若杉弘氏を偲んで 〜陽ちゃんとピノさんの交流(1)〜

「藤沢市民オペラ『トゥーランドット』公演に想う」

≪音楽現代≫ 1994年2月号 P180〜182 〔はだかの広場〕掲載


 1993年11月、藤沢市民オペラ創設20周年・藤沢市民会館開館25周年を記念して、イタリア・オペラの傑作でプッチーニの遺作となった『トゥーランドット』が、藤沢市民オペラによって上演された。私はその初日と最終日を観に行きました。トリプル・キャストによる4回公演(チケットは早々に完売!)で、総監督に畑中良輔、音楽監督に北村協一、指揮者に若杉弘、演出に栗山昌良の各氏、舞台装置、照明、衣裳等の舞台スタッフ、副指揮者、合唱指揮者等の音楽スタッフ他、優秀な人材を起用し、オーケストラは藤沢市民交響楽団、合唱は湘南コール・グリューンや藤沢市民コール、藤沢男声合唱団、藤沢ジュニア・コーラス等の地元の有力な団体を主力に、慶應ワグネル・ソサイエティ等、出演者の殆どがアマチュア(市民)という"市民オペラ"と呼ぶに相応しい舞台であった。
 過去の藤沢市民オペラの実績を辿るならば、決して驚くべきことではないかも知れないが、今回の『トゥーランドット』は、その芸術的な質の高さにおいて特筆すべき内容であった。まずは、オーケストラの技術的向上ぶりは"奇跡的"としか言いようがなく、「これが藤響か?!」とか、プロ顔負けの実力といった域をはるかに超えた出来を披露していた。技術的な不安はなく、独奏部分もプッチーニの音色を表現していたが、それよりも何より感情移入の激しい"劇的なドラマ"を見事に演じていた。『トゥーランドット』の演奏においては、あのミラノ・スカラ座のオーケストラにも負けない程のレヴェルであった。(マリア・カラスがタイトル・ロールを歌った名匠トリオ・セラフィン指揮ミラノ・スカラ座のCDにも匹敵していた!)これは練習・稽古の賜物であろう。副指揮者の功績であり、若杉氏の手腕であろう。まったくの驚きであった。(副指揮者は地元出身の小田野宏之や沼尻竜典、佐々木修等の錚々たる実力者が務めていた。)
 そして、合唱が迫力・ハーモニー・ヴォリュームのすべてが素晴らしく、美しさ、感情の込め方、演技などもアマチェアとは到底思えないコーラスを形成していた。全国的にも屈指のレヴェルを誇り、オペラ出演の豊富な経験など、通常では考えられない第一線の合唱活動を展開している湘南・藤沢地区諸団体の総力を結集した大コーラスは本当に凄かった!
 オーケストラ、合唱共に「カルメン」「ウィリアム・テル」「アイーダ」「椿姫」「ファウスト」と、回を重ねるごとに素晴らしくなってきている。舞台に釘付けになっていた私は、何度も鳥肌が立ち、血が逆流し、目頭が熱くなりました。あの有名な東天紅のメロディーや愛と栄光を高らかに歌い上げる感動のフィナーレが脳裏から離れません。演出、舞台装置、北京に行って特注した衣裳、市職員による裏方など、すべてがブラヴォーでした!
 ソリストは殆どが二期会を代表するスターや重鎮で、生涯に1度歌えるかどうか、という『トゥーランドット』だけに、その熱の入れ方は物凄く、各ソリストとも最高の歌唱力を披露していた。マリア・カラスがトゥーランドット役のベストと考えていたが、ニルソン・タイプの2人の歌手(片岡啓子、岩崎由紀子)のトゥーランドットの歌唱と演技も印象に残った。また、(理想はホセ・カレーラスの)カラフ役の田口興輔、藤原章雄も絶好調。「泣くなリュー」「誰も寝てはならぬ」ではプッチーニの真髄を聴かせてくれた。地味だが、このオペラの重要な役となる皇帝アルトゥムとティムール役が非常に芸達者で、その演技力には脱帽。かなり難しい役柄だと思う。戯けた演技力と歌唱力、3人のコンビネーションが勝負のピン、パン、ポンの3人も実に巧みに演じていた。ストーリーが深刻なだけに、この3人の役割は極めて重要である。ある意味では、このオペラのキーマンではないか。両日とも理想の出来を示していた。
 そして、このオペラの真の主役であるリューについてだが、初日は今売れっ子の宇佐美瑠璃で、可憐で抒情性に富んだ抜群のリリック・ソプラノを聴かせ、演技も控えめながら内面の意志の強さを感じさせた。「お聞きください」では涙を誘い、「氷のような姫君も」では強靭な信念で見事に愛を謳い上げていた。(しかし、この人はいつ見ても美しい!)
 また、このリュー役では「藤沢オペラ・コンクール」での上位入賞者を抜擢していたが、これがまた素晴らしかった!一流のソリスト達に囲まれても堂々と自分の歌唱力と演技力を披露していた。最終日の菅英三子はコンクール第1位&福永陽一郎賞を受賞した女性で、宇佐美とは違った魅力のリューを演じていた。これからの活躍が大いに期待できる逸材ではないか。今後も藤沢市民オペラの常連になって欲しい歌手である。
 以上の8役が各々極めて個性的なキャラクターを有し、歌唱は勿論、高度な演技力も必要とするし、民衆、衛兵、高官、子ども達などのコーラスを合わせると総勢500名にものぼる出演者を要する『トゥーランドット』こそ、その壮麗さとスケールにおいて、最大・最高のグランド・オペラであり、究極のオペラである。オペラ・ファンの1人として、『トゥーランドット』の舞台に接することができた歓びとともに、これを大成功させた出演者、スタッフおよび裏方さん、藤沢市の行政当局に対して、心からの感謝と敬意を表したいと思います。(天文学的数字となったという莫大な上演費用はどうやって捻出したのかしら…?)
 さて、『藤沢市民オペラ』といえば、その創設者である故・福永陽一郎氏の名前を忘れるわけにはいかない。福永氏が亡くなられたのは90年2月だが、この素晴らしい業績を引き継ごうと、盟友で先輩格の畑中良輔氏が福永氏の後継者として藤沢市の文化担当参与に就任し、北村協一氏が実質的な音楽監督を務めているわけだが、90年秋の「ファウスト」公演を成功させ、今回は我が国を代表する世界的指揮者の1人で、殊にオペラの分野ではこの人の右に出る人はいないと言われるマエストロ若杉弘が指揮者に迎えられたことにも注目したい。91年12月にも、藤沢市民交響楽団の「第9」を指揮しているが、「若杉さんが市民オペラを振る」という快挙は事情を知らない音楽ファンには驚き以外の何物でもないだろう。
 若杉弘氏と福永陽一郎氏との間は深い絆で結ばれているのである。50〜60年代のオペラ隆盛期、藤原歌劇団の稽古場ではコレペティトーア(コレペチトゥール)の福永氏が八面六臂の活躍をしていたが、その福永氏を中心に一流の歌手達やオペラに熱中する若い音楽達が日夜稽古に励んでいた。オペラの裏舞台(裏方)、下準備の魅力に取り付かれた音楽家の卵の中に若き日の若杉氏の姿もあった。福永氏の指揮の下、「リゴレット」の練習ピアニスト、「蝶々夫人」渡米公演の領事代役、日本初演「ホフマン物語」では有名な舟歌の舞台裏指揮者を務めている。(お互いに"陽ちゃん""ピノ"と呼び合う仲であった。)
 オペラの楽しさを知ったのも福永氏の影響が大きかったと思われます。多くの音楽家と同様に若杉氏も福永氏にインスパイアされた1人だろうと思う(私もその1人)。
 "陽ちゃん"の音楽性、人間性、生きざまに影響を受け、薫陶を受けた人は数え切れないほどであろう。そんな多くの仲間達が集まって、陽ちゃんの遺志を継ぎ、さらに発展させて、より素晴らしい文化遺産にしていく、これこそがホンモノの文化ではないだろうか。
 市民を夢中にさせた『トゥーランドット』を成功に導いたのは、市民に音楽の素晴らしさとオペラの面白さを現場体験の中で植え付けていった陽ちゃんの情熱と魔力ではないか。
 "市民の市民による市民のための藤沢市民オペラ"のエネルギーの根底に福永陽一郎のしたたかな情熱と愛を感じざるを得ない。
 藤原義江をして「オペラの虫」と言わしめた福永陽一郎が目指した究極のオペラこそが『トゥーランドット』であった。自らの引退公演で指揮したいとも語っていた。それを生前、本人から聞いていた市民オペラメンバーの張り切りようは想像に難くない。そして、「この度のプッチーニ最後の傑作の上演を、恩師・福永陽一郎氏の霊に捧げたく存じます。」と述べられた若杉氏の優しさと熱意にも涙を禁じ得ません。多忙の中を、連日連夜、藤沢に足を運び、市民を相手に丁寧に稽古をされた若杉氏の熱い思い、より高い次元の上演を目指す芸術家魂、福永氏への追悼の念など、マエストロ若杉の誠実で真摯な人間性に感動します。
 しかし、これらもすべては本番の舞台が成功しての話。天なる陽ちゃんが望んでも簡単には叶えられそうもない最高のスタッフで上演された『トゥーランドット』が、その芸術的質の高さで大成功したことを永遠に続いたカーテンコールで確信しました。
 市民オペラや県民オペラが全国各地でも話題になるようになってきたが、その市民や県民の参画度や上演スタイル、文化への認識等を考えた時、藤沢市民オペラこそが真の市民オペラといえるのではないか。福永陽一郎氏の経験と見識、とくにNHKイタリア歌劇団の日本公演に際しての経験(副指揮者・合唱指揮者)からヒントを得たスタイルを採り入れた藤沢市民オペラの企画のユニークさはずば抜けている。藤沢市長をはじめとする裏方さんを含めた行政当局の理解と協力は極めて稀であろう。
 市民文化や総合芸術としてのオペラというものを考える時、私は藤沢にその理想を見ている。今後の活動も楽しみと期待でいっぱいである。今回の公演に福永氏のお孫さんがバンダの1人として参加していたことも嬉しいニュースであった。福永陽一郎氏が生涯を賭けた音楽への愛とオペラへの情熱が永遠に不滅であり、福永氏にインスパイアされた人々の心の支えとなり、脈々と受け継がれていくことを信じて、"陽ちゃんといっしょ 歌いつつあゆまん ハレルヤ! 藤沢市民オペラに栄光あれ!!"

大山 隆(32歳・横浜市 港北区 日吉在住)

 福永陽一郎Memorial