742−1.得丸コラム



 「きちがいモシェ」の話(の続き)
昨日のきちがいモシェの話が、尻切れトンボだという御批判を受け
ました。たしかにその通りだとおもいます。一番言いたかったこと
を書かなかったのだから。

実は12月は地球温暖化防止月間なんです。火の用心とか、交通事
故に気をつけましょうというのならわかるけど、地球温暖化ってど
うすれば防止できるのかななんて思いますよね。

一昨日たまたま富山環境財団の企画する記念講演会に出かけたので
す。どんな講演なのか、まったく知らずに。講師は、筑波大学の
安成哲三教授でした。

最初のうちは、ゆっくりと気候変動や温暖化要因についてご説明し
ておられたので、いったいどんな結末になるのだろうかと思ってい
ましたら、なんと、「今すぐに人類が考え付く限りのことをしたら
、これからの100年間の気温上昇は1度におさまるだろう。そうでな
ければ、5-6度上昇するだろう」というお話だったのです。

これって結構恐くないですか。持続可能な開発なんて与太話をして
いる時ではないでしょ。

これがきちがいモシェの話です。いったいどれだけの人がこのメッ
セージを理解できたかわからなくて、きちがいモシェのことを思い
出して検索してみたのです。

地球文明は終わりですね。残念ですが。
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文学界12月号 佐藤洋二郎の「ミセス順」と大道珠貴の「ゆうう
つな苺」

昨日の朝、富山空港の売店で立ち読みした「文学界」12月号の、
吉田司「思索の現実の間で」(特集●柄谷行人著『トランスクリテ
ィーク』読解)が恐ろしいほどに柄谷を茶化していた。(吉田司は
、水俣病患者の日常をも赤裸々に描いた「下下戦記」をかつて読ん
で実に面白かった。)吉田の記事に敬意を表して雑誌を購入。

第93回文学界新人賞は、該当作なしだそうで、小説の時代はやは
り終ったのかなと思っていたら、なかなかに面白い小説2編に出会
ったので、紹介したい。

佐藤洋二郎の「ミセス順」と、大道珠貴の「ゆううつな苺」だ。

「ミセス順」の主人公は、小学生のときに父が急逝したので、母の
故郷の山陰の町に引っ越してきたが、中卒で東京に集団就職しゴム
長靴工場でしばらくはたらいたのち、行徳で古本屋をしている。
その主人公が、山陰の町に残した家産を処分するために再訪し、
そのついでに遠縁にあたるらしいオカマの老人ミセス順に会うため
に老人ホームを訪ねる話。

人気がなく、店もつぶれ、知っている人もみないなくなった町を歩
き回る主人公に、中学生時代の記憶がランダムに蘇る。それらの記
憶が、ミセス順との再会によって自己の出生の秘密にまでおよぶ
ひとつの意味のつながりとして再構成されるという一見静的であり
ながら、実に動的な小説。

「ゆううつな苺」の主人公は、ガンの家系の父がやはり40歳そこそ
こでガンで亡くなって、母一人娘一人という家庭になってしまった
博多の女子中学生。成績は極端に悪く、学校では授業をエスケープ
するために便所に隠れている。街でナンパされると一度は断わるの
だが、なんとなく申し訳なくて二度目はナンパに応じてしまう。

授業時間に学校の便所に隠れているところを柔道部のエロッパ先生
に見つかり、こっぴどく叱られるのだが、叱られているときに考え
ることがおかしい。
「私もサボりだけれどこのひとはなに。受けもつ授業がないので、
生活指導みたいなことをしているわけだろうが、それは干されてい
るのではないか。柔道着に裸足というのがまた哀愁を誘う。(略)
−あ。職員便所にしよう。職員便所ならまさか生徒は使うまいとだ
れもが思っている。そこを突こう。これからは職員室ね。」

このエロッパが心筋梗塞で急死したとき、主人公はおくやみに行く
ことにした。
「行っても行かなくてもいいとかんじたので、行くことにしたのだ
った。」

二作とも、エリートでない、いじめる側よりもいじめられる側に属
する主人公が、みずみずしい感性と自分なりのものごとの判断基準
、および行動基準をちゃんと持って生きている姿が、すがすがしく
、いとおしい。

外部の何かの力を借りたり、信じたり、期待するのではなく、自分
と世界との直接的関係性だけを見詰めて、自分の生きる道をつける
のだという気構えが感じられる。これこそ、柄谷行人の逆であり、
彼の言説にもっとも欠けているものかもしれない。

二作とも、父の不在、母との屈折した関係という点でも共通するが
、これは現代の世界状況を反映しているのかもしれない。(苺は母
の暗喩だろうか)

そして二作とも、エンディングには山が登場する。

「フロントガラスに目をむけると、山あいから駆け下りてきた雨足
は遠くに逃げ、バスはそれを追いかけるように走った。わたしが
もう一度振り向くと、愛生園もミセス順も、深緑の山と強い雨足の
中にすでに姿を消していた。」(「ミセス順」)

「私は両手の中指と親指で、ほんの小さな四角をつくった。左目を
つぶり、右目で、その四角をのぞく。こうすると、ふだんの視力で
は考えられないくらい、すべてのものがはっきりした輪郭をもち、
鮮明なのだ。五条先生は退屈そうだ。緑の色のあせてきた山のほう
ばかり見ている。えりを立て、折り目の正しくついたズボンのポケ
ットに手をつっこみ、背中をまるめている。風でえりがはためく。
 山は文鎮みたいに地面をしっかりおさえている。もずの鋭い鳴き
声がし、それが、犬の鳴き声のようにもきこえたり、猫のにもきこ
えたり、人間の赤ん坊のにもきこえたりしている。」(「ゆううつ
な苺」)

「国破れて山河あり」という漢詩を思い出す。わたしたちは文明の
終焉をこれから体験するのだろうか。

ともに一読に値する小説だと思った。
得丸久文(2001.12.07)


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