陽ちゃん没後20周年に寄せて
〜その後に聴いた演奏会を通じて〜


陽ちゃん20回目の命日(2010年2月10日)以降に聴いた3つのコンサートについて、陽ちゃんとの接点を意識しながら追悼の念を込めて書いてみたい。
 キーワードは、"渡邉曉雄" "小林研一郎""フィンランディア" "福永陽一郎編曲""早稲田グリークラブ""東西四連""小久保大輔""畑中良輔"等である。
 2月20日の『法政アカデミーOB合唱団 5th Concert〜「福永陽一郎没後20年メモリアルステージ」』後に聴いた3つのコンサートは以下のとおり。

(1)6/13(日)日本フィルハーモニー交響楽団 第340回名曲コンサート
≪渡邉曉雄没後20年祭≫ 指揮:小林研一郎(サントリーホール)
(2)6/19(土)第26回 早慶交歓演奏会(杉並公会堂 大ホール)
(3)7/4(日)藤沢男声合唱団 創立30周年記念 第21回定期演奏会
(藤沢市民会館 大ホール)


【日本フィルハーモニー交響楽団 第340回名曲コンサート≪渡邉曉雄没後20年祭≫】

『渡邉曉雄について』

我が国のオーケストラ界の支柱として多大な功績を残した渡邉曉雄が、1990年6月22日に亡くなって20年である。1990年は、私が強い影響を受けた2人の指揮者(渡邉曉雄と福永陽一郎)が亡くなった悲しい年であった。(10月にはレナード・バーンスタインも亡くなっている!)
 多感な学生時代、オーケストラの分野では渡邉曉雄、オペラと合唱の分野では福永陽一郎から大きな影響を受けた。陽ちゃん流にいえば、"インスパイア"されたことになる。
 渡邉曉雄&日本フィルのコンサートが、私のオーケストラコンサート初体験であった。生演奏の素晴らしさを肌で感じ、オーケストラの醍醐味を知り、その魅力にハマったきっかけにもなった。温容にして柔和な容貌、長身でスマートな容姿、高貴で気品溢れる貴公子のような雰囲気はまさに紳士を絵に描いたような指揮者であった。血統も嵯峨天皇まで遡る名門であり、父はプロテスタントの牧師、母はフィンランド人の声楽家であった。奥様は先妻も後妻も鳩山一郎元首相の息女であり、自宅は護国寺近くの音羽にある鳩山御殿の一角にあった。終演後、楽団員と一緒に一礼をしてステージを去る時の笑顔と立ち居振る舞いに、いつも至福の一瞬を感じたものだった。
 しかし、そのいきざまは−ある意味−波瀾に満ちた人生だったかも知れない。当時、ドイツ・オーストリア音楽一辺倒であった我が国の音楽界に新風を吹き込んだ指揮者であった。ヴァイオリニストとして出発し、アメリカで指揮を勉強し、自ら創立に参画した日本フィルと共にレパートリーの開拓に尽力、他の指揮者やオーケストラに刺激を与えた。「日本フィル・シリーズ」に代表される邦人作曲家の作品の紹介をはじめ、シベリウスを中心とした北欧音楽やフランス音楽の紹介などに積極的に取り組んだ英断と功績は大きい。さらに、世界的なマーラー・ブームの先駆けとして、山田一雄と共にマーラーの交響曲を数多く取り上げ、若杉弘や小澤征爾、小林研一郎に先鞭をつけた。マーラーを得意とする日本人指揮者が多く輩出されているが、山田一雄と渡邉曉雄の果たした役割は大きいと思う。
 私が聴いた渡邉のコンサートでとくに深い感銘を受けたものは、ヘルシンキ・フィルの来日公演を指揮したシベリウスの交響曲「第1」「第4」「第7」、日本フィルとのシベリウス・ツィクルスで聴いた「フィンランディア」、ベートーヴェン・ツィクルスで聴いた「第2」「第8」、フォーレの「レクイエム」、ラヴェルの「ダフニスとクローエ(全曲)」、ベルリオーズの「幻想」、マーラーの交響曲「巨人」「復活」「第5」「千人」「第9」、都響とのマーラー等である。ベートーヴェンではシューリヒト指揮パリ音楽院管弦楽団のような高貴で絶妙のニュアンスに満ちた演奏だったし、フランス音楽ではクリュイタンスを彷彿とさせるエレガントな演奏であった。
 日本フィルがその経営母体であったフジテレビと文化放送から解散させられた以降、あらゆる場面で毅然とした態度で指揮台に立ち、後に二度にわたり音楽監督・常任指揮者に復帰(就任)している。(※日本フィルは分裂し、当時の首席指揮者であった小澤征爾が新日本フィルを創設し、残った者は新生日本フィルとして自主運営という茨の道を歩んだ。我が国のオーケストラ界の大悲劇であった。日本フィル創立50周年を記念して発売された「渡邉曉雄と日本フィルCD全集(26枚組)」を聴いて痛感したことは、このオーケストラが解散せずに、活動を継続していたら名実共に世界的レベルを誇る一流オーケストラになっていたであろう!ということだ。他の国内オーケストラとは異次元の技術力と真の個性・響きを持ったオーケストラとして、世界でトップ10に入っていたと思う。そういう意味から本当に不幸な事件であった。それを一番に感じていたのが渡邉曉雄だったと思う。)音楽界の重鎮が自ら火中の栗を拾い、理不尽で不条理な勢力や世論に対し、抵抗の姿勢を示したのであった。その姿勢は、ご母堂の国・フィンランドが帝政ロシアの圧政に抵抗した姿に似ているためか、渡邉&日本フィルによるシベリウスの交響詩「フィンランディア」は格別の名演であった。一方で、地方にも目を向け、広島交響楽団の音楽監督・常任指揮者や作陽音楽大学の教授に就任、津山国際総合音楽祭の開催など、中国地方の音楽文化の普及と育成に尽力した。東京を中心とした一極集中の文化ではダメだという信念から、地方文化に傾注したわけだが、そのあたりは陽ちゃんと相通じるものがある。
 今年没後20年を迎えた渡邉曉雄にも想いを寄せ、渡邉指揮のCD(シベリウス)にも耳を傾けている日々である。

『小林研一郎について』

かつて、"炎のコバケン"と呼ばれていた指揮者の小林研一郎も今年で70歳。渡邉曉雄(と山田一雄)の弟子であり、渡邉の後を受けて日本フィルの常任指揮者や音楽監督に就任し、黄金時代を築いた指揮者だが、その活躍はチェコ・フィルをはじめ、今や世界的指揮者の1人であり、私がずっと期待し、愛聴している指揮者である。(後に続く指揮者は大野和士と上岡敏之だと思う。)
 渡邉曉雄の没後20年祭コンサートを指揮する人としては最適の人だ。私は小林研一郎の実演も数多く聴いてきているが、今回のコンサートを聴いて、円熟の境地に入り、真の巨匠への道を歩み出したと実感した。こうした経験はそう多くない。渡邉曉雄と若杉弘が70歳手前の頃に実感して以来である。この2人、まさにこれからが楽しみ!と期待していただけに、それから間もなくの逝去に残念な思いをした。今後は小林研一郎のベートーヴェンを聴いてみたい!と心底思う。小林もベートーヴェンにはかなり慎重らしいが、それに反して、岩城宏之の後を受けて、大晦日に全9曲をぶっ通しで演奏するという愚の骨頂ともいえるくだらないイヴェントに挑んでいたのは残念だ。派手好きでトピックス狙いの岩城らしいアイデアだったが、演奏の質を含めて、私は一切認めない。某評論家は「ベートーヴェンへの冒涜である!」と言っていたが、それを小林が引き継いでやったことに憤りと悲しみと情けない思いをしたのだった。
 前置きが長くなったが、≪渡邉曉雄没後20年祭≫ のプログラムは以下のとおり。

(1)グリーグ:「2つの悲しい旋律」
(2)モーツアルト:「2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調 K.365」
ピアノ:寺田悦子、渡邉規久雄
(規久雄は渡邉曉雄の次男、寺田はその奥さん)
(3)シベリウス:交響曲第2番
(4)アンコール:交響詩「フィンランディア」(合唱入り)

いずれも名演であったが、シベリウスの第2交響曲は渡邉曉雄生前最後のコンサートでも聴いている曲であり、「フィンランディア」とともに、彼が十八番にしていた曲である。追悼記念コンサートに相応しい選曲だ。この曲は過去にも小林の指揮で聴いているし、チェコ・フィルとのCDも好んで聴いているが、今回の演奏は円熟の境地に入ったことを実感できた非常にバランスのとれた名演であった。そして、アンコールの「フィンランディア」である。演奏前に小林がマイクを持ってスピーチをした。それは、20年前の6月22日、渡邉逝去の時の様子であった。当日は日本フィルの定期演奏会があり、終演後楽屋に戻った小林が危篤の知らせを受けて病室へ駆け付け、演奏会の成功を伝えると、意識のない渡邉の顔が微かに微笑み、その数分後に息を引き取った、というものだった。途中、言葉が詰まる場面もあったが、会場に居た聴衆の多くは渡邉曉雄&日本フィルのファンだったようで、アットホーム的な雰囲気が会場を包んでいた。そして、サプライズのアンコール!ステージ後方P席に一般客を装って座っていた日本フィルハーモニー協会合唱団協演による合唱入りの交響詩「フィンランディア」であった。おお、これは<渡邉曉雄70歳バースディ・コンサート>でも渡邉の指揮で聴いた感動の曲である。会場は「よお、待ってました!」といわんばかりの掛け声と拍手で、大盛り上がりのうちに終演。日本フィルの素晴らしい伝統である、指揮者と楽団員が丁寧に一礼してジ・エンド。
 渡邉曉雄を偲び、小林研一郎が真の巨匠の道を歩み出したことを確信し、大好きな合唱入りの「フィンランディア」を聴けた素晴らしいコンサートであった。

『フィンランディアについて』

陽ちゃんと渡邉曉雄氏の交流については不明であるが、レコード演奏に関して評論家・福永陽一郎は渡邉曉雄を高く評価していたとは思えない。シベリウス交響曲全集のレコード評でも、一定の敬意を払いながらも、推薦盤にはしていなかった。私が思うに、例えば交響曲第2番などは陽ちゃん自身も好きな曲で何度か取り上げていた。東京交響楽団とのライヴ録音(カセットテープ)を所有している。この曲では最終楽章をどのように演奏するかが鍵となるが、渡邉氏と陽ちゃんでは正反対の解釈だったと思う。渡邉氏の演奏は実演で3度、CDで6種の音源を所有しているが、非常に抑制の利いた、情熱を内に秘めた端正な演奏であった。(例外的に日本フィルとの小樽ライヴはフィンランド人の魂を解放するような情熱迸る演奏であったし、生涯最後のコンサートでの演奏はそれをも昇華させるような深遠かつ神々しい演奏であった。)渡邉氏はトスカニーニの流れに属する、ノイエ・ザッハリヒカイト的な解釈をする指揮者であったが、陽ちゃんはフルトヴェングラーやバーンスタインの流れに属する指揮者だったと思う。そういう点では、音楽の解釈・演奏へのスタンスそのものが違っていたのだと思う。(1984年大阪で開催された東西四連では、早稲田を山田一雄が、慶応を畑中良輔が、同志社を福永陽一郎が、関学を北村協一が、そして、合同演奏を渡邉曉雄が指揮している。錚々たる顔ぶれである。楽屋はどんな雰囲気であったのか?)
 そして、「フィンランディア」についていえば、中間部の旋律で合唱を入れる演奏はLPレコードやCDでも数種類が聴けるようになったが、この旋律は讃美歌第298番「やすかれわがこころよ」としても収録されている。ノスタルジックで美しいメロディーである。この讃美歌は陽ちゃんの前夜式と告別式でも歌われた。渡邉氏も陽ちゃんも牧師の息子という共通点があるが、2人とも「フィンランディア」が好きで、折に触れて演奏していた。1986年9月の『陽ちゃんといっしょ 福永陽一郎還暦コンサート』では、陽ちゃん訳詞・編曲によるオーケストラ演奏<合唱入り>が演奏された。素晴らしい演奏であった!これもカセットテープで所有している。その訳詞は以下のとおり。

はるかなるやまのかなたのぞみにあふれるくにそこくよいまわれはよぶ
こころのふるさとよそこくよいまわれはよぶこころのふるさとよ
みどりなすやまよかわようみべにくだけるなみそこくよいまかえりゆく
こころのふるさとよそこくよいまかえりゆくこころのふるさとよ
そこくよちちなるくにあー あー あー あー

(※2001年10月14日藤沢市民会館大ホールで開催された『陽ちゃんといっしょ in 藤沢』の最後は、小久保大輔指揮藤沢市民管弦楽団と陽ちゃん所縁の合唱団による陽ちゃん訳詞・編曲よる「フィンランディア」が演奏された。)
「フィンランディア」この曲は、私にとって、福永陽一郎と渡邉曉雄という尊敬する2人の指揮者へのオマージュとしての音楽である。


【第26回 早慶交歓演奏会】

陽ちゃんの奥様・暁子さんから招待券をいただき、聴きに行った。陽ちゃん存命中と亡くなって数年間は早稲田グリーや東京六連、東西四連などをよく聴きに行ったものだ。男声合唱の魅力にハマったのはこうした一連のコンサートで聴いた生の迫力からであった。
 今回の注目は何といっても、陽ちゃんのお孫さんである小久保大輔氏が初めて早稲田グリーを指揮するということだ。しかも、演奏する曲が、陽ちゃん作詞・編曲によるショスタコーヴィチの「革命詩人による"十の詩曲"より『六つの男声合唱曲』」という男声合唱曲中屈指の大曲であり、難曲である。学生達からの強い要望に応えて取り上げることになったという。しかも、翌週京都で行なわれる第59回東西四大学合唱演奏会にも、このプログラムを引っ提げて出演する(した)という。知る人ぞ知る、福永陽一郎の孫・小久保大輔が本格的に男声合唱界にデビューするということになる。ショスタコーヴィチの『六つの男声合唱曲』は声量が必要なため、大人数を要する。合同演奏で取り上げられることが多いが、過去には陽ちゃん自身が同志社グリーや早稲田グリー、東西四連(合同演奏)等で指揮している。私は1988年の早稲田グリー定期演奏会で陽ちゃんの指揮で、1991年の東西四連(早稲田グリー)で学生指揮者の田中宏の指揮で、名演奏を聴いている。(田中宏は当初指揮予定であった山田一雄の代役。山田が亡くなる2ヵ月前であり、病床にあった山田の代役を見事に務めた名演であった。)祖父の指揮も含めて、複数の音源が残っているだけに、小久保氏の解釈・演奏表現に注目が集まるところだ。しかし、そんなプレッシャーを一切感じさせない、楽譜を白紙の状態から読んだ、純粋で若々しいエネルギーの放出を感じさせつつも、抑制の利いた、調和のとれた名演奏であった。ハッキリいうと、祖父・福永陽一郎とはまったく異なる解釈であった。それは、テンポの違いでも明らかであり、各曲の"詩"の意味を深く理解し、構成も計算され、造詣力を感じさせた。小久保氏固有の解釈であり、過去に聴いたどの演奏(生と音源)とも一線を画す独特なものであった。早稲田グリーは男声合唱の衰退が叫ばれる時代にあっても、100名を超える団員が在籍しており、非常に力強く、曲想をしっかりと理解し、野性的な声と音量で応えていた。この難曲に挑んだ理由も解ったような気がした。終曲の「歌」では目頭熱くなった。小久保氏と早稲田グリーの果敢な挑戦と名演に拍手!(翌週の東西四連でも名演奏を披露したと確信している。)現在でも活躍の幅を広げている小久保氏だが、今後は男声合唱の世界での活動も増やしてもらいたいものだ。
 今、私が高く評価している指揮者にオレグ・カエターニという俊英がいる。彼は鬼才といわれた名指揮者イゴール・マルケヴィッチの息子だが、プロフィールにそれは載っていない。公にしていないのだ。小久保氏も同様に福永陽一郎の孫であることを公にはしていないと思う。それで良いと思うし、その姿勢やポリシーを評価したい。つまらないレッテルを貼られたり、イメージを与えることは避けた方が賢明である。音楽的な才能や演奏表現、結果で勝負していって欲しいと思うからだ。("バーンスタイン最後の愛弟子"とかいうキャッチコピーで売り出した某三流指揮者も居たが…。)
 他に、この演奏会で嬉しかったのは、慶應ワグネル・ソサイエティーが人数の少ないわりには素晴らしい合唱を披露していたことだ。音量もかなり出ていたし、相変わらず奥行きのある合唱を聴かせてくれた。指揮者は正指揮者の佐藤正浩氏だが、この人は本当に有能だし、活動の幅も広く、今後の活躍が楽しみな指揮者である。畑中良輔門下の逸材である。なお、この演奏会では畑中良輔で何度か聴いているレイナルド・ハーンの「恍惚のとき」を指揮していたが、メロディーを実に美しく柔軟に歌っていた。
 そして、合同演奏では、"福永陽一郎最後の弟子"というキャッチコピーで売り出しているかどうか不明だが、1980年代後半"向かうところ敵なし"といわれた当時の同志社グリーの学生指揮者として活躍していた伊東恵司氏が指揮をした。今日まで「なにわコラリアーズ」等を中心に、我が国の合唱音楽界でユニークかつ有意義な活動をされている人でもある。久しぶりに聴いた(観た)伊東氏の指揮は縦横無尽で難曲から綺麗な歌を導き出していた。師の陽ちゃんとは異なるタイプの合唱指揮者だと思うが、そのDNAは確実に引き継がれていると思う。
 小久保大輔・佐藤正浩・伊東恵司といった前途洋々の有能な指揮者の名演奏を聴け、清々しい余韻の残るコンサートであった。


【藤沢男声合唱団 第21回定期演奏会】

1980年、藤沢市民オペラの男声パートの一翼を担うことを期待して陽ちゃんの呼びかけで創立された合唱団である。今では、藤沢市民オペラをはじめ、合唱王国である湘南・藤沢地区でも欠かすことにできない"顔"となっている合唱団でもある。ここまで成長し力を付けてきた理由は、陽ちゃんの死後、畑中良輔氏をはじめとする一流の指導者からの薫陶を受けてきたことと、オペラ等幅広い活動を経験してきたからであろうか。畑中門下生の佐藤正浩氏や吉川貴洋氏といった優秀な指揮者を擁していることも見逃せない。
 今回の演奏会は創立30周年記念ということもあり、かなり欲張った内容だったと思う。
プログラムは以下のとおり。

(1)「From The Sunny South 〜A Choral Suit On The Song Of Stephen Foster」
 S.フォスター作曲/福永陽一郎編曲  指揮:吉川貴洋/ピアノ:黒澤美雪
(2)無伴奏男声合唱のための小組曲「見よ、かの蒼空に」
 石川啄木短歌・詩/信長貴富作曲  指揮:佐藤正浩
(3)オペラ合唱曲選
 「こうもり」「タンホイザー」「ナブッコ」「メリー・ウィドー」
 「ファウスト」「トゥーランドット」から
 指揮:吉川貴洋/ピアノ:黒澤美雪  ソプラノ:半田美和子 企画・構成:岩田達宗
(4)男声合唱とピアノのための「愛の夢」より(リスト作曲)
 指揮:畑中良輔/ピアノ:谷池重紬子

途中の休憩時間15分を入れて2時間半を超える演奏会であった。アンコールも4曲あり、聴く方もかなり疲れたのではないか。陽ちゃん編曲のフォスターやオペラの合唱曲など、プログラム構成の意図は十分に理解できたが、やや冗長的な印象を受けた。
 私が期待していたのは、陽ちゃん編曲のフォスターと畑中良輔氏の指揮である。フォスターは1988年の第37回東京六連で陽ちゃん指揮早稲田グリーの名演を聴いているし、その音源も所有しているので、何度も聴いている。このフォスター編曲は楽譜も発売されており、頻繁に演奏されている。
 1956年、藤原歌劇団第3次アメリカ・カナダ公演に指揮者として参加した陽ちゃんが、帰国の船の中で一気に書き上げた編曲である。さて、藤沢男声合唱団("藤男")の演奏であるが…。陽ちゃん指揮早稲田グリーの録音を何度も聴いている耳にはかなり物足りなかった。声質が合っていないのか。フォスターの親しみやすいメロディーが楽しく響いてこない感じがした。流れも停滞していた。平均年齢がかなり高い(ご年配の多い)男声合唱団には演奏が難しい曲なのだろうか。あるいは、不向きな曲なのだろうか。ただし、アンコールで(も)歌った"おお、スザンナ"は良かった!
 それに反して「見よ、かの蒼空に」はしっとりと"詩"の意味を深く掘り下げた落ち着きのある名演だった。信長貴富らしい曲でもあり、これは日本的な素晴らしい曲だと思った。
 オペラ合唱曲選は、第4回藤沢オペラコンクール(1999年開催)の第1位および福永陽一郎賞受賞の半田美和子も出演し、"藤男"ならではの演出や趣向もあり、実に楽しい舞台であったが、演奏の方は今一歩という感じがした。長丁場の演奏会でもあり、スタミナやパワーの不足が感じられた。楽曲紹介のトークは軽妙で面白かったが、こちらも少々話が長かったような気がした。
 ここまでの3ステージで、もうお腹いっぱいで、聴く方の集中力も途切れてきた。第4ステージが心配になってしまった。我が国の音楽界の重鎮中の重鎮であり、"藤男"の最高顧問である畑中良輔氏の指揮だからだ。陽ちゃんの盟友であり、超多忙の中、陽ちゃん没後の藤沢の音楽界を牽引し、維持・発展させてこられている音楽家でもある。年末〜年始と肺炎で入院され、2月12日の88歳の誕生日には「畑中良輔・更予の米寿&卒寿記念コンサート」を開催しているが、身体的な衰えを感じざるを得ない状況であった。しかも、3月20日(午前1時34分)には奥様を亡くされている。奇しくも、この20日は今年の藤沢オペラコンクール最終日であったが、畑中氏は周囲に奥様の死を伝えずに、コンクールの最後まで委員長の仕事を全うされたとのこと。いろいろな意味で不安と期待を抱かせる最終の第4ステージだと私は思っていた。心の中では、祈るような気持ちであった。
 車椅子に乗った畑中良輔氏が指揮棒を上げながらにこやかに登場!マイクを持って挨拶と曲目の紹介。30年前と少しも変わらない若々しい声で、ユーモアとエスプリに富んだ得意の冗談や毒舌で会場を沸かせた。持病の悪化で車椅子になったこと以外は以前と変わらず、矍鑠とした立ち居振る舞いであり、トークであった。まずは一安心!リスト作曲の『「愛の夢」より』を、魔法の棒の如く、流麗にロマンティックに、時に雄渾に、時にリリシズムを奏で、時にピアニシズムの美しさを表出し、愛に満ち溢れた"うた"を見事に紡いでいたと思う。「畑中良輔健在!畑中タクト冴えわたる!」といった印象を持った。嬉しかった。陽ちゃんを通じて知った多くの音楽家(関屋晋、北村協一、三浦洋一、若杉弘…)が他界し、最年長格の畑中氏が最後まで孤軍奮闘の活躍をされている。本当に嬉しかった。健康に留意され、音楽界の重鎮として今後も活躍されることを祈念申しあげたい。「藤男」もお見事でした!ちゃんと最終ステージ用に余力を残しておいたのですね。本当に素晴らしい演奏でした。会場も満員で、「藤男」が市民から愛されていることを確認できました。「藤男」は欲張りなのではなく、サービス精神が旺盛な人の集まりなのだろう。今後の活動にも注目していきます。なお、クロージング・ソングは「フィンランディア讃歌」であったが、最後に陽ちゃん訳詞の曲も演奏されたが、これは泣けた。
(そういえば、陽ちゃんが亡くなった1990年の藤沢市民オペラ「ファウスト」の公演終演後、陽ちゃんが贔屓していた藤沢駅近くにあったステーキルーム「松坂」で、少しだけ畑中先生と御一緒したことがある。この「松坂」は陽ちゃん行きつけの店だったので、畑中先生や北村協一氏も常連だったようだ。陽ちゃんが亡くなった後、この「松坂」でご両名がオペラ歌手の人を連れて食事をされているのも何度かお見かけしている。菅英三子さんだったか。しかし、この「松坂」も今はもうない。陽ちゃんと何度か一緒に食事をして、たくさんの話を聴かせていただいた懐かしいお店であった。)


【陽ちゃんの編曲について】

幅広い分野の声楽曲を多数編曲していた陽ちゃんだが、私がとくに好きな楽曲は以下の3つ。

<1>「From The Sunny South 〜A Choral Suit On The Song Of Stephen Foster」
 −フォスター作曲の名曲集
<2>「Lieder eines fahrenden Gesellen」
 −マーラー作曲「さすらう若人のうた」
<3>「革命詩人による"十の詩曲"より『六つの男声合唱曲』」
 −ショスタコーヴィチ作曲、安田二郎訳詞(安田二郎は福永陽一郎のペンネーム)

幸いにも、上述のとおり、この6月と7月に<1>と<3>を聴くことができた。
 <2>については、小林研一郎氏の十八番で、何度も取り上げている。海外でも演奏されているが、ドイツでも大好評で「楽譜は入手できないか?」と会場で問い合わせが殺到するという。この曲の不滅の名盤として知られるD.F.ディースカウ独唱、フルトヴェングラー指揮のものよりも、私は陽ちゃん編曲版の方が好きだ。小林氏指揮の音源は何種か所有しているが、残念ながら陽ちゃん指揮のものは持っていない。そもそも、陽ちゃん指揮の実演を聴いた記憶もないが…。
 <1> については、かつて、CBSソニー(20AG28)から「フォスター名曲集」というLPレコード が出ていたようだが、陽ちゃん編曲版だったのか不明である。福永陽一郎指揮CBSソニー四重奏団の演奏である。再発は無理であろうか?
 <3>については、早稲田グリーや同志社グリー、東西四連の合同演奏のライヴがCDで発売されていたが、殆どは廃盤であろう。今回の第59回東西四連のライブCDは発売されるのであろうか?改めて、小久保大輔指揮早稲田グリーの『六つの男声合唱曲』をじっくりと聴き直してみたいものだ。


【陽ちゃんの文章からの転載】

最後に、陽ちゃんの孫・小久保大輔氏が名誉ある東西四連にデビューしたことを祝して、陽ちゃんの文章を転載させていただくことで、陽ちゃん没後20年の追悼の念を表したい。1つは、「特別寄稿『四連と私』」であり、もう1つは、ショスタコーヴィチの「革命詩人による"十の詩曲"より『六つの男声合唱曲』」の曲目解説である。なお、四連こと「東西四大学合唱演奏会」が我が国の合唱界(男声合唱界にとどまらない)において、どのレベルにあり、どういう位置付けにあるのか、それを知ってもらうには過去の演奏歴(ライブラリー)を参照いただくのが早道だと思う。取り上げられた楽曲の数々と指揮者の顔ぶれに圧倒されるはずだ。私が四連を知り、聴いていた時代の指揮者陣は、基本、関学を北村協一、同志社を福永陽一郎、慶応を畑中良輔、早稲田を小林研一郎や山田一雄、合同演奏を左記指揮者に加え、渡邉曉雄や関屋晋といった人達が指揮していたのだ!まさに錚々たる顔ぶれである。真にプロフェッショナルな指揮者達が指揮を通じて指導することで合唱技術の向上は勿論のこと、音楽芸術や文化の持つ力を学生達の生活や人生にどれだけ植え付けていったのか、"うたうことのよろこび"や"人生の意味"を考えさせたのか。昨今の男声合唱界の衰退ぶりを見るに、指導者不足(質&量)が否めないと思われる。
「慶應義塾ワグネル・ソサイエティー男声合唱団」のホームページから。
 http://www.wagner-society.org/library/library_4ren_adsl.htm
 ※直近2年分が更新されていない模様。

「特別寄稿『四連と私』」福永陽一郎
(1988年 第15回早慶交歓演奏会プログラムより)

『東西四連』の第1回が開催されたのは、1952年9月22日,23日である。会場は京都が同志社の栄光館で、大阪は出来たばかりの産経会館であった。
 私は、この演奏会を聴くために、わざわざ東京から出掛けて行った記憶がある。大阪公演の次の日、帰京する列車の中で早稲田のグリークラブと一緒になって、大いに歓談したことを覚えている。しかしそれは"記憶"であって、その証拠はない。自分でもそう思っていた。
 ところが、思いもかけぬ場所から、私が1952年の第1回の『東西四連』を確かに聴いている証拠が発見されたのだ。それもごくごく最近、早稲田大学グリークラブは、今年(1988年)、その事務所を移転したのだが、そうした時によくあることだけれども、それまで誰もがその中身を吟味しようとしなかった"古文書"の束から、思いもしないものが、偶然に発見される。そんなことがある。今度の場合、何も期待しないところから、ボロボロに古くなった1952年頃の関西学院グリークラブの「部報」が出てきたのである。
 見つかった関西学院グリークラブの「部報」は、1952年の第1回の『東西四連』の直後に発行されたもので、「四連特集号」の態をなしており、その中に、私〜本人はそのようなものの存在をすっかり忘れていた〜が執筆した「四大学の演奏批評」が、かなりのページ数を取って記載されていたのである。つまり、この「関西学院グリークラブ部報」に載った記事のおかけで、私が第1回『東西四連』を確かに聴いたことが、証明された。それが、こともあろうに早稲田のグリークラブで見つかったとは!
 私が『四連』をわざわざ聴きに行ったのは、単に合唱が好きだったから、というだけではない。その頃はすでに私はプロフェッショナルな音楽家ではあったが、学生合唱団などとも、それぞれ、曰く因縁があって、親密な"つきあい"があった。
 関西学院グリークラブとは、もう本当に長い間の"えにし"があり、例えば第1回の『東西四連』を聴きに行くにしても、関西学院グリークラブの一族のような気分で、客席の一隅に座っていたのに違いないのである。
 私が初めて関西学院グリークラブの合唱をこの耳で聴いたのは、1927年か28年だっただろうと思う。1926年生まれだから、物心ついたか、まだ何も分らない頃の年である。つまり、言い換えれば、生まれてこの方、60年にわたって、私は関西学院グリークラブを聴いてきたことになる。どうして、そんなに早くから合唱の音楽を聴きに行っていたか?というと、私の父親が関西学院の神学部卒業の牧師で、学生の頃はグリークラブに所属していた合唱マンで〜1982年発行の「関西学院グリークラブ80年史」に記載されている処によると、父は1914年(大正3年)の春に、グリークラブに入部している〜私が生まれた年から、牧師としての赴任地が神戸になり、母校のグリークラブの音楽会には、幼少の私を、年中、連れて行ったらしいからである。それ以後の詳細は省略するが、小学生の頃から、中学部(旧制)グリークラブだった頃。そして、音楽の専門家になってからも、私はまるで自身がOBででもあるかのように、関西学院グリークラブにしょっちゅう出入りしていた。今は、関西合唱界の重鎮である松浦周吉氏や北村協一氏が現役の学生指揮者だった頃は、グリークラブのコンサートでピアノ伴奏も、引き受けていた。私にとって、その当時は、合唱というものは、即、関西学院グリークラブで、他は眼中になかった。
 慶應ワグネル・ソサイエティー男声合唱団(以下、ワグネルと略称する)の演奏を初めて聴いたのは、1945年12月23日の第71回定期演奏会の時で、会場は旧・帝国劇場。戦争で3年間、途絶えていた定期演奏会の、戦後の第1回目のものであった。自分の仕事先の、当時は最隆盛期にあった「東宝音楽協会」(オーケストラ、歌劇団、バレエ団を擁していた)のホームグラウンドが、旧帝国劇場だったことと、現ワグネル三田会会長の平山正夫さんと旧知の仲であったから、この音楽会の開催が耳に入ったのであった。しかし、ワグネルと私が本当の仲良くなるのは、もっと後になってからであった。
 1951年5月から6月にかけて、藤原歌劇団は、歌舞伎座で、戦後初めて≪アイーダ≫を上演した。≪アイーダ≫の上演には、多人数のコーラスを用意しなければならない。そのコーラスのエキストラとして、ワグネルから数十人が参加してきていた。その公演の頃、私は藤原歌劇団の一員として、"裏棒"つまり、舞台の裏から聞こえる合唱や小オーケストラを指揮する、今なら副指揮者と呼ばれる仕事をしていた。そこで、年恰好の近いワグネルの連中とは、すぐに親しくなった。この時のワグネルからの応援者達の中には、今のダーク・ダックスもいたのである。私が、畑中良輔氏と一緒になって、プロフェッショナルな男声合唱団を結成した時、その団員の構成は、畑中良輔の門下生、今の東京芸術大学の声楽科出身者、それにワグネルから優秀なメンバーをピックアップしたグループから成っていた。私はアッという間にワグネルの親戚のような顔して三田の校舎に出入りするようになった。
 早稲田大学グリークラブとは交際が深まるような条件は、なかなか揃わなかった。早稲田のグリークラブは、関西学院グリークラブとの交流を深めようという方針で行動していたので、東京であれ大阪であれ、出会うチャンスがあるたびに、逃さず交歓会を催していた。私は関西学院グリークラブ側の一員として、そうした場所に顔を出していたから、早稲田大学グリークラブの方からも、私を知る人が増えてきたし、私も、磯部俶氏とも知人の関係になったりしてお互い"顔見知り"くらいの意識はあった。その後『東西四連』ができて、合同合唱の指揮をしたりしているうちに、その時の学生指揮者はもちろん、マネージャーなど、何人もの"仲良し"が出来た。
 しかし、『東西四連』の御蔭がなければ、現在の親密さは絶対に生まれて来なかったと言えるのは、同志社グリークラブとの関係である。
 すでに、よく知られているように、私は、『東西四連』の第2回と第4回の合同合唱を指揮している。この第2回の時に知り合うまで、私は、同志社グリークラブと完全に無縁の関係にあった。赤児の頃から、ほとんどドブ浸かりに、その存在と絶えず親密にしてきた関西学院グリークラブの場合と正反対に、同志社グリークラブとは、『東西四連』で出会うまで、まったくの白紙で、演奏は勿論のこと、その存在そのものや合唱団の名前すら、意識の中に入ってきたことがなかった。
 『東西四連』が、自分の人生に関わって、その進路に影響を与える最たるものは、同志社グリークラブであったろう。知り合って35年、技術顧問として、直接にその音楽に関与し始めてからでも、もう27年、経過している。これだけの年数、人生を共にしてきた相手と、知り合う前は、お互いにまったくゼロであったとは!『東西四連』が、人の人生に大きく関わった例は、何も私のことばかりでなく、幾つも幾つもあるに違いない。
 『東西四連』は、また、音楽の素晴らしさを教えてくれ、2度とできない感動的なステージを経験させてくれたという意味でも、私の人生に大きくかぶさって、数多くの恩恵を与えてくれた。個々の団体としては、関西学院グリークラブから始まって、慶應ワグネル・ソサイエティー男声合唱団とも親密な"仲間意識"で結ばれていた時代があったが、それはもう昔の話になり、今は『東西四連』の初期にあっては思いも及ばなかった仕儀となって、同志社グリークラブと早稲田大学グリークラブの方が、日常的には親密になっている。今年は「合同合唱」を指揮することになったが、そのための個別練習に出掛けて行っても、どの合唱団とも、他人行儀のぎこちなさを感じないでスムーズに練習に入れた。実際には、この前に『東西四連』の合同合唱の指揮をしてから、ずいぶん長い年月が過ぎているのだが、にもかかわらずファミリーのような気分は今が一番強く感じられて、無駄な緊張で固くなることは、お互いに、少しも無かった。
 『東西四連』のように最高の水準にある合唱団と、このように自然な親しみをもって、共に音楽をつくる作業に邁進できる我が身の幸運を、しみじみと実感している。

「革命詩人による"十の詩曲"より『六つの男声合唱曲』」
(1988年 第36回早稲田大学グリークラブ定期演奏会プログラムより)
作詞・編曲:安田二郎  作曲:D.ショスタコーヴィチ
曲目解説 福永陽一郎

≪ショスタコーヴィチの「十の詩曲」による六つの男声合唱曲≫という組曲は見てのとおり、ショスタコーヴィチの無伴奏混声合唱組曲の中から、同類の楽想やパターンの曲の重複を避けて、曲数を6つに制限し、できるだけ、全体の曲の流れを阻害するものがないように、全体のバランスを考慮しながら、無伴奏男声合唱組曲に編成し直したものである。
 ここでは原曲の≪ショスタコーヴィチの「十の詩曲」≫について論評するいとまは無い。とにかく、スターリン時代のソヴィエートにおいて、作曲家の自由行動を束縛した、いわゆる「批判」に逆らわない路線に乗って、オラトリオ≪森の歌≫ほどではないが、直接・間接に限らず、「権力」からの「批判」をかわした「民衆の理解」を第一義においた作風が一貫している。はっきりした調性や一度聴いたら直ぐにでも親しみをおぼえるような魅力的な旋律、聴衆を飽きさせない構想。など、通俗になり兼ねない表面を保ちながら、なお、作曲者の優れた資質や高い芸術性を維持した、あえていえば名作である。20世紀音楽には普通である複雑多岐にわたる混雑や混乱はいっさい無く、転調や拍子の変化は、ごく自然にスムーズに移行し、一見、平易の合唱曲でありながら、曲から受ける感情の高まりや熱気は、聴く者をストレートに感動に導いてゆく。
 ≪ショスタコーヴィチの「十の詩曲」による六つの男声合唱曲≫に用いられた「詩」は、原作そのままの「訳詞」ではない。百年前のロシアに起こったソヴィエート革命は、そのままで、現在の日本の民衆・大衆の感情に関係するものではなく、客観的な立場に身を置いて解釈しても、直接の共感や感動を生み出すものではない。
 ≪ショスタコーヴィチの「十の詩曲」による六つの男声合唱曲≫の作詞者である安田二郎は、「パリ革命やソヴィエート革命が、歴史の遠くにへだたる昔話になってしまった今日、地球上の人間社会は、至るところで、今もなお"革命"が達成されなければならない状況を処理してしまうことが出来ないままである。内面的・精神的な問題として捉えれば、我々自身の問題としても、なお"革命"を必要とする状況は、今も後も合わせて、消滅を期待できる体制にはない。"We are the World"の歌が国境を越えて広く愛唱されたり、アムネスティ活動が全世界に跨って熱心に為されたりするのは、人間が、今の人間社会に、ヒューマニズムが達成されていないことを自覚している証拠である。≪六つの男声合唱曲≫のための新しい「作詞」は、原作の詩から、イメージとヒントを得ながら、かなり自由に換骨奪胎することで、ヒューマニズム達成の戦いのための感情を謳い上げたものである。」と言っている。
 ≪ショスタコーヴィチの「十の詩曲」による六つの男声合唱曲≫は、無伴奏混声合唱曲を、同じ無伴奏男声合唱曲に移したために、必然的に起こった技術的な困難さを、多く抱えている。混声合唱の音域を可能な限度まで拡張しなければならないことに通じる。各パート、特に高声域を担当するパートには、声帯=楽器を破壊しかねないほどの無理を強いることになる。


「エトセトラ」


2010年7月
大山 隆(48歳・横浜市 港北区 日吉在住)


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