750−2.日米関係を悪化させる妥協主義の心理的影響



日米関係を悪化させる妥協主義の心理的影響 
まず、日米関係が悪化する、という妥協主義者の警告を吟味して見
よう。これはたしかに重要な問題である。わたしは、妥協主義者の
主張とはまったく逆に、不合理な米国の要求を、経済制裁などの威
圧ゆえに受け入れることは、ますます日米関係をいびつでこじれた
関係にしてゆくと思っている。その理由のひとつは心理的なもので
ある。外圧の無理な要求に対して屈辱的に譲歩する事態が、国民心
理になんらの影響も与えないで済むわけがないからだ。そして、
そうして生まれる心理的なこじれが国際関係になんらの影響も与え
ないで済むわけがない、と思うからだ。 

実際、集団心理は個人心理とおなじ方法で解明できると主張される
岸田秀教授は、フロイトの精神分析学による、すぐれた日本の近代
史解明を試みられた。それによれば、日本は幕末のペリー・ショッ
クという外傷によって精神分裂症に陥り、民族の誇りを守ろうとす
る内的自己(攘夷、和魂)と欧米に屈従せざるをえない外的自己(
開国、洋才)という二つの自己に引き裂かれてしまったという。
そのとき以来現在に至るまで、日本の対外政策はほとんどいつでも
分裂症患者としての行動をとってきた、と氏は主張される。 

とくに太平洋戦争は、この分裂症の「発病」であるとされる。はた
の目からみると発狂者は突然わけのわからぬ言動をし始めるが、
本人の主観からみるとそれは非常に真剣な行動なのである。「これ
まで無理やりかぶせられていた偽りの自己の仮面を脱ぎ捨てて、真
の自己に従って生きる決意をしたときが、すなわち発狂なのである
」と氏は説明されるが、外的自己を無視して内的自己の主張が爆発
したのである。たしかに、米国との戦いに日本が突入したとき、
例えば、当時の亀井勝一郎は「今度の開戦の始めに我が陸海軍のも
たらした勝利は、日本民族にとって実に長い間の夢であったと思う
。すなわち、かつてペリルによって武力的に開国を迫られた我が国
の、これこそ最初にして最大の苛烈極まる返答であり復讐だったの
である」と書いたのである。 

近代日本が冨国強兵を国家目標としたのはペリー・ショックゆえで
ある。その冨国強兵政策の一つの結実が太平洋戦争であった。それ
が日本のアジア諸国に対する侵略戦争でありながら、単に侵略戦争
として片付けられない理由は、銃剣はアジアに向けられていても、
心の刃は英米やロシヤに向けられていたからである。だから、現在
でも日本人は、第二次大戦に関して、アジア人に対しては加害者意
識を持っているが、英米やロシヤに対しては被害者意識すら持って
いるのである。 

抑圧された自己は、決して消えることなく、必ず何かの形で表面に
出て自己を実現しようとする。これは精神分析学の常識である。
自己を騙し続けるだけの安易な妥協は、問題を、解決するのではな
く、先送りするだけである。危険を避けているのではなくて、時限
爆弾を呑みこむような危険を犯しているのである。 


日米関係を悪化させるリビジョニストに対する無知 

米国の要求に妥協することがむしろ日米関係を悪化させる、とわた
しが考える、もうひとつの理由は、クリントン政権の対日外交が、
リビジョニストと呼ばれる一群の米国知識人の、ある特殊な日本理
解に基づいていることである。それは真面目につきあうにはがっか
りするほど皮相的で単純なものであるが、それゆえにまた大衆的人
気を得ることの出来る力を持つものである。その日本観は、いわゆ
る「日本異質論」として有名になったのであるが、問題はそこから
演繹される対日政策である。それは簡単に言うと、日本人の行動様
式は(西欧キリスト教文明と違って)抽象的普遍的原則をもたず、
その場その時の権威に従う、というものである。その例として、
戦時中は日本軍の命令に自分の命を捨てるほど忠実だったのに、
敗戦と同時に、敵国占領軍に気味が悪いほど従順に従ったことが挙
げられる。そこで、リビジョニストの代表の一人ジェームズ・ファ
ロウズ氏は、「日本人の内的行動を変えさせる方法として残されて
いるのは外部からの圧力しかない。」しかも「圧力者が挑戦不能な
ほど強くなければならない」と結論を下すのである。これが、今回
の自動車貿易摩擦における米国政府の強圧的姿勢の本当の理由であ
る。日本の多くのジャーナリスが想像しているように、選挙のため
の単なる点数稼ぎが理由なのではない。ある特殊な日本観にたって
なされた合理的判断の結果なのである。 

この対日政策は、経済学的には「慎重な行動主義」とも呼ばれてい
る。クリントン大統領経済諮門委員会委員長のローラ・タイソン女
史の諸論文は、そのようなリビジョニストの対日政策を、経済学的
に正当化しようと試みるものであるが、MOSS協議や半導体協議
などの一連の米国の脅しが、日本の譲歩を生み、結果的に米国製品
の日本市場の拡大につながったという「成功」例を枚挙して、「攻
撃的な一方的制裁」は、それが日米関係の他の分野に悪影響を与え
ない限り、目に見える結果を生む有力な方法である、という説得を
試みる。 

このようにして、日本人は原理原則ではなく権威に従うのだという
日本観と、それを証明するかのような数々の「歴史的証拠」によっ
て、クリントン政権の対日外交が進められているのである。米国政
府は、それゆえ、日本の如何なる大企業や官僚体制よりも圧倒的に
強い権威であることを示さねばならず、如何なる弱みも絶対見せて
はならない。それが対日政策成功の必要条件なのである。そうする
ことによってのみ、又そうすれば、日本は必ず譲歩する。それが
リビジョニストであるクリントン政権の対日政策である。 

そのような方針を明確にしている米国の、無理な要求を、その場し
のぎの安易な妥協で譲歩することが如何に危険であるか、明らかで
あろう。その危険とは言うまでもなく、無理強いと屈辱的譲歩の
悪循環である。しかも単なる悪循環ではなく、蟻地獄のような、
今脱出しなければ脱出がますます困難になるような悪循環なのであ
る。 

通常、妥協というものは相互譲歩をその内容とするものなのに、
日米交渉におけるそれは、日本の譲歩の一つ一つが、次の日本の
譲歩を引き出すための米国側の有力な武器となるという、特殊な
仕掛けになっているのである。妥協そのものが悪いわけではない。
妥協が本来もっているポジティブな要素(相互譲歩)を不可能にす
るリビジョニストの日本観が問題なのである。アメリカ人がどんな
日本観を持とうが、それはアメリカ人の勝手である。しかし、それ
が米国政権や米国大衆心理の対日政策の指針となっている限り、
日本が米国の要求に安易に妥協することは日米関係をますます悪化
させることはあっても決して良くすることはありえない。 

おそらく、日本の妥協主義者が、日米関係が悪化するかもしれない
、と言うとき、今まで日本が受けてきた経済的軍事的恩恵が、脅か
されるようになるかもしれないことを指しているのであろう。
しかし、そのような意味での「日米関係の悪化」は、わたしの考え
では、むしろ望むべき事態なのである。何故なら、日本が今まで心
ならずも米国の無理強いに屈従しなければならなかった最大の理由
は、米国という一国に、経済的また軍事的にあまりにも日本は依存
しすぎていたからである。冷戦が終わり、共産主義の脅威が消え、
アジア全体の経済が活発化している今、米国一辺倒の経済政策や
安全保障政策が、だんだん崩壊して行くことは、わたしたち日本人
の望むべき新しい日米関係へ向かっての進歩であり、通過しなけれ
ばならない「生みの苦しみ」なのである。 

たしかに、日米開戦寸前とか飢餓状態に日本があるというのなら、
なりふり構わず妥協するのが正しい選択であろう。かつての軍国主
義日本のやったような愚かな精神主義は誰も二度と経験したくない
はずだ。しかし、国の独立と国民の基本的生活基盤が確保できる限
り、経済成長一辺倒よりは、日本人が日本人であることを少しは誇
りに思える行動をこそ、日本政府は選択すべきであろう。 


経済的構造と文化的構造の関係 

次に、日本もその市場が閉鎖的なのだから文句はいえない、という
妥協主義者の主張を吟味してみよう。これは、日本市場は閉鎖的な
のだから非合法的な無理な要求は正当化される、という米国の宣伝
に対応している。しかし、この言い訳は、問題をすり替えるための
詭弁である。今回の自動車貿易交渉では、(A)規制緩和、(B)
ディーラーへのアクセス、および(C)自主購入計画、の三つの点
が討議された。そのうち、最初の二つの点においては両国は合意す
ることができたのである。しかし米国側は第三の自主購入計画に、
経済制裁をちらつかせながら、最後まで固執し、日本は、そのよう
な数値目標設定は管理貿易につながることを理由に、拒否した。
この日本の立場は明らかに、市場をより解放するという普遍的目標
を拒否したのではない。その目標を達成するのに有益であると米国
がかたくなに信じている、ある特殊な要求を拒否したにすぎないの
である。日本が市場を解放することを拒否したから、という米国の
宣伝は、日本の立場を故意に歪め、自己の主張の内包する(自由貿
易のために管理貿易をするという)矛盾から、大衆の目をそむけさ
せるための詭弁にすぎない。日本の妥協主義者は、そのような米国
の詭弁に騙されているのである。 

さらに重要なことは、日本の市場が閉鎖的であるかどうか、または
閉鎖的であることが即、訂正を要する悪かどうか、ひとつも明白で
はない、という点である。それが明白でない理由は、輸入関税とか
輸入制限とかいう、経済学が伝統的に市場の閉鎖性を意味していた
ものは、日本にはもうほとんどないからである。現在、日本の市場
が閉鎖的であると言うとき、それは構造的障壁と呼ばれる日本の商
慣習のことを指す。アメリカ人は、自分の国の慣習は世界中で通じ
る普遍的なものと思っているから、簡単に日本を罪人に仕立て上げ
るけれど、日本人にとって長年やってきた商慣習がそんなに悪いこ
となのかどうか、あまり明白ではないのである。 

しかも、実際の生活のなかでは、人間の経済活動は人間の他の活動
と不可分なのであって、経済活動だけを抽象することができるのは
、学問上の作業のなかでのみなのである。だから、たとえ経済学的
に「アンフェア」と判断されても、即、その慣習をやめなければな
らない、という結論はできない。 

例えば、ローラ・タイソン女史は、構造的障壁の「わかりやすい例
」として言語の違いを挙げている。明らかに、日本人が日本語をそ
の商慣習のなかで使用することは、日本の市場で競争するアメリカ
人にとって、アンフェアな構造的障壁である。しかし、商活動に
アンフェアだからといってその言語慣習を変えるわけにはいかない
だろう。言語を変えることは日本の文化自体を変えることになるか
らだ。また、そんなことを、一国が他の国に要求して良いわけがな
い、と普通わたしたちは考えるからだ。 

ところが、米国はそれを要求してきたのである。日本における特許
権申請が英語でも出来ることを、最近日本側に譲歩させたのである
。しかも、米国においてそれは日本語では出来ないのである。日本
国民の税金は、今やこの不平等条約のために、アメリカ人の商売を
助けるために翻訳料として使われているのである。わたしは、米国
は必ずこの類の要求をこれからも機会あるごとに押し付けてくる、
と思っている。何故なら、ローラ・タイソン女史はその著書のなか
で、米国が日本に対して圧力をかける目的は「日本の慣習をできる
だけアメリカの慣習に近づけることである」とはっきり語っている
からである。 

いったいどこまで譲歩すれば、米国はその要求をストップするのだ
ろうか。エコノミスト佐藤隆三氏の言葉を借りよう。「極端な話、
おそらく日米経済摩擦は日本がアメリカの五十一番目の州になるま
でつづくだろう。これはオーバーな表現かもしれないが、アメリカ
の要求を突きつめれば、実質的にはそういうことにならざるを得な
い。日米間のヒト・モノ・カネの往来をまったく自由にしよう、
社会ルールも経済ルールも同一にしようというのは、まさにそのこ
とである。」 

構造的障壁を取り壊せ、という米国の要求は、その最も深いところ
において、「日本人であるとは何か」という困難な問いをわたした
ちに突きつけていると言えるであろう。日本の文化的アイデンティ
ティーには、なにか将来に向けて受け継いで行くべき価値があるの
だろうか。それとも、このままアメリカ人のようになってしまって
よいのだろうか。その問題を考えない安易な妥協は、あまりにも無
責任なのではないだろうか。 


裁判か決闘か 

最後に、WTOはあまり信用できない、という妥協主義者の主張を
吟味して見よう。この主張には二種類あって、一つは、(1)とに
かく裁判沙汰はよろしくない、二国間でもっと話し合え、という
日本人の訴訟アレルギーから出てくるものと、(2)WTOは出来
たばかりの、いわば「未熟児」の世界機構であり、日米摩擦のよう
な大問題を扱うにはまだ十分に準備が出来ていない、という一部の
国際経済の専門家の立場である。 

このどちらの立場も、二国間交渉による紛争処理とWTOでの紛争
処理の間には、ある根本的な相違があることを認識していない、と
わたしは思う。それがWTOに対する彼らの過小評価になっている
のだ。 

日本人の訴訟アレルギー者の持つ間違いは、二国間の話し合いは「
おだやかなもの」で、訴訟上の争いは「荒々しいもの」という事態
が、ある一定の度が過ぎるとまったく逆転してしまうことに気がつ
かないことである。すなわち、二国間交渉に固執して話し合いがま
とまらなかったら、あとは喧嘩しか残っていない、ということに気
がついてないのである。喧嘩をすれば、強いほうが勝つに決まって
いる。どちらの主張が正しいか、ということは問題にならないので
ある。そういう中で妥協するとは、一方的屈辱的譲歩以外のなにも
のでもない。妥協とは名ばかりの結局は強いもの勝ちの喧嘩なので
ある。それは非文明的、決闘の論理なのである。 

ところが人類は、勝つか負けるかではなく、正しいか否か、が紛争
を解決するような仕組みを考え出した。それは、紛争の当事者が
中立的な第三者に訴え、その第三者に決定を下してもらうシステム
である。それが文明的、司法制度の論理である。もちろんそれは
完全ではないが、決闘による解決に比べてはるかに優れた紛争解決
の方法であるから、高度な文明はすべて、決闘を禁じ、司法制度を
導入しているのである。また、司法制度の立場から見れば、制裁措
置を背景にした当事者間の交渉は、検事が裁判官の役割を同時に果
たそうとする一種の独裁制度であるから、すべて民主主義を原則と
する社会は、独立した司法権の確立を前提にしているのである。
WTOは、国際間の経済紛争の解決のために、そういう司法制度を
導入したのである。 

たしかに、WTOはそれ自体が世界各国の政治的妥協の産物であり
、これからも政治的な駆け引きの場所になるであろう。WTOは
神聖なものでも、純粋な意味での裁判所でもない。WTOは違った
形の決闘場である、との見方も成り立つ。それにもかかわらず、
二つの点でWTOは二国間争いと比べてその紛争処理の仕方が根本
的に異なっている。すなわち、判定の決定権を第三者が持っている
こと。そして判定基準が<どちらが強いか>ではなく<どちらの
主張が正しいか>という点である。 

わたしは、この二種類の紛争解決方法の違いは、あまりにも根本的
な(動物と人間の違い程の)相違であり、決闘よりは司法制度の方
が比較にならないほど優れている、と考えるから、WTOがまだ
不完全であるから、というぐらいの理由でWTOへの提訴に反対す
る一部のエコノミストに賛成することはできないのである。 

WTOはこれから多くの困難や失敗に会うと思うけれど、紛争当事
者が、決闘で勝つよりは、間違った判定で敗訴する方が、ながい目
で見れば、はるかに優れた行為だと考える高い文明的な意思を持っ
て参加すれば、WTOはやがて必ず信頼と権威をもった有効な紛争
処理のための世界機構となってゆくことが出来ると思う。米国が
どういう態度をとっても、わたしは日本にはそういう高い文明的な
意思を持ってWTOに臨んでほしいと切に願う。決闘で死ねば犬死
だが、誤った判定に服すのは文明の勝利だからだ。 

以上のような理由で、米国の要求に安易に妥協せず、日本はWTO
で紛争解決を求めるべきだ、とわたしは思っている。けれども、
WTOが決断を下すまで時間がかかる。その間、米国の経済制裁は
続く。しかも日本の経済は低迷状態が続いている。それで、日本の
指導者たちがあせって米国に対して不本意な譲歩や感情的な逆制裁
をしてしまうのではないか、と心配している。長期的視点に立ち、
真に正常な日米関係成立を目指して、日本の固い決意を世界に示し
てほしいと願うばかりである。 


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