松本十郎 2

 明治6年1月から松本十郎は黒田の強い要望により本庁詰め大判官に任命され、しぶしぶ根室を去り札幌に来ています。十郎はここでも見事に財政再建を果たしています。人員削減を含む厳しい緊縮財政、新規事業なしという十郎の方針で札幌は不景気に陥り、一時期札幌の人口も激減(約1/3に)したそうです。しかし新たに公共事業を起こすなどして十郎はなんとかこの危機を乗り切っています。  

「松本十郎文書」にこの時期の様子を十郎自身が語った記録があります。
「明治六年ヨリ七年ハ、最モ不景気ニテ、札幌市民ノ退散スルモノ少ナカラズ。松本判官之力救済ニ苦心スルモ、如何トモスベカラズ。時ニ官宅ノ周囲ニハ土塁アルモ、本庁敷地ニハ之ヲ設ケザリシカバ、判官ハ之ヲ築キ、救助ノ一策ニ充テントセシモ、黒田長官ハ築クナカレトノ命令也。然レドモ尚捨置クベカラザルヲ以テ、明治六年権判官田中綱紀ト謀リ、之ヲ築ク。之ガ為判官ハ進退伺ヲ出シ、罰金ヲ課セラレタリ。」

 十郎は他にも色々手を打っているのですが、そのことには触れず、黒田に無断で進めた小さな事業のことを語っています。しかも黒田に罰金を課せられたことまでです。十郎は罰金のことなど気にもしていなかったのでしょう。目の前で苦しんでいる札幌の住民を救うために何かできることがないかと考え行った事業が、晩年の十郎の記憶に強く残ったのかも知れません。  

 札幌時代の十郎に関する逸話が幾つか残っています。井黒弥太郎氏がまとめた「柴田与次右衛門の談話」(北海道郷土研究資料 第十 北海道郷土資料研究会発行)から少し引用させてもらいます。

「松本判官ノ評判区々タリ。大勉強家ニテ、親切ナリ。細カキ故、役人仲間ハ善ク云ハザリキ。」

「旅行 札幌ヨリ苫小牧マデ、一日ニ往復セリ。又役所ヲ引キ余市ニ至リ学校ヲ検分シ、翌日帰リテ又役所ニ出頭セリ。」

「用心 大雨ニハ堤防用心、大風ニハ火ノ用心。夜ハ本庁ヲ廻リ、戸締ニ注意セリ。役所ニハあつしヲ着用セザリシモ、夜巡ナドニハあつしヲ常トセル故、あつし判官ト云ヘリ。」

「判官市中ニテ小便セシニ、巡査之ヲ見テ打チ咎メシニ、判官ハ此巡査ヲ役所ニ呼ビテ、褒美セリ。又曽テ蓑ヲ着テ創成橋ノ処ニ伏セシニ、巡査来リ之ヲ打チシカバ、翌日呼出シテ打チタルハ悪シトテ、其巡査ヲ免職セシメタリトイフ。」    

 ただし最後の蓑を着ての話しはどうやら誰かの創作だった様です。役人達の間では十郎は細かい処まであれこれ指示するので評判は良くなかった様です。しかし昼夜の区別なく働く十郎の姿を市民はしっかりと見ていた様です。札幌、苫小牧間は約50km程の道のりです。十郎は馬を駆って往復したのでしょうが、途中島松沢の中山久蔵の家の前を通ったはずです。しかも一日に二度もです。後のページで書きますが、久蔵が、あんな元気な方はあるものぢゃない、と言うわけです。最後の二つの逸話などは、十郎が市民に親しみを持って受け入れられていたことを示すものと思われます。 このまま大判官を続けていればどれほどの名政治家になったかと惜しまれます。

 明治8年、日本とロシアとの間に国境を確定する条約が結ばれます。その結果、北方列島を日本領土とする代わりにカラフトはロシアの領土となりました。カラフトはそれまで、日本人とロシア人が雑居する土地だったのですが、維新間もない日本にはカラフトを領地とし、開拓を行う余力は無かったのです。またカラフトに対して食指を伸ばしていたロシアとの間に抜き差しならない緊張した関係を好んで作る必然も無かったのです。この判断自体は冷静なものだったと思います。

 しかしこの時、問題が起きました。カラフトに住んでいたアイヌの移住に関するものです。カラフトに住むアイヌはこの時、日露いずれかの国籍を自分で選択することができました。日本を選んだアイヌはロシア領となったカラフトを出なくてはなりませんでしたが、黒田は彼らの移住先を彼らが望む宗谷地方ではなく、石狩地方対雁(ついしかり)と決定してしまいました。851人のアイヌは故郷近くの川や海の近くに住み漁労を営むことを望んだのですが、黒田は彼らを内陸に置き、農業に従事させようとしたようです。炭坑で働かせようと考えていたとも言われています。十郎はこの決定に猛然と反発します。やむなく故郷を離れなければならなかったカラフトアイヌをせめて故郷の近くに住まわせたいと考えたのです。十郎は必死に黒田を翻意させようと努力しますが、全く相手にされませんでした。黒田は明治9年部下に命じ一旦宗谷付近に移住させたアイヌ達を力ずくで対雁に移住させてしまいました。しかも黒田はこの移住を頑強に反対する開拓大判官であった十郎抜きで進めたのです。

 この時強制移住させられたアイヌ達は慣れない風土のせいか、コレラ、天然痘にかかり次々と倒れて行きました。結局明治39年、日露戦争で南樺太が日本領になってから残ったアイヌのほとんどが樺太に帰っています。この移住は非人道的であったばかりでなく、何の意味もなかったのです。もっとも意味があればやっても良いということでもありません。江別市・企画部広報広聴課のHPがこれを詳しく紹介しています(えべつ曼陀羅「樺太アイヌとコレラ禍」)。また樺太アイヌ史研究会編「対雁の碑ー樺太アイヌ強制移住の歴史ー」(北海道出版企画センター出版)には樺太アイヌが対雁に移住させられてから日露戦争後に樺太に帰るまでの経緯が詳細に書かれています。

 北海道開拓は厳しかったかも知れませんが夢のある事業でした。しかし一方でそれは先住民であるアイヌの生活基盤を徹底的に破壊する事業でもあったのです。十郎はこのことに気付いていた当時としては稀な政治家であったかも知れません。もしこの時、十郎にアイヌ移住の件に関し決定権があったなら、樺太アイヌ達の運命もかなり違ったものになっていたと私は思います。黒田も立派な政治家でしたが、目的達成の為には多少の犠牲はやむを得ないという政治観と十郎のそれとがこの時お互い引くに引けない形で厳しく対立してしまいました。

 この辺の経緯を両者の感情も含めて理解することはなかなか難しいと思いますが、兎に角これが主要な原因で十郎は大判官という職を捨てて野に下る決心をし、故郷である鶴岡に帰ってしまいました。この時十郎は未だ38才の働き盛りでした。自分を見出してくれ、共に信頼しあって北海道開拓に情熱を燃やして来た黒田に裏切られたという思いがあったかも知れませんし、開拓大判官としてアイヌ達に申し訳ないことをしたという自責の念もあったかも知れません。

 十郎のすごいところは、鶴岡に帰ってからは一切政治の表舞台には現れなかったということです。恐らく十郎ほどの才能があれば彼が望みさえすれば、別の場所で官職に就き、あるいは政治家として成功することは簡単だったはずです。実際、あちこちから声がかかったようですが、十郎はそれを望まず、彼の後半生を一農民として過ごしきりました。クビになったら故郷に帰って百姓でもするさ、というのは何処かで聞いたような科白ですが、十郎は文字通りそれをやり、そしてそれをやり通したのです。

 それにしても十郎は何故、生涯官職に就かず農民として過ごしたのでしょうか? 分かりません。十郎は判官、大判官時代に公務の暇を見つけては、あちこちの開拓者を訪れてその話しを聞いて回った様ですが、その過程で農民の持つたくましい姿に感ずるものがあったのかも知れません。愚かで欲深い人間を相手にする必要もなく自分の才覚一つで自然に立ち向かって行く開拓農民の姿は確かに魅力的なものだったのでしょう。その中でも私は久蔵の影響が大きかったのではないかと思いたいのですが、どうでしょうか?  次のページでは「札幌昔日譚」の中から十郎の評判を聞いてみたいと思います。

「松本十郎文書」には十郎の写真として明治9年春に宗谷仮住の樺太土人代表が本庁をおとずれた時、開拓使幹部と共に彼等と写したものがある、とあります。北方資料データベースから許可を得て掲載したこの写真を指しているものと思われます。一方「対雁の碑」ではこの写真は明治8年11月に撮られたものだと紹介されています。いずれが正しいのか私には分かりませんが、北海道時代の十郎の写真は恐らく前のページのものとこれと2枚しかないので、極めて貴重なものです。後ろに立つ五人の洋装の男達の真ん中が十郎です。左から開拓使測量技術者の高畑利宜、開拓大書記官の堀基、松本十郎、開拓大書記官の調所広丈、そして森長保と思われます。


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