米国と日本の文化差


1.米国の大きさを知る少年時代
 私は、昭和26年、親父の勤めていた会社の社宅で生まれた。
この会社は、戦中の中島飛行機の跡地で、この跡地には、 他にアメリカ軍の住宅(グリーンパーク)とアメリカンスクールがあった。
 小学校の遊びは、中島飛行機の工場跡地での戦争ごっこであったが、 この隣にアメリカ軍の眩しいばかりのアパートがあり、車の群れと大きな建物があり、 大きな袋を抱えて家族が車に乗っていくのを私達は、何と豊な生活なのかと、 フェンスごしに見ていた。
また、「奥様は魔女」とか「名犬ラッシー」などのTV番組で、アメリカの家庭は、 車と集中暖冷房完備、電気器具のある生活と知って、このような生活をしてみたい と思ったものだ。
アメリカ軍の存在は、日本の民衆に夢と目標を与えたようである。

2.米国文化を知るIBM出向時代
 S61年、IBMとの合弁会社に出向した。IBMの考え方(米国的考え方)を学んだ。
日米の文化差の大きなものは、知識の収得の仕方である。日本の知識収得は、 先輩から教えてもらうか、自分で一般的な本で勉強するかしかなかった。しかし、 米国IBMでは、知識がマニュアル化されていて、かつ、この読む順番まで規定されている。
日米で知識の伝達方法が違うと思った。米国では、実力主義であるため、みんなが相互に 教え合うことがない。このため、マニュアルや研修機関が発達したようである。
日本では暗黙知で、先輩から知識を盗めと言われていた。
しかし、日本でも明示的なマニュアルが必要であると思った。日本では、この知識の伝達に対して、 明確な方針があまりない。
 また、日本では企画部門と行動部門の役割分担が曖昧である。
米国式では、日本と違い明確であるが、分けたことによる問題もあると認識した。
 また、営業SE課長として、お客との折衝力や営業の方法をIBMの営業課長から教わった。 この営業の方法は、ユーザの情報を調査して、有望そうなユーザにはいろいろな方面から誘導する。 契約が近い時は、その企業のいろいろな部門のキーマンの所に行き、IBMに対する評価を聞いて対策を立てる。 この営業戦略も米国文化を感じた。このような理論的な方法を日本企業はしていないと思う。

3.初めての米国出張
S61年に、初めて2週間、米国に出張した。この出張は、IBMの各機関を見学するもので あったが、まだ英語もできないため詳しいことが聞けなかった。しかし、米国が すばらしいとの印象はなかったし、日本の町より米国の町の方が汚いと感じた。
 しかし、ワシントン・スミソニアンの博物館を見学してもう1つの米国を見た。 入場料はタダでかつ多数の本物の展示物があり、米国の科学技術における貢献を思い知った。
 ニューヨークではメトロポリタン美術館で世界の芸術を見て、その量が多いこと、 そのどれもが一流品であること、またその一流品をカメラで取っていいなどと 米国の大らかさとその経済力を見せつけられた。

4.米国でシステム設計
 H4年に私がIBMマシンをよく知っているとのことでニューヨークに2度出張し、日系損保会社の 米国支店システムを構築する基本設計を行った。この時、損保会社からジョブ・シェアの 考え方を導入してほしいと依頼があり、米国社会を知ったように思う。
 ジョブ・シェアとは、優秀な人とそうでない人の能力差が大きいため、この両者を 有効に組み合わせて、仕事をすることを意図した仕組みである。最低レベルの従業員に ついては単純な職務をマニュアル化して、失敗を回避することが重要になる。日本では、 米国のすべての従業員がマニュアル化されているように言われているが、あるレベル以上の 社員は、マニュアル化されていない。このようなレベルの高い社員が日本の社員と同じレベル なのである。
ジョブ・シェアのため、賃金差も大きい。最低賃金は年2万ドル(240万円)程度、 課長レベルで年6から7万ドル(720万円から840万円)、日本からの派遣社員は 年20万ドル(2400万円)である。しかし、米国の役員クラスは、年200万ドル(2億円)ももらっている。
 ニューヨークのハーレム、ブロンクスやブルックリンなど犯罪多発な町と、 フォートリーやコネチカットなど瀟洒な町と、上・中流階層と低流階層の住む地域が シェアされている。低流階層が乗る市営地下鉄が1ドル25セントと安いが、上中流階層が 乗るコネチカットに行く快速電車の料金は15ドルもする。

5.米国でのソフト開発
 H7年ロサンゼルスのオレンジ・カウンティのソフトウエア開発会社に、ソフトウエアの開発 を依頼した。
 このため3週間米国にいて、すべて英語でソフトウエア仕様を伝える必要になった。 聞き取りは、日本で勉強したため、ある程度できたが話す方がなかなかできなかった。 2週間を過ぎる頃から英語だけで考えられるようになり、英語の聞き取り、話ともに慣れたよう に感じた。
また、米国の動向を調査するため、ミネアポリスにある調査会社と提携し、米国の製品調査を行った。
 この中堅2社の会社を見て、会社の性格が明確でかつその会社の社員も同程度に専門職を目指しているように感じた。 全員がスペシャリスト集団である。このため、自分の専門外をあまりやろうとしない。 このため、すぐに”Idon’t know”と言う。専門家を横に束ねるジェネラリストの 機能がないように思えた。日本はスペシャリスト不足であり、米国はジェネラリスト不足 のようである。
 もう1つ、ソフト開発会社の技術者と話をすると、彼らは物事を抽象度の高い概念に 統合化しようとする。日本の技術者は抽象概念を具体的な実現方法へ持っていく傾向がある。 このため、議論の進め方が違い、実現方法が大きく違ってくる。日本の実現方法は従来の方法 から離れない。米国は物事を整理するため、きれいで、かつ最新オブジェクト指向等の技術に まとめ上げられる。ここに日米の技術差を感じた。

6.初めての海外家族旅行
 H7夏には、家族全員でハワイに行った。初めての海外家族旅行で、バスマップを書店で購入し、 バスを利用してオワフ島の中を回った。途中で同じバスでハナウマベイに行く米国家族と話したが、 彼らは3週間の休暇を取り、オワフ島・ハワイ島に来ていた。3週間の休暇なんて日本では、考えられないと言ったら、 人生を楽しく過ごすためには必要な休暇であると言われて、私は日米仕事人の意識差を感じた。

7.米国から日本を見ると
 H8年に米国ソフトウエア開発会社から日本語ができるブライアンが日本に来て、半年働いた。 このブライアンの目から、日本の仕事を見ると、「仕事の指示があいまいで何を自分に求められているのか明確でない。」 とのこと。日本人は、上からの指示で働くのが好きでない。このため、曖昧な仕事の与え方になっているのは確か。 しかし、これはお互いに助け合うということと従業員の自主的判断により本人の意欲が湧くという良い面もあるが、 明示化はもう少しした方がいいと反省した。日米の文化差がここにもある。

 
コラム目次に戻る
トップページへ戻ります