《ブルさんから亡き盟友・陽ちゃんへのメッセージ1》

【福永陽一郎先生追悼演奏会 法政大学アカデミー合唱団】
〔1990年6月30日(土) メルパルク(郵便貯金会館)ホール〕
このコンサートのプログラム『MESSAGE』から

『陽ちゃんと法政アカデミーとそして私』

畑中良輔

法政アカデミーは来年三十周年を迎えるという。
 その昔、陽ちゃんから「法政の合唱団のことだけど、誕生間もないので実力はまだまだ。定期演奏会一晩とても作れないから、何か1ステージ歌ってよ」と云われ、外苑の青年館で、R.シュトラウスを陽ちゃんのピアノで5曲ほど歌ったが、第一回公演だったろうか。その頃の男子学生は詰襟だった。その次にはグリークラブの男子合唱のソロをした覚えがある。それから十周年記念定期演奏会だったろうか、ブラームスの「運命の歌」を頼まれて、熱い演奏をした。また、アカデミーがコンクールの全国大会に毎年出場していた頃は、陽ちゃんの棒のもと、神経の張り詰めた、妥協のない音楽にいつも脱帽していたものだった。私を合唱の世界に引っ張り込んだのは陽ちゃんである。昭和23年、旧帝劇の稽古場で合唱の話をしたのがそもそもの発端だった。
 陽ちゃんが合唱というものを合唱の世界だけから見るのではなく、音楽全般の視野に立って考え、眺めていた。
 それだけに勉強の範囲は広く、その勉強は到底私たちの及ぶところではなかった。まだ陽ちゃんはその蓄積をもって合唱界をリードしていくべきだった。しかし、最後まで現役としての仕事を完うし、全力で生涯を駆け抜けていった陽ちゃんの人生は、私にとってはむしろ羨ましくさえ思えるこの頃である。天国でもしあわせでしょうね。陽ちゃん!


《ブルさんから亡き盟友・陽ちゃんへのメッセージ2》

【陽ちゃんといっしょ 福永陽一郎先生追悼演奏会】
〔1991年2月10日(日) 東京芸術劇場大ホール(池袋)〕
このコンサートのプログラム『Message』から

畑中良輔

「陽ちゃんといっしょ」の、心あたたまる《還暦コンサート》のとき、陽ちゃんを囲んで、北村協一君と小生と三人でのトーキング・コーナーがあった。赤の好きな陽ちゃんも、靴下までマッカッカで、「パンツまでマッカなのですが、これは御見せ出来ません」とか、小生口走ったようにも思うのだけれど、その時、昔の「東京コラリアーズ」の話となり、全国公演ごとに、陽ちゃんのピアノ、北村君の棒、コラリアーズをバックに、よくシャンソンを歌っていたもので、ではここらで「こんな具合に」と、"小雨の降る小径"を歌う羽目に陥ってしまった。トタンに陽ちゃんは即興でイントロを弾き出し、何の打合せもないままに、歌をうまく引き出してくれたのである。何十年も前のそれらのステージの数々が私の中に甦った。陽ちゃんのピアノの何とステキなこと!それはビデオに残っている。何十年と時は経っていても、音楽が鳴り出すと、もうその過ぎた日たちは一瞬に"いま"という時に融け合ってしまって、まるで「東コラ時代」が還って来たような錯覚さえ覚えたのである。あの時、前半でやめて、「……と、こんなふうでしたが」と、話を移してしまったが、何で全部歌っとかなかったんだろう、と、今になって悔やまれる。陽ちゃんの伴奏でR.シュトラウス歌曲もずいぶん歌ったし、それは彼の名編曲として、その時の感興が音譜に刻み込まれてはいるものの、あのきれいな陽ちゃんのピアノの音も、残しておきたかった。青春の一時期を、毎日のように共に過ごしたあの日々たちは、今、もう遠いとはいえ、その"いのち"は絶える事なく私の中に燃え続けているし、陽ちゃんと共に音楽したひとたちにも、それは同じことに違いない。
 陽ちゃんはそれこそ火のような、熱い音楽が好きだった。触れるものを焼尽さずにはおかない炎が、陽ちゃんの心の中に燃えさかっていた。それは音楽だけではない。彼の書いたトスカニーニ論や、ワルター論からも、その激しい"炎"は、読むものの心を焼いてしまう。世界の誰があのような指揮者論を書いただろう。
 陽ちゃんの勉強ぶりは、すごかった。どんな質問にも、即座に明快な答えを返してくれたものである。世界の音楽の動向にも敏感であったし、その流れを自分のものとしてとり込んで行く包容力と行動力に、いつも圧倒され続けて来たものである。お互いが忙しすぎて、確実に逢えるのは「四連」「六連」の時ぐらいになってしまったが、それでも藤沢市民オペラの公演は必ず出かけて行った。藤沢市民オペラは陽ちゃんの音楽の最高の具現であったと私は思っている。陽ちゃんは「不可能」「出来ません」という言葉を嫌った。それだけにすごい意地をもって、この「不可能」を「可能」に替えていったのだ。日本では到底上演は無理だと言われ、二期会でさえ企画に出せなかった「ウィリアム・テル」日本初演を実現させたり、昨年秋の「ファウスト」の上演計画も、一部からは不可能では?と言われていたものである。陽ちゃん亡き後を承けて、やはり陽ちゃんと共に歩んだ私が、「ファウスト」を引き受けるべきだと考え、私も必死で上演にこぎつけるべく、藤沢に通った。その一日一日が、陽ちゃんへの心からなる"挨拶"でもあった。G.P、そして本番。初日の幕が降りた時、涙がとまらなくなった。「陽ちゃん、よかったね。大成功で。」と四回の公演のたび、私は陽ちゃんに呼びかけた。最終公演でステージに陽ちゃんの写真を飾った。陽ちゃんは微笑んでいた。
 熱いものがこみ上げてきて、私はマイクの前で絶句してしまった。何も見えなくなってしまった。ただ私の心が陽ちゃんに届いたものと信じられた一瞬だった。
 12月は陽ちゃんと共に歩んできた同志社グリーの定演で、陽ちゃんに代り一ステージ振った。やはり会場の中に陽ちゃんの姿が感じられ、「しっかり振ってね」という声が私を支えてくれた。何者かに憑かれたような音楽の力が、私の中に沸き起こった。信じられないような、歌うものと聴くものとの魂の交感の奇蹟が、エーテルのような波動の中に、「ジプシーの歌」を進めていった。あのような−自分が無になるような−音楽を私はしたことがなかった。私にとっては最初の体験なのだった。陽ちゃんの力が加わったのだとしか考えられない。
 陽ちゃんのし残した仕事の、何十分の一かだろうけれど、昨年は何とかやりおうせたものの、今年もまだ陽ちゃんは私を解放してくれないだろう。でも今日の「陽ちゃんといっしょ」は、会場の中のみんなの心の中にある陽ちゃんと、みんながいっしょなのだけれど、その姿を見るのも、ステージの上ではなく、心の中だけというのも嬉しくも悲しい。


《ブルさんから亡き友・陽ちゃんへのメッセージ3》

【JCDA 合唱指揮者の系譜Vol.1<福永陽一郎 人と音楽>】
〔1991年2月24日(日) 日本都市センターホール〕
主催:日本合唱指揮者協会のプログラムのメッセージから

『陽ちゃんと合唱と私』

畑中良輔

陽一郎君とはじめて言葉を交わしたのは、藤原歌劇団公演「ドン・ジョヴァンニ」日本初演の稽古場だった。昭和二十三年秋のことである。そのころの藤原歌劇団は、旧帝劇の5階を稽古場としていた。十二月公演だが九月から音楽稽古はグルリット先生の棒で始まっていた。陽一郎君はグル先生が弾かず棒を振る時とか、個人稽古のためにピアノを弾いていたので、毎日稽古場で顔を合わせていた。
 陽一郎君の稽古はきびしくて、「そこ違っている!あ、先生一拍早い!」とか弾きながら木下先生や藤原先生に怒鳴っているのを見て、びっくりしたものだ。何しろ木下先生といえば、鳴くも黙る(?)ほどのコワイ先生、大御所を頭ごなしに怒鳴るフクナガ・ヨーイチローの存在は、まことに強烈であった。
 初日も近まった十一月も終わろうとする頃だったか、陽の当るヴェランダで、「こんど日本で最初の職業合唱団を作ろうと思うんだけど、力を貸してくれない?」と話しかけられ、それがどういう意味だか量り兼ねて、「え?」と絶句してしまった。「メンバーには心当りもあるし、我国最初の男声職業合唱団を作ろうと思う」と、陽一郎君は情熱のかたまりのようなエネルギッシュな、とどまるところを知らない弁舌が続いた。
 その頃、デ・ポーワだとかゴールデン・ゲイトとか、さまざまな男声アンサンブルの抬頭期でもあり、陽一郎君はいち早くこれらのレパートリーを研究し、ワグネル男声合唱団の主だったところを押さえたり、芸大の若手たちをくどいていたりしていた。
 昭和二十六年十一月十二日、陽一郎君に「今度ロクレンが始まるから行ってみない?」と誘われ、「ロクレン?」と聴き馴れないコトバを繰り返した私だったが、駿河台の明大講堂に二人で出かけた。すごい人の渦で、押され、揉まれ、とにかく遠いところでコーラスらしき声はしていたが、何が何やら、ただただラッシュに眼を廻して、ほうほうの態で逃げ出したものだ。しかしこの時の印象の強烈さは、未だに鮮やかに甦って来る。何年かの後に、私自身がこのロクレンのステージに立つ事になろうとは思いもしない事だった。学生合唱といわず、とにかく合唱の世界に私を引っ張り込んだのは陽一郎君である。あの帝劇での出逢いがなかったら、今のような合唱ヘのかかわりかたはしていなかったろう。これを感謝すべきか、恨むべきか、天なる陽一郎君はニッコリと、「それはカンシャよ」とのたまうであろう。


陽ちゃんの言葉

(雑誌『合唱界』」昭和39年新年号「1964年の合唱界を展望する」から引用)


"私たちは、でも、音楽の真実の美が、ほんとうに音楽を愛する大勢の「指導される側」の人びとの眼を醒まさせる日が来ることを信じよう。もし、私が悪い音楽家ならば、私が追放される日が来ることを信じよう。そして、その信念の中で、今の私たちが、あなたたちが、みんなができるだけのことをして、音楽の美と、音楽することの楽しさを追い求めよう。いつか、「あの頃の合唱は不振だったなあ」と振り返る日を楽しみにして。


福永陽一郎Memorial