中山久蔵 1

 私の故郷は北海道の玄関口、千歳と札幌の間に挟まれた恵庭という市であります。千歳から札幌に向かう国道36号線沿いに広がる田園地帯です。特にこれといって人に誇るべきもののない土地ですが、私が密かに尊敬する人物がその後半生を過ごした土地です。

 世の中には、受けるべき当然の評価を受けずに、世にあまり知られぬという人がいるものです。あるいは生前はそれなりの評価を受けていても死後時を経ずに忘れられてしまったという人がいるものです。超手前味噌ですが、私の実家の近くに明治維新から大正にかけて住み着き、北海道の稲作の基礎を築いた男がおりました。その紹介をいたしたいと思います。名を中山久蔵と申しました。彼は文政十一年(1828)現在の大阪の南河内郡太子町に生まれました。農業を営む旧家の次男であった彼は十七歳で家人の反対を押し切って家を飛び出し、江戸に下った後、諸国放浪の旅に出ました。何をしていたかは分かりませんが、大阪と江戸の間を放浪していた様です。後に彼自身が語った言葉に因ると、何一つ得ることの無かった時代であったそうです。

 その後どうしたわけか、二十五歳(1853年、嘉永六年)で仙台藩士片倉英馬の下僕となり、明治元年まで蝦夷地の白老と仙台間を幾たびか往来したようです。幕末はどこの藩も財政が逼迫し、新たな産業、開墾地を求めて汲々としていた時代ではありました。一方当時の幕府は蝦夷地をロシアに取られはしまいかと、戦々恐々としていたらしく、とにかく人を住まわすことに心を砕いていた様です。定住する人がいさえすればこの土地は我が国のものであると大いばりで言えると考えていた様です。一応北方警備という幕府の大方針があったわけですが、実際は各藩に命令するだけで警備を押しつけられた各藩は慣れない極寒の地で相当苦労した様です。

 蝦夷地には勿論アイヌが先住民として住んでいたわけですが、それまでの松前藩と請負の商人達の過酷な対アイヌ政策を知っていた幕府は、もしロシア人が蝦夷地に上陸し、我々の国に帰属せよと言った場合、アイヌは喜々としてそれに応じるのではないかと真剣に考えていた様です。本当に酷いことをして来たのですから。

 この様な中で仙台藩は白老に陣屋と呼ばれる砦の様なものを作って藩士を住まわせ、久蔵もこの陣屋と仙台との間を行き来したというわけです。

 やがて時代は維新を迎えます。東北諸藩は不本意ながら朝敵にさせられ、さらに廃藩置県には未だ間があった維新直後に行われた新政府の過酷な敗戦処理により、藩地を大幅に削られてしまいました。それは考えられない様な規模で、藩士に死ねと言うに等しい過酷な仕置きでした。その様な混乱した中、久蔵は明治元年から二年までの間仙台を離れ、現在の静岡に居を移した様です。静岡と言えば慶喜が謹慎させられた土地ですが、農民出身の久蔵が何故静岡に行ったのかは分かりません。

 彼はすでに四十二歳でありました。この時、久蔵は自分の半生を厳しく顧みます。自分は何も成さなかったと。将軍様の治世が終わり、世は何だか訳の分からない時代に一挙に突入しようとしています。そんな中、彼は余生を蝦夷地の開墾に捧げようと決心したようです。

 彼は先ず白老に行き、次に永住するため苫小牧に籍を移します。しかし苫小牧周辺は農業をするには土地が悪く、ここでの農事には失敗してしまいます。そこで適地を探すためわずかな身の回り品を携え一人、北へ向かい、現在のシママツ沢に至ったということです。シママツ沢は現在の恵庭市と北広島市のちょうど境目にある沢です。翌年三月、彼は苫小牧を離れシママツ沢に移ると先ず雑穀の栽培を開始し、やがて稲作を始めます。当時の常識では北海道では稲作は無理と考えられておりました。松前藩時代に道南の極限られた地域で赤毛と呼ばれる品種を用いて稲作が行われていたようですが、あまり本格的には行なわれなかった様です。

 左下の写真はシママツ沢に残る彼の家です。駅逓として利用されていた様です。明治天皇の御休息場として利用される前に立て直したそうです。現在もきれいに保存され、資料館になっています。

 右上の写真は彼が稲作をする時に行った数々の工夫の一端を残したものです。彼の家の側にはシママツ川という冷たい水の流れる川があり(私は小学生の頃によくこの川で泳いだものです)その川から水田に水を引き入れるのですが、そのまま水を引いたのでは水温が低過ぎて稲の育成に適しません。そこで水路をジグザグに掘って、そこに水を通し、お日様の熱で水温を少し上げてから水を水田に引き入れるという工夫です。その他、風呂のお湯で水田の水を温めたとか、それは筆舌に尽くしがたいほどの苦労をして稲作に成功した様です。その後も果樹園、畜産の経営、駅逓の仕事や月寒村の総代の仕事と精力的に活動したようです。

 シママツ沢というともう一人忘れられない人がいます。青年よ大志を抱け、で有名なクラーク博士です。一年も日本にいなかったこの人が高給で日本に招かれた理由は北大の前身、札幌農学校の創立にありましたが、彼の名を後世に残すうえで最も貢献したものはこの科白でしょう。彼が任務を全うし札幌を離れ東京に向かう時、学生がシママツ沢まで見送りに来たそうで、この地で学生達とクラークはしばし別れを惜しんだということです。一番下の写真は駅逓蹟の側に建てられた久蔵の業績を讃えた石碑(左)とクラークの名科白を刻んだ石碑(右)です。

 明治新政府は北海道開拓に、ある時期まで本気で取り組んでおりました。今の政治家には考えられない様なリアリズムを持って政治を行っておりました。北海道開拓のために札幌農学校ができる前から開拓使の顧問として農業、牧畜、地質学、医学、機械工学などを専門とする多くの学者や技術者が米国から招かれています。

 しかし、これら権威あるお抱え外国人達は、北海道は稲作に向かない土地だから、牧畜や小麦の作付けを行うようにと熱心に推奨していたようです。開拓使もこれらの意見を入れ、屯田兵には稲作禁止のおふれを出したようです。ここではあまりくどくど言いませんが、一般的に他国の食習慣に対してあれこれ言う人間にはそれなりの魂胆があると考えるべきです。

 ここで私が言いたいのはそんな中で久蔵は米を作り続けたと言うことです。稲作に成功するということは、ある年にたまたま米が稔ったというだけでは駄目で、何年にも渡って米を収穫し続けなければならないのです。彼はまるで科学者の様に年毎の石高と気候を記録しておりますが、初めて収穫があった後もイナゴの襲来を受けたり、冷害にあったりと苦労の絶えなかった様子が手に取る様に分かるものです。

 この執念を理解するためには久蔵が生まれた時代背景を考える必要があると思います。久蔵が生まれ育った時代はちょうどあの天保の大飢饉と重なります。これは何年も続きました。大阪でも行き倒れは日常茶飯事で、人肉を漁る人々もいたそうです。そんな時期に育った彼はただただ白い米を腹一杯食するということが、いかに人間を幸福にするかということを身にしみて知っていたのだと思います。そんな久蔵が学者の権威をかさにきた稲作禁止令に、簡単に従うことは出来なかったに違いありません。

 彼の偉いところは、言うまでもなく北海道という酷寒の地でも稲作が可能であるということを人々に知らしめたことです。さらに自分の田圃で穫れた米の一部を種もみ用として、北海道各地の農家に分け与えたことです。篤農家と呼ばれる由縁です。人間は40歳を過ぎてからでも一念発起すれば後世に名を残す仕事ができるのだということを示してくれたという意味で、重い存在感を持って私の心にある人です。1919年(大正8年)91歳で久蔵は天寿を全うし、この世を去りました。42歳で自分の半生を総括し、新たな人生を生き抜いた見事な一生と言うべきでしょう。

 さて私がこの頃、帰省する度に残念に思うことがあります。それは北方稲作の発祥の地とも言われるシママツの地から水田が徐々に減っているということです。久蔵の御子孫の方も稲作を止めたそうです。シママツ沢には稲作はこの地では無理だと言った側のクラークの石碑と、久蔵の石碑が並んで建っているわけですが、私には趣味の悪い冗談の様に思えます。私に言わせれば、この地にクラークの石碑は必要ありません。日本の稲作が衰退しつつあるのは久蔵の見込み違いというわけではないのです。どちらが正しかったのか、結論は未だ出ていないのです。


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