若杉弘氏を偲んで 〜陽ちゃんとピノさんの交流(3)〜

福永陽一郎氏から若杉弘氏へのメッセージ


『若杉弘指揮 読売日本交響楽団によるベートーヴェン交響曲第6番「田園」
のLPレコード(1970年8月録音)SJX-1025のライナーノーツより』
ほんとうの・・・・・ 指揮者・若杉弘!≫

 若杉弘は ほんとうに・・・・・ 指揮者になってしまった。というような感覚は、ずいぶんと個人的なものなので、あるいは、彼との長いつきあいを知らない人にとっては、理解しにくい言葉かも知れない。また、世の中に、 ほんとうの・・・・・ 指揮者がどんなに少ないか、そんなことを考えたことがない人にとっても、「ほんとうに指揮者になってしまった」というような云いかたは、まっすぐに受けとってもらえないかも知れない。
 若杉弘という指揮者について、すでに知識を持っている人は、大曲指揮者としての若杉のイメージを強く抱いているに違いない。「グレの歌」「ルカ受難曲」「ラインの黄金」の日本初演指揮者。ほかにも、"大曲"を数々振っているが、以上の3曲だけでも、彼の能力を証明するのに充分すぎるくらいだ。
 また、彼のフランス音楽への傾斜的な執着は、「ペレアスとメリザンド」日本初演のとき、ジャン・フルネの助手をつとめて以来のものだが、それも、とくにベルリオーズとドビュッシーの作品で、普段あまり演奏されない曲を、レパートリーに採り入れることで、とっくに周知の事実になっている。
 一方では、「ダフニスとクロエ」の第2組曲とか、「春の祭典」を振って、バトン・テクニックの優秀さも、誰にもひけをとらないことを、"誇示した"と云ってもいいほど、見事にやってのけた。
 だから、いまさら、若杉弘のことを、「あれはほんとうに指揮者になったよ」と云うことなんか、何もないじゃないか。そう思われてもあたりまえである。反対に、「若杉は指揮者じゃないよ」などと(云うつもりは全然ないが)云ったりしようものなら、どやしつけられるのが落ちである。
 世界中に、指揮台にのぼって、オーケストラを相手に手を動かす人間は、何千何万といるだろう。だけど、私たちが指揮者をサカナにして話し興ずるとき、名をあげるのは、多く見つもって30人くらいのものだ。つまり、何万人のうちの30人くらいが、"誰からも認められる ほんとうの・・・・・ 指揮者"なのである。あとは、指揮をしていても、指揮者を職業としていても、観念の中に定着した指揮者ではないのである。
 もしかすると、私は、若杉が歩いてきた"音楽への道"を知りすぎているので、過小評価していたかも知れない。いや、むしろ、若杉に甘い点をつけてやることを、自分にいましめてきたと云ったほうが正しい。ここに、彼がレコードのために、スタジオで録音した、初めての「古典音楽」の演奏がある。数え切れないほどの枚数にのぼる「田園」のレコードの中に、若杉のレコードの占める位置について云々することは、いま、私がしたいことではない。私がこの演奏を聴きながら、そして充分に満足しながら、「若杉弘は、ほんとうに指揮者になってしまった」と口に出して、人に伝えたいと思ったのである。

※筆者注:このレコードのライナーノーツには、他に、遠山一行氏の「知的な古典性!」、粟津則雄氏の「2つの能力の天賦とも言うべき結合」、西村弘治氏の「自分たちのベートーヴェンに対する共感!」、篠田一士氏の「掛値なしの僕たち自身の音楽」が掲載されている。

大山 隆


『全日本合唱連盟発行「ハーモニー」1983年10月1日発行』
≪≪クローズアップ 若杉弘≫

 私が若杉弘に初めて出会った頃、それは30年よりももっと前のことだけれども、彼は慶応の大学生だった。学部は知らない。お父上様は有名な外交官だったが、すでに亡くなっておられ、お母さまは教養豊かな落ち着いた方だった。要するにいい家のぼんぼんである。この育ちの良さが、のちのちのキャリアに多くプラスに影響することになった、と私は見るが、このぼんぼんは、慶応で楽友会合唱団のメンバーではあったけれども、私が大学生と知り合いになる通常のいきさつ、例えば北村協一が関西学院グリークラブのメンバーとして私の前に出現したのと違って、アマチュア・コーラスの熱心な音楽好きというのとまったく別の、ある意味で最初からプロ志向の1人として現われたのだった。(私は今、この文章を合唱雑誌のために書いていることを意識しているのだが)当時の若杉弘は、私の音楽学校時代の同級生である佐々木行綱に声楽を習っていて、佐々木の紹介で、私がやっていたプロ合唱団・東京コラリアーズのメンバーになりたいと言ってやって来たのであった。知る人ぞ知る、という昔の話だが、東京コラリアーズに在団するということは藤原歌劇団にきわめて近くに存在することを意味していたから、彼がオペラ制作の中心に侵入してくるのはごく自然な成り行きで、1955年だったか、私がオペラ「リゴレット」を指揮した時は、練習ピアニストとしてその制作に参加していた。彼は、それがオペラに直接関係した経験の最初だった、と言っている。
 彼が慶応(大学)を一応卒業したのだったか、結局途中で辞めてしまったのだったか、はっきり記憶にない。とにかく、音楽の専門家になるために、若杉弘は東京芸術大学の音楽部声楽科に入学する。そこで、畑中良輔氏の門下に入り、この最高レベルの教養人である2人の音楽家は、永く意気投合するということになる。そして、1959年だったと思う。あれは、NHKが呼んだ『イタリア・オペラ』の第2回の時だという記憶がある。若杉弘はその頃はまだコーラスの一員だったのではなかったか。ある日の練習の後、立ち寄った喫茶店で、私は彼から相談を受けた。声楽科から指揮科に転科したいというのである、指揮者になりたい。私は反対した。指揮科を出たって現実に指揮者になれるチャンスは極めて狭く限定されているし、職はなかなか無い。だいたい今までに芸大の指揮科を出た者で、まともに1人前の指揮者になった人が1人でもいるか。(若杉弘の後にも小林研一郎のほかに1人もいないんじゃないか?)それに、あとは冗談半分に言ったのだが、あんたに棒振りになられたら、ボクにとって強大なライヴァルができるし、ボクの仕事をさらっていってしまうに決まっている。ごめんだね。反対だ、反対だ。
 そしてごらんのとおりである。才能のことはこの際言わない。若杉弘さえいなかったら、私のところに回ってきた仕事も、もう少し多かったのではないか、と今でもウラミに思っているのであるが、しかしその後は歯が立たない。アレヨアレヨという間に、彼は世界的指揮者になってしまった。ケルン放送交響楽団の首席指揮者から始まって、デュッセルドルフ/デュイスブルクのライン・ドイツ歌劇場の音楽総監督(GMD)−その歌劇場では、かの大ヴェテラン、アルベルト・エレーデなんかが若杉弘の配下に属しているのである−になったと思えば、ついに、ドレスデン国立歌劇場およびその歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ)の常任指揮者に就任してしまった。40年前にカール・ベームが就いていた地位である。そして、ベームと若杉弘とは同じくらいの年齢が違うのだから、若杉弘がのちのちのベームが辿ったコースを歩む可能性は大いにある。つまり、いつの日にか、若杉弘がウィーン国立歌劇場の総監督になっていても不思議はないのである。また、今のベルリン国立歌劇場の音楽監督オトマール・スイトナーの前任地はドレスデンであった。だから、若杉弘はいずれの日か、ベルリンかウィーン、つまりはヨーロッパ全土に対して睨みを利かせる人物になるべくして辿る道を進んでいると言えるのである。
 どうして彼だけが、ほかの日本人指揮者の及びもつかない地位に次々就いてゆくのか。才能に恵まれていることは当然のこととして、彼がいつの間にか身に付けた教養の深さを見落とすわけにはゆかない。ヨーロッパの階級制度は意外にも厳然として残っていて、アメリカや日本(表面上の)からは想像もつかないほどだそうである。そこで交わされる会話の内容は極めてハイ・ブラウであり、美術・文学・演劇・哲学などに関する深い教養が要求されるのだそうだ。若杉弘は日本人音楽家として、そうした社交の場で太刀打ちできる唯一の人物なのだ。それは社交の術としても、あるいは態度の品格にしても、きわめて優秀な外交官だった父親ゆずりの分もあるだろうし、また彼自身の飽くなき知的練磨の成果かもしれない。とにかく、若杉弘はただに一音楽としてだけではなく、教養人としてヨーロッパ社会に胸を張って生きてゆける堂々たる人物で、そこが、彼以前に欧州で成功をかち得た先輩指揮者との決定的な差異になって表われる。このスノビズムと誤解されかねない彼の生活態度は、本当はたいへんな謙虚さが上品な装いをまとっているだけなのにもかかわらず、過去には日本の料簡の狭いオーケストラ・プレイヤーからの敵意を買ったものである。ヨーロッパでプラスに働くものが、日本ではマイナスになる。現在でも若杉弘が日本のオーケストラから全面的に受け入れられているかどうか。
 かつて私は彼に聞いたことがある。ヨーロッパで地位が高くなって、一流のオーケストラを指揮するようになった最大の利点は何か、と。彼の返事はこうである。『オーケストラと会話ができること。こんなふうに音楽がやりたいと望んで指揮すると、むこうは、そうそう、こんなふうにだろう?と返してくる。その無言の会話が何とも楽しい』と。羨ましいことに、彼は日本に居たのでは絶対に持ち得ない音楽的境地を所有するところまで行ってしまったのであった。それでも、彼は生来のひと懐っこさを失っていない。デュセルドルフで「リゴレット」を指揮することになったといっては、長距離電話をかけて寄越すし、つい先日も、同じ日に京都に泊まっていたのに、知らん顔をして東京へ帰ってしまったと言って、大の不平面で自分はまだ京都に居たまま、長い電話をしてきた。彼の指揮するマーラーの大交響曲などを聴いていると、もはや同業者とは言えないほどの尊敬を感じてしまうが、この大指揮者は昔のフレキシブルな心を、少しも失っていない。


 福永陽一郎Memorial