福永さんの思い出

濱地勝太郎


 昭和24年(1949)4月、私は九大の受験に失敗し浪人をすることになったが、知人の紹介で、GHQのCCD(民間検閲局)福岡支局にアルバイトで勤めることになった。CCDでは昼休みにいろいろな文化サークル活動が有ったが私は高校でコーラスをやっていたので合唱サークルに入った。これが「筑紫野合唱団」で、従業員はインテリが多いこともあって福岡県内でもレベルが高い混声合唱団だった。福永さんが「筑紫野合唱団」の指揮、指導をされるようになったのは9月頃だったと思う。手元に9月30日作成の「筑紫野合唱団第1回発表会予定曲目表」が残っている。指揮 福永陽一郎、団員57名で、曲目は殆どが福永さん編曲のものであった。
 ところが突然10月末にCCDが閉鎖になり「筑紫野合唱団」は解散となったが、団員の一部は「コール ユーフォニック」と名前を変え、引き続き福永さんに指揮、指導をお願いして活動を続けることになった。
 福永さんの母上津義さんは昭和15年(1940)から西南保姆学院の院長を務めておられたが、保姆学院(保育専門学校、通称“保専”)が福岡市鳥飼に在り、私の家が近かったこともあり、「コール ユーフォニック」では庶務係を務める一方、福永さんの秘書のような立場で、始終福永邸に出入りし、福永さんのピアノリサイタルの公演や「福岡歌劇研究会」の設立のお手伝いをした。
 翌昭和25年(1950)4月、「コール ユーフォニック」は福永さんが指導しておられた西南学院高等部の合唱団「西南カレジエイト コーラル ソサエティ」に吸収された。私は九大に合格、九大の学生になったが、「西南カレジエイト コーラル ソサエティ」の団員として、「西南創立記念音楽会」、「西南グランドコンサート」、「西南学院開学記念音楽会」、「西南クリスマス」等々、西南学院の行事に度々出演することになった。九大では、私が福岡県中学修猷館時代の同級であった「荒谷俊治君が「コール アカデミー」男声合唱団の指揮をしていたが、それに参加することはついに無かった。当時、福岡では「石丸 寛氏や「森脇憲三」氏もそれぞれ合唱団を持ち活躍して居られ、合唱祭や、合唱コンクールを通じて懇意にして戴いた。
 昭和26年(1951)2月、福永さんは藤原歌劇団の合唱指揮者になるということで上京され、私とのご縁は終わった。私自身も九大の学生としての勉学が忙しくなり、自然退団となった。
 昭和27年(1952)、福永さんは「東京コラリアーズ」を組織されたが、その中の「長 弘」さんは「西南カレジエイト コーラル ソサエティ」でバスを、私はテノールで親しくさせて戴いた。またソプラノには「桜井暁子」さんがいたが、後の福永夫人である。
 以上、福永さんとの交流は1年半に過ぎなかったが、私にとっては2歳年上の兄のようで思い出は尽きない。なお私は卒業後、山口県に勤めた為、その後福永さんにお目にかかる機会が無いままになってしまった。勤め先では社内の合唱団に入り、指揮者まで務めたが、85歳になった今ではコーラスとは縁が切れてしまった。

以上(2014年1月13日)


福永陽一郎Memorial