弁護士のお仕事Part2
冷たいかもしれないが、私は「責任能力とは無関係に罪を償うべき」との考えを持っている。これがあるばかりに「ふりをする」容疑者が後を絶たないし、裁判を長引かせる1つの理由になっている。外国において、「責任能力」がどう扱われているのか、調べてみた。日本では統合失調症の患者が殺人を犯した場合には、責任能力無しで無罪になるような案件でも、スウェーデンやデンマークでは責任能力を考慮せず、必要であれば病院に送られるようだ。もちろん、ニュージーランドのように日本と同じく責任能力無しで無罪という国も多い。
どちらにしても、我々は良い悪いすべての性格を背負って生きている。病気が主な原因で罪を犯したにせよ、起きた結果は同じである。では、なぜ故意と事故では同じ結果でも、量刑は天と地ほどの差があるのかと問われると、人間には誰にも間違いがあるからだ。事故の場合は、起こそうと思って起こしたのではなく、瞬間的に事故が起きてしまった。結果は同じでも、違いはあると思う。もし、自分が交通事故なので人の命を奪ってしまったとき、必ず死刑になってしまうとしたら、それは恐ろしい。運転を止めるかもしれない。
それに対して、病気の場合はというと、本人が病気を自覚していたら何かの手を打つべきだ。本人か、周りの誰かが。また、その時間は充分にあるはずだ。それを放置したのなら、本人に責任があると思う。病気が追い詰めたとしても、病気を治す時間はあるはずだ。
責任能力を考える場合のもう1つの例として、今年4月の栃木県鹿沼市で「てんかん」の持病があるのにかかわらず、大型のクレーン車を運転中に発作が起きて、登校中の6人もの子供たちが亡くなる事故が思い出される。自分にも同じ年頃の子供がいたこともあり、悲しい事故であった。この事故の場合、容疑者は以前にも事故を起こしていて、薬を飲まないとどうなるかは充分に分かっていたはずで、主治医からも車を運転しないよう厳重に注意されていた。さらに病気を隠して、クレーン車の免許を取得していた。この場合はもちろん責任能力はあると思うが、重過失というよりも悪質ともとれる。
裁判はどうなっていくのか、興味を持って見ていくつもりである。この容疑者はまだ若いのだから、車を運転しなくても済む仕事があったはずだ。どんなに反省しても6人のお子さんの命は戻らない。