752−2.「カブールノート 戦争しか知らない子どもたち」



きまぐれ読書案内 現場での考察では概念すら生き生きしている

山本芳幸著「カブールノート 戦争しか知らない子どもたち」(幻
冬社,2001年1300円)

 私のゼミの教官であった上原淳道先生は、78年の生涯で一度も
海外に行ったことがなかった。それでいて、海外のことにも実に
冷静で鋭い洞察を行っておられた。
いったいどうすればそのような見識が持てるのであろうか、と今で
も不思議である。

 ただ、現場に行けばすべてが明らかになるというわけでもないと
いうことは、テレビ局の特派記者がアフガニスタンの青空を背景に
なんだかんだしゃべっている言葉に力がないことからも実感できる。
また、現場に行ってはいけないということでもない。ときどき現場
から送られてくる心に染み入る報告に出会うと、そう思う。上原先
生は、読書を通じて、現場から送られてくる心を読み取っておられ
たのかもしれない。

 今回ご紹介する山本芳幸氏の「カブールノート」は、数年前に
村上龍のJMMに掲載されたのを、引き込まれるようにして読んだ覚え
がある。この2,3年に書かれた10通の手紙がまとめられて本書
になったのだが、やはり引き込まれるようにして一気に読んでしま
った。どこにその力があるのか。

 ひとつには、現場で行われた考察であるということがある。本や
マスコミで仕入れた情報を頭に詰め込んで現場に行くと、知識と現
場の状況との間に乖離がある、違和感を覚える。その違和感に徹底
的にこだわる作業は、まるでもつれた糸を解きほぐすような作業だ。
著者は、目の前にある現実をしっかり自分の目で見据えることによ
って、現地の人々との対話を通じて、ひとつひとつの現実に自分な
りの意味づけを行う。そして本やマスコミから仕入れた知識が要す
るに間違っていたことに気付く。
(近藤紘一・古森義久著「国際報道の現場から」中公新書にも同じ
ような報告がある)

 私たちが読んでいるのは、著者がその精神と身体を駆使して整理
した現場の現実だ。それはウソも偽りも隠し立てもない、著者の裸
の心に写し取られた姿なのである。だからリアルなのであり、だか
ら力をもっているのだ。この手法は、私小説の手法ともいえるかも
しれない。著者の人格そのものをセンサーにして、世界をその心の
上に写し取る。これは誰にでもできる芸当ではない。著者がこれま
でに積んできた人生修行や習得してきたものの見方や異文化との接
し方の技法の上に、等身大のルポルタージュが成り立っているので
ある。

 今年の9月11日の世界貿易センタービルテロ事件以降、アフガニス
タンへの米軍の攻撃が準備され実施された。新聞やテレビで行われ
た報道を私もいくつか読んだ。本書に比べれば、それらのマスコミ
報道や報道解説はことごとくいいかげんな偽物であったことがわか
る。おそらく新聞記者もテレビ局の報道記者も、日本にいようが現
地にいようが、現地で起きていることを直接自分の心で受け止めて
から言葉にしているわけではないのだろう。記者たちは、言わなけ
ればならない原稿の雛型というものをわきまえていて、それに合わ
せてパッチワークの言葉を発しているだけなのだ。そんな報道なん
て、見ないほうがいい。

 そして、著者山本氏は、自分が感じ取ったことを、全人格的に伝
えようとしている。タリバンについての評価も、「人権」という言
葉への疑問も、ほかでは読むことのできない。一般に流布している
ステレオタイプとは違った意見を、著者はなんとかして私たちに伝
えようとしている。それが私たちの心を打つのだ。

 問題は、それを読む私たちの側にある。実は私は第9章の「私は
君の側にいる」をメルマガで読んでいたが、そこで描かれているア
フガニスタンの悲惨な状況に、あらためて触れて反省をした。しば
らく前にこれを読んだときに、私は深く胸を打たれた。しかし、
それから数ヶ月たって、私は何もしてこなかった。私はこの報告を
読むに値しない人間ではなかったのか。報告に心を痛めるだけで許
されるのだろうか。心を打たれたときに、どのように行動するか、
それが問題だ。何も行動できないとしたら、それはなぜだったのか。

 世界と自分の関係はどうあるべきなのか。私の意識は、世界と
どのように結びつくべきであるのか。性急な答えを求めても仕方な
いかもしれないが、問いかけそのものを忘れないようにしたい。
本書は現代世界を認識するための必読書、自分自身の心の上に世界
を再構築するための指南書である。著者に感謝したい。
(得丸久文、2001.12.19)
==============================
コロボックル用原稿

好きなことをとことんやれば  得丸久文

 一年がたつのは早い、と思う。時間に流されないために、一年の
終わりに、その年に自分がどんな仕事をしたか、何を学んだか、誰
と出会ったか、といったことを振り返ってみるといい。

 年賀状を書く作業には、個々の知己に近況を報告するだけでなく
、その年に新たに出会った人との出会いを感謝する意味もある。心
をこめて、感謝の心を差し出すのだ。

 結婚して子供ができると、自分のことだけでなく、家族や子供た
ちのことも気になる。親の立場で、この一年とこれからくる一年に
ついて考えたり、意見を交換することもある。我が家でも長男の
中学受験を来年2月に控えているので、いつもお世話になっている人
との話題も、それにちなんだものになる。

 知り合いのお子さんは、小学校のときからサッカーが大好きで、
布団の中でボールを抱えて寝入っていたくらいだったそうだ。その
子は、サッカーでも有名な私立の小中高一貫教育の学校に通ってい
たのだが、6年生のときに、先生から親の呼び出しがあった。

「おたくのお子さんの成績は、あまりにひどい。サッカーをやめさ
せるしかないですね。」この言葉に親は悩んだ結果、サッカーでは
なく、学校を辞めさせて、別の中学に入れたという。

 結果論だが、その子は、プロのサッカー選手となり、外国でも数
年間プレーし、今もサッカーの解説者として食べていっている。「
親としては、正しい選択だったのかもしれません」という言葉に同
感した。

 なんでも好きなことをとことんやれば、その道で必ず伸びる。伸
びれば、必ず人の先に立つ。人の先に立てば、人を助けることがで
きる、人の役に立つことができる。
そうすれば食うに困ることはない。そういう人生の展開もある。

論語にいう。
「子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者は
、これを楽しむ者に如かず」(論語137)

「孔子曰く、生まれながらにしてこれを知るものは上(かみ)なり。
学んでこれを知る者は次なり。困(くるし)んでこれを学ぶは、又た
其の次なり。困んで学ばず、ここに於いて下(しも)となす。

 自分が生まれながらにもっている才能や嗜好を大切にしよう。
(とくまるくもん、2001.12.19)
==============================
富山市内は昨日から雪が降ったりやんだりしてる。午後の講演の準
備がだいたい終わったので、午前中は高田淳「易のはなし」の第一
章を読んでいた。これがすごくおもしろい。

カプラやユングが中国の易をどのように理解していたか。とくにユ
ングの共時性という概念は、易との出会いがなければ生まれなかっ
ただろうというところ。ユングの易理解の正しさと、それに対して
日本の哲学者たちの無知さかげん、、、。

まだ全部読んでいないのだけれど、この本はお勧め。

それと、文学界12月号に掲載されていた「ゆううつな苺」をたまた
ま読んで知った大道珠貴(だいどうたまき)という若い作家の書き下
ろし長篇「背く子」がとてもいい。
「悪童日記」の現代日本版といっても言い過ぎではないね。

この二冊とも、花丸つきで推薦します。
(2001.12.15)
PS 富山でロケした映画「赤い橋の下のぬるい水」(今村昌平監督)
もう観ましたか。
これもすごくいい。隅田川のホームレス、神通川のイタイイタイ病
患者、会社が倒産して奥さんに見捨てられた男、アフリカからマラ
ソンを走るために日本に出稼ぎにきている男、そういった社会的に
はマージナルな人間たちが登場する癒しの映画。

絶妙なカメラワークとフレーミングの映像を観ていると、最近顔の
どアップばかり目につくテレビドラマのつまらなさをあらためて感
じた。映画の復権ですね。
得丸久文


コラム目次に戻る
トップページに戻る