できなかったことは痛恨の極みである。とくに晩年、東京フィルで聴いたブルックナーが実に素晴らしかったので、本当に残念である。
 若杉氏がドイツで活躍されていた頃のライヴが度々FMで放送されていたし、N響や東京フィルとのライヴ演奏もFMで頻繁に放送されていたので、是非ともライヴCDとして発売して欲しいものだ。

【若杉弘氏・エトセトラ】

★『オペラを愛しぬいて〜若杉弘氏のご逝去を悼む』
 これは江川紹子さんが若杉氏にインタヴューした記事である。
 http://www.egawashoko.com/c002/000297.html
 江川さんはオペラやオーケストラコンサートでよくお見かけするが、上岡敏之指揮ヴッパータール交響楽団来日公演の際、客席で隣に座ったことがある。

★『若杉弘さんのこと〜最後のインタヴュー』
 これは林田直樹氏が若杉氏にインタヴューした記事である。
 http://linden.weblogs.jp/blog/2009/07/post-b90c.html

★我が国のオペラ指揮者の系譜としては、かのマンフレード・グルリット氏の薫陶を受けた人として、(陽ちゃんが一目置いていた)森正→福永陽一郎→若杉弘→大野和士・上岡敏之→沼尻竜典、と私は見ている。大野和士氏と上岡敏之氏の2人は神奈川県立湘南高校出身の1年先輩・後輩の仲だが、同時期に近くにある湘南学園高校に通っていたのが大野氏の1年上の広上淳一氏である。この3人が高校に通っていた時期(1974年〜1979年頃)は、まさに陽ちゃんが藤沢で藤沢市民交響楽団や藤沢市民オペラで活動を盛んにしていた頃でもある。音楽好きであったはずの3人の高校生(指揮者)に陽ちゃんが何らかのインスパイアを与えた可能性は大きいのだろうと想像できる。現に、一流指揮者となった大野氏も広上氏も藤沢で指揮をしている。

★若杉氏の指揮ぶりは、譜面を見ながら几帳面なタクトだったと思う。知的であり、ノーブルな感じであった。音楽に没入したり、陶酔するタイプではなかったが、出てくる音(響き)は極めて熱く、情熱的だった。オペラにしてもオーケストラにしても"うたごころ"が全面に出ていて、合唱をきめ細かく仕上げ比類のない美しさを表現していた。オーケストラ演奏では弦楽器を主体に美しいメロディーをよく歌い、自然なバランスが絶妙であった。響きは豊潤で、室内楽的なまとまりを感じさせ、旋律のフレーズも丁寧で豊かな感受性が息づいていた。晩年は体調の影響もあったのか、老けこんでしまった感があったが、物腰は紳士的であり、渡邉暁雄氏とは違ったアリストクラットな雰囲気を持っていた。オペラを指揮する時も、拍子を的確に刻むような指揮棒であったが、全身から滲み出るオーラはまさに"劇場の人"という感じであった。

★若杉氏の言葉として有名なのが、「40代でマーラー、50代でブルックナーを集中的にやり、60代で改めて再スタートだ。」「60代でモーツアルト?いやぁ、とても。あいつのモーツアルトが聴きたい!と言われるようになってから…。70代でそうなるといいんだけど。」スイトナーが指揮するモーツアルトを聴いた感想は「におやかなモーツアルト」であった。N響で聴いたモーツアルトの印象では、しなやかな起状と陰影に富んだ響きは光と影に満ちた美しさであったと思う。なお、若杉氏は、リヒャルト・ワーグナーとリヒャルト・シュトラウス、この偉大な2人のリヒャルトを数多く取り上げ、得意としていた。

★若杉氏は音楽以外の分野では"良きディレッタント"であった。大物外交官の息子であり、海外で暮らしていたこともあってか、その教養は広く深いものがあった。美術・文学・演劇・映画・哲学…等。このあたりは畑中良輔氏や陽ちゃんとも気脈が通じていたのではないか。

★陽ちゃんが評した若杉氏の"ひと懐っこさ"は、先輩指揮者や師へ生涯にわたり続いていた。朝比奈隆氏や山田一雄氏との交流、師である渡邉暁雄への恩返し(渡邉氏が始めた津山国際総合音楽祭の音楽監督に就任)、福永陽一郎氏との交流と藤沢との関係、先輩岩城宏之氏逝去に伴う演奏会の代理指揮など。誠実で真摯な人柄、ダンディな立居振る舞い、よく言われるように"ノーブル"な雰囲気が漂う人間性・人格であった。

★かつて、NHKで放映された海外オーケストラの来日公演の記録がDVDで発売されることを期待したい。ケルン放送交響楽団、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団など。また、インタビューでお話しされている内容に傾聴すべき貴重なものがたくさんあるはずだ。

★新国立歌劇場オペラ芸術監督就任後、任期途中での逝去。まさに志半ばの死であった。その斬新かつ正鵠を射る企画(上演演目の選択)は素晴らしかった!海外でのオペラ経験を生かし、「びわ湖ホール」で成功を収め、満を持しての就任であったはずだ。若杉氏が居なければ決して取り上げられることのなかった難曲もあった。その豊富な経験と知識に基づいたアイデア、企画力、推進力は貴重だった。この路線を継承できる人材は居るのか。若杉氏からのバトンを受け取って欲しい逸材として、大野和士氏、上岡敏之氏、沼尻竜典氏を挙げておきたい。

★若杉氏は「プログラミングの時点でコンサートは始まっている。」が持論であった。オペラの企画だけではなく、オーケストラコンサートにおけるプログラム構成も実に巧妙であり、斬新であり、常に隠れた名曲に目を向ける人だった。ご本人の得意分野は−実は−フランス音楽だったと思う。

★若杉氏は、邦人の現代音楽−とくに、武満徹−も得意としていた。私は長く日本フィルを聴き続けていたこともあり、渡邉暁雄氏による「日本フィル・シリーズ」を何度も聴いているが、やはり現代音楽の多くは苦手であった。岩城宏之、若杉弘、小澤征爾の3人も、武満徹を中心に邦人の現代音楽を頻繁に取り上げていた。現代音楽"通"によると、若杉氏の武満が一番素晴らしい!と聴いたことがある。代表作「弦楽のためのレクイエム」だけは聴き比べたことがあるが、どれが名演なのか?私には分からなかったが…。

★2006年4月に東京フィルの演奏会で聴いたブルックナーとベートーヴェンの「第7交響曲」が晩年に聴いた2大名演だと私は思っている。ともに、日本では朝比奈隆の演奏が評価されているが、私は若杉氏のブルックナーが好きだった。そして、ベートーヴェンは"これぞ僕ら日本人のベートーヴェンだ!"と思ったものだ。最近は実力もない若手・中堅の日本人指揮者が安易にベートーヴェンやブルックナー等のCDを制作しているが、ホンモノの演奏をする若杉氏のCD制作がされなかったことは残念である。今後、ライヴ録音のCD化を期待したい。

★劇場大好き、オペラ大好きの若杉氏は、自分が指揮をしない公演にも聴衆の1人としてよく会場に来られていた。オペラだけでなく、オーケストラコンサートでもしばしば見かけた。根っからのオペラ好き&オーケストラ好きなのだと思う。

★「陽ちゃんとピノさん」
 福永陽一郎と若杉弘は私が尊敬する指揮者・音楽家であるが、2人の共通点は"うた&うたごころ"と"進取の精神"が挙げられると思う。若杉氏は尊敬の眼をもって陽ちゃんに接していた光景が思い出される。陽ちゃんはある意味−きっと−羨望の眼差しで見ていたのかも知れない。しかし、強い絆で結ばれていたこの2人の指揮者が居なければ我が国のオペラ界の隆盛は一歩も二歩も遅れていたと思う。オペラ黎明期・隆盛期、藤原歌劇団や二期会の舞台の表と裏で情熱を賭けて走り回っていた陽ちゃんとピノさんであった。

★若杉氏が亡くなられて、新聞や音楽雑誌、そしてネット等で、数多くの追悼記事が掲載されているが、皆さんがこの真のマエストロであった若杉弘氏の逝去を悼み、偉大な音楽と演奏、業績を称え、感謝していることを知りました。でも、皆さんが−そして、私が−今感じている寂寥感とか空虚感、痛切な思いでは到底及ばない巨大な芸術家(音楽家・指揮者)を失ったと本当に知ることになるのは数年先となるのではないか。我が国の音楽界にとって、とりわけオペラの分野では歴史上最も大きな損失といっても過言ではない、大指揮者・若杉弘氏の死ではないか。

 最後に、ピノさんありがとう!お疲れさまでした!安らかに!陽ちゃんによろしく!(合掌)

大山 隆

 福永陽一郎Memorial