「男はつらいよ」独尊論/第3作「フーテンの寅」
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作品データ
監督/助監督森崎東/熊谷勲
脚本山田洋次、小林俊一、宮崎晃
ロケ地三重県四日市・湯の山温泉
公開日1970年(昭和45年)1月15日
上映時間89分
動員数52万6000人
配収1億2000万円
主な世相雑誌「anan」創刊

キャスト
マドンナ新珠三千代
(湯の山温泉の旅館「もみじ荘」の女将/お志津)
主な出演 ・春川ますみ(柴又「川千家」の女中/駒子)
・香山美子(もみじ荘の女中/染奴)
・花沢徳衛(染奴の父親)
・河原崎健三(染奴の恋人でマドンナの弟/信夫)
・悠木千帆(旅館の仲居)


寅次郎を巡る主な出来事

・ 寅次郎がはじめて見合いをする。
・ 博と喧嘩するが、ぶん殴られて負ける。
・ 旅館の女将お志津への恋愛に失敗し、また旅に出る。

◇ ◇ ◇

ストーリー

旅から帰ってきた寅次郎に縁談の話しが待っていた。タコ社長が持ってきた話しである。 何だかんだ言いながらも寅次郎はその話しに乗り、すぐに見合いをする事になった。見合い当日、 相手が現れるまで寅次郎はカチカチに緊張していたが、現れた見合い相手は寅次郎の仙台の知り合いの お駒(春川ますみ)だったのである。しかも相手は亭主持ちでお腹の中に子供までいる。 お駒から色々と事情を聞くと、亭主に女ができて家を出てしまい、その腹いせに誰でもいいから 見合いをしようと思ったらしい。それを聞いた寅次郎はお駒を放ってはおけず、その日の 内に亭主を捜し出して話をつけ、二人の縁りを戻してやったのである。

しかしそこまでは良かったのだが、その夜二人の為にとらやで盛大にお祝いをしてやり、最後は ハイヤーまで呼んで二人を熱海まで送ってやった。もちろん支払いは全てとらやへの請求である。 これにはおいちゃんとおばちゃんは大激怒。「なぜ他人にそこまでしてやらなきゃいけないのか」と 寅次郎に食って掛かるものの、寅次郎にその様な理屈が通じるはずがない。一部始終を見て いた博が頭にきて我慢できなくなり、寅次郎と喧嘩になった。口では威勢が良かった寅次郎だが、 博にぶん殴られてあっけなく負けてしまったのである。気まずくなった寅次郎は次の日旅に出てしまった。

一ヶ月後、おいちゃんとおばちゃんが旅行に出かけたところ、旅行先の湯の山温泉の旅館「もみじ荘」 で寅次郎とばったり会った。寅次郎は「もみじ荘」で番頭をやっていたのである。文無しの 時に腹を壊して便所を借りたのがきっかけで宿に泊めてもらい、いつのまにか番頭として居ついて しまったらしい。居つく理由は単純である。寅次郎は「もみじ荘」の独身の女将・お志津(新珠三千代)に 惚れているからである。

「もみじ荘」で働く女中の染奴(香山美子)には病気で働けない父親がいる。染奴はお志津の弟の信夫と恋仲に あったが、父親を食べさせる為には妾になるしかないと覚悟を決めていた。寅次郎が二人の仲を取り持って東京に 駈け落ちさせる事になるが、同時にこれは旅館の跡取り息子がいなくなる事を意味する。結局この事が切っ掛けとなり、 お志津は女手一つでやってきた旅館を手放す決心がつき、自らも以前から付き合いのある大学教授・吉井氏の 元へ嫁ぐ事となった。

何も知らない寅次郎は風邪を引いて寝込み、寝言で『お志津さん・・・』などと言ってしまう始末。 しかし旅館の女中がお志津の事を寅次郎に話すと、寅次郎は大変なショックを受けてしまった。 そして寅次郎は別れの一言を残し、「もみじ荘」を後にする結末となる。

◇ ◇ ◇

見所と独尊的論評

第3作はマドンナがとらやに登場しない作品である。そして最後に寅次郎が旅に出るシーンも柴又からでは なく、旅先からである。そのせいか全体のストーリーが完全に連携してない様な印象を受け、私にとっては 少し寂しさを感じる作品である。

この作品には暴力的なシーンが二つある。一つ目は博と寅次郎の喧嘩のシーンである。このシーンでは博が 寅次郎を殴った挙句に投げ飛ばし、さらに起き上がろうする寅次郎を押さえつける。「男はつらいよ」の全作品の中で ここまで人を痛めつけるシーンがある作品は私の知る限りこの作品だけの様な気がする。しかし私はこのシーンが 好きである。何故なら博が真に憤慨しているのは全作品中でこのシーンだけだからである。そういう意味では貴重な シーンであると言える。もう一つはマドンナの弟・信夫と寅次郎の喧嘩のシーンである。橋の上で喧嘩を始める二人だが、 寅次郎が仁義をきっている最中に信夫がいきなりナイフを取り出す。このシーンを見ると何かルール違反をしている様な 気になり、無意識に現実に引き戻されてしまう感がある。

笑えるシーンは寅次郎が自分の女房観を語るシーンである。このシーンでは女房になってもらえるならババア以外なら 誰でもいいと言いながらも、自分の願望を淡々と語り周りを呆れさせる。このシーンの語りを額面通りにとれば、 そんな都合の良い女房はこの世にいる訳がないと誰もが思う。しかしこのシーンで言いたいのは一つ一つの願望ではなく、 女房の亭主に対する心遣いなのである。完璧な女房などどこにもいない。しかし心遣いさえ亭主に通じれば、まともな男で あれば女房の全てを受け入れられるに違いない。このシーンで言いたいのはそういった事ではないのだろうか。

第3作は前作の「続・男はつらいよ」を継承しつつ、尚かつ新しい展開を迫られた作品である。そして「男はつらいよ」 をシリーズ化に導くための試行錯誤の始まりの作品でもある。そういった点では第3作は難しい使命を 担った作品であると言える。「シリーズ化=マンネリ化」という運命はある意味避けられない。しかし根こそぎ引っくり返す ような変化はシリーズには適さない。どこまでシリーズが続くかは誰にもわからないが、数作品が世に受け入れられたという事は 作品のどこかに魅力があるからなのは間違いない。その魅力を削る事なく、最小限の変化を毎作品に加えながらマンネリズムではない "何か"を定着させる事がシリーズ化の重要な要素ではないかと思う。これは非常に難しい判断を要する。やはりその事を考えると 48本という「男はつらいよ」の作品数がいかに驚異的であるかという事をあらためて認識させられる。



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