741−1.得丸コラム



芸術なる概念を否定せよ「月下の森」ー高田洋一展(下山発電所美
術館)をみて
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美術館に展示されている作品を、芸術作品や美術品だと思ってはい
けない。芸術作品・美術品だと思った時点で、観ている自分との間
に関係性を樹立できなくなる。これは何かな、これは何かなと、て
いねいに観察し、たしかな存在として作品を受け止めてあげないと
いけない。

言葉にするときも、自分が確かなものとしてもっているボキャブラ
リ、絶対に否定できないごまかしようのない言葉で言語化しなけれ
ばならない。美術品あるいは芸術品だと思った時点で、そのような
扱いをした時点で、作品との対話が生まれなくなり、観察者は敗北
することになる。

芸術という概念から自由になること、それが美術館を楽しむコツだ。
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富山県東部にある入善(にゅうぜん)町で、取り壊される予定だった
小さな水力発電所が、電力会社から町に寄付され美術館として再生
利用されている。その下山(にざやま、これはちょっと難しい読みだ
)芸術の森発電所美術館で開かれている「月下の森」高田洋一展を12
月2日の午後みてきた。

http://www.town.nyuzen.toyama.jp/nizayama

939-0631 富山県下新川郡入善町下山364-1 Tel/Fax 0765-78-0621

展示場になっているのは、発電所のタービンを回していた建て屋。
建て屋のすぐ後ろにある10mほどの河岸段丘の落差を利用して水は落
とされていたようだが、今はもうここには水は流れてこない。

展示場の入り口が入場券売り場となっていて、そのすぐ脇に「浮遊
林」と名付けられた長さ25cmほどのやじろべえが展示されている。
これは近くの海岸で拾われた流木と、近くの黒部川で拾われた石を
組み合わせて、あたかも鳥が木の枝にとまっているような姿をして
いる。

やじろべえであることを試すためにそっと息を吹き掛けてみると、
鳥はゆっくりと回転した。続いて尻尾のあたりを上から吹くと、頭
と尻尾がシーソーのように上下した。
両方の動きを同時に実現しようと、やや強い目の息を斜め上から吹
き掛けたところ、「展示品に手を触れないでください」とめざとい
監視員に注意された。「別に触ったわけではありません」と弁解で
きるような雰囲気ではなかったので、すごすごとメインの展示室に
移動する。

ちなみに館内には彼女ひとりしか館員がいなかった。彼女は入場券
を売ったりもぎったり、美術館グッズを売ったりするときに入り口
に戻り、それ以外のときは展示室の隅で不届きな見学者の動きを監
視していた。日曜日の午後であったが、見学客もそれで十分対応で
きる人数であった。

メインの展示である「月下の森」は、「外国から運ばれた珍しい赤
褐色の木の枝が、支柱の上で微妙なバランスを保ちながら、微風に
よって空間を舞う」(チラシより)作品。高さ2mほどの細い鉄柱の上
で、やはり長さ2mほどの赤褐色あるいはボルドーワイン色の枝が、
まん中あたりに特殊な金具をつけてバランスをとっている。

茎は竹のように空洞だが、枝は手の平を開いたようになっていて、
葉っぱはついていない。日本ではあまりみかけない植物だ。スカン
ポの一種だと監視員が教えてくれた。

鉄柱と枝のペアが15組散在している姿は、まるで静かな波間で人魚
たちがくつろいでいるかのようだ。妖艶なたゆたい。

茎にそっと息を吹き掛けると、これもやじろべえになっていて、
ゆっくりと回り、上下にもシーソーのように動く。少し強い目に吹
いてみると、またしても監視員の目にとまり、「作品に手を触れな
いでください」と注意されてしまった。「作品に強く息を吹き掛け
ないでください」というのが正解なのだが、彼女は二回ともそうは
いわなかった。

作品と遊ぶことは許されないようなので、しばらく「15体の人魚」
たちの間をさまよい歩いてみた。作品をじっくりと見つめると、
いろいろなことに気づいてくる。心の中に問いが自然と浮かんでく
る。

・枝の先に蜘蛛が糸を張っているものがいくつかあるが、この糸は
意図的な糸なのか意図的でない糸なのか。(監視員さんの答え:山に
近いもので、このあたりには蜘蛛が多い。これらの糸は意図せざる
して張られたもの)

・僕が息を吹き掛けないのに動いている枝があった。よくよく見る
と、壁の上のほうに扇風機が3台(2階の展示場を歩いていてもう2台
を見つけ、合計5台であることに後で気づいた)あって、首を振って
いる。これらの扇風機は、この作品のために設置されたのか。(監視
員の答え:この作品の作者が指示して設置した)

・細い鉄柱はどうして倒れないで床の上に立っているのか。(監視
員:床に穴を開けて、ネジで止めてある)

質問には至らなかったが、視線を低くして枝を根元から枝先方向に
見上げると、茎の空洞の中に金属板やネジなどが重しとして入れて
あることが見えた。作家がバランスを取るのに苦労した後が見て取
れる。

また、15本の鉄柱は、縦方向から見ると3本ずつが5列並んでいるが
、横方向から見ると3本、2本、3本、2本、3本、2本という6列になっ
ていた。また、斜め方向から見ると、どちら側から見ても1,3,5,4,2
本という配列になっていた。どの列も一直線に並べられていた。
(この表現だけでどのように配列されていたか、あなたは再現できま
すか?)

2階の展示場に移動するための階段の途中から、15本の枝を鳥瞰する
と、それらの配列が幾何学的に行われていることが一目瞭然となっ
た。決まりがないように見えて、実は法則性にのっかっているのだ
。不安定さ、ランダムな動きが売りものの作品なのだから、もっと
自由あるいはランダムな配置でもよかったかもしれない。

もちろんランダムに配置することほど難しいことはないのだろうけ
れども。料亭の玄関先の踏み石の配列や、枯れ山水の庭の石の配列
の居心地よさは取り入れられないものだろうか。

やはり階段の途中で、視線を支柱の高さに置くと、15本の支柱の高
さが一定だということが確認できる。これだと見学者の身長の違い
、目の高さの違いによって、作品は違った顔を見せることになる。
もっと高さにもバラエティーがあってもよかったかもしれないとも
思った。しかし風に吹かれて回った枝先と隣の枝先が向かい合って
、まるでおしゃべりを楽しんでいるような姿を見せたときには、高
さを一定にすることの意義も感じたのだけど。

じっと見つめていると、扇風機の近くにある枝ほどよく動いている
。横回転運動と、上下のシーソー運動だ。もしかすると、扇風機の
風は強すぎたかもしれない。もっと微妙な、あるかないかわからな
いほどの風の中で、見学者自身の呼吸が作品をほのかに動かすとこ
ろを感じられたなら、おくゆかしさも増したであろう。

2階に展示してあった「森の光」は、「揺れる天井の穴から差す光が
、小部屋の中に木漏れ日のような影をつくり出します」とチラシで
紹介されている。床、四方の壁、天井がそれぞれ畳2枚のサイズにな
っている立方体になっていて、ひとつの壁には茶室のにじり口のよ
うな穴が開いていて、靴をぬいで中でくつろげるようになっている。

床は琉球畳(?,半畳の大きさ)が4枚敷かれていて、い草の匂いが心地
よい。天井と壁は和紙でできていて、和紙には大小いくつかの丸い
穴が開けられており、そこから光が差し込み、影を作る。天井は重
心(まん中)を支柱に支えられていて、風が吹くとゆらゆらと揺れる
。ここでおままごと、あるいは茶会を開いても面白そうだ。

でも、もし不安定さや、危うさを感じさせたいのであれば、4枚の壁
もそれぞれゆらゆらと揺れてもよかったかもしれない。風は上から
だけではなく、横からも吹くようにして。

ちなみにここの天井が揺れるので、美術館の天井近くに設置された
5台目の扇風機を見つけたのだが、ここでも扇風機の風は強すぎたよ
うに思う。中に入っている人間の息づかいや、会話によって天井や
壁が動くくらいのほうが、作品との一体感は増したであろう。

約1時間強の滞在であったが、実に楽しかった。美術館を楽しむため
には、これくらいの大きさが適当かもしれない。

発電施設(展示場)を出て裏手の急な階段を駆け上がると、そこには
喫茶店、アトリエ、芸術家用の宿泊施設があった。喫茶店でお茶を
いただいてから、施設をぐるりと一周すると、水の流れる音がどこ
からか聞こえてきて、大地の声を聞いているような気分になった。
(2001.12.02, 得丸久文)

的確な表現力ですね。感心しました。
下の直方体の、長い辺が8−10m、短い辺が5−6mくらいの広
がりでした。

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熊本学園大学での姜信子さんによる「東アジア文化論第2回」の講
義の中で、エリ・ヴィーゼルの「夜」が紹介されていましたので、
紹介します。

エリ・ヴィーゼルの「夜」は、フランスでは小説(roman)ではなく記
録(document)として出版されています。ナチスによるユダヤ人虐殺
に関する出版物の評価には、さまざまなものがあるけれど、僕はこ
の「夜」に関しては、ヴィーゼルは見たまま、聞いたままを書いた
のだと思っています。(一度読んだだけですので、僕が間違ってい
る可能性もありますが) もちろん彼が書かなかったこと、書けな
かったこともあったとは思いますが。(木村愛二さん、どうですか
?)

この「きちがいモシェ」の話は、人間がいかに日常的なレベルでし
かものを考えられないかの例です。

地球環境の危機、地球が未曾有の気候変動を迎えていることを、
一般人が理解できないことも、これによって説明できるのではない
かと思います。そのために紹介しています。

(以下引用)
http://www.asahi-net.or.jp/~fw7s-kn/2001lec02.html

 ■ きちがいモシェ
   私は、この数週間、本当のことを人々に伝えたためにきちがい
と呼ばれた男の話を繰り返し、想い起こしていました。それは、ナ
チスの強制収容所を生き延びたユダヤ人、エリ・ヴィーゼルの自伝
的小説「夜」のなかに描かれているエピソードです。

  きちがいと呼ばれた男の名は<堂守りのモシェ>。外国からやっ
てきて、ハンガリーの町シゲトに住むユダヤ人でした。モシェはあ
る日、同じく外国からやってきたユダヤ人たちとともに、ハンガリ
ー人の憲兵によって家畜用の貨車に詰め込まれて、追放されます。
シゲトに暮らすユダヤ人たちは「しょうがないじゃないか。戦争だ
もの…」とため息をもらし、平穏な日常へと戻っていき、やがて追
放されたユダヤ人のことを忘れていきます。1942年頃のことです。

 モシェたち追放されたユダヤ人は、ポーランドでゲシュタポの手
に委ねられ、森のなかで撃ち殺された。そのなかを奇蹟的に生き延
びたモシェは、シゲトに戻ってきてユダヤ人たちの家をめぐり、
自分が見たユダヤ人たちの悲惨な死を語って聞かせます。自らの手
で自分たちの墓穴を掘らされ、殺されたユダヤ人たちの話。宙に放
り投げられ、機関銃の標的になった赤ん坊の話。

 まだ間に合ううちに警告しようと必死でシゲトまで戻ってきた
モシェの話に、シゲトのユダヤ人たちは一切耳を貸さずに、ただこ
う言うだけだったといいます。

 「あの男は私たちに、自分の境遇を哀れがらせようとしているの
だ。なんという想像力なのだろう……」

 「かわいそうに、あの男は気違いになったのだ」

  このシゲトの町のユダヤ人1万人がナチスの強制収容所に運ばれ
ていったのは 1944年のこと。その多くが、モノのように処理され
ることになりました。

  日常の向こうへと想像力を広げることの困難を、きちがいモシ
ェの話は教えてくれます。

  人は、想像を超えた出来事に直面すると、それを受け容れるた
めのわかりやすい物語を探すものです。

 人は、たとえそれが本当のことであろうとも、信じたくないこと
を「嘘」と呼んでしまう。そして、とてつもない「真実/嘘」を語
る者がいれば、「気ちがい」と呼ぶこともある。だって、そうやっ
て、人は平和で平穏な日常を守ろうとするものなのです。

   いや、ナチスによるホロコーストのような大惨禍は、そもそも
想像を絶するものだったのだと、人は言うことでしょう。しかし、
想像を絶する大惨禍も、ある日突然降って湧いたようにそこに出現
するのではない。すべての出来事は私たちの日常から生み出される
もの。けっして、日常と断絶した特別な世界の話ではありません。

   日常とは、言うならば、繰り返しです。プログラミングされた
日々の行動です。
 考える間もなく連なっていく「生」の時間の積み重ねです。考え
ない。それが日常を生きる私たちの基本です。

  そのような日常を生きているからこそ、日常に身を置きつつも
日常の外へと想像力を広げていくことは、実は、とてつもなく難し
い。私たちの想像力とは、きわめて小さな羽しか持っていない。こ
れも基本です。

   そのわずかな想像力を越え出たものを理解し、納得しようとする
時、人は、分かりやすい図式や物語に身を委ねてしまう。自身の乏
しい想像力を越えでた存在や出来事は、狂気の世界、あるいは悪の
世界の存在や出来事であり、自分とは本質的に異なる世界のことと
位置づけて切り捨てて、安心するわけです。

  だから、たとえば、想像を絶することを口にするモシェは「気ち
がい」となり、私たちの日常のプログラムに沿っていないがゆえに
理解できない行動をとっているようにしか見えない異教や異文化の
民は簡単に「敵」と見なされる。

 日常を普通に生きる“考えない”私たちは、分かりやすい物語の図
式にとてもなじみやすい。これもまた基本なのです。しかも、その
分かりやすい物語 の図式の中にこそ、“魔”が潜んでいるのです。

  20世紀の百年を支配したもっともわかりやすい物語の図式は、
“対立”でした。未開と文明の対立。敵と味方の対立。不純と純粋
の対立。悪と正義の対立。このわかりやすい物語の図式の中から、
かつて、純粋純血のゲルマン民族の手によるホロコーストが産み落
とされ、鬼畜米英を相手にしての大東亜の聖戦が飛び出し、世界を
二分する冷たい戦争が姿を現した…。

   日常とは、本質的に、想像力を欠くものなのだということ。想像
力を欠く日常は容易に対立の図式を持った物語に飲み込まれるとい
うこと。それが、今、日常の中から文化を考えようとしている私た
ちの出発点です。
 (以上引用)

ちなみに、このあと姜信子さんは平田オリザの「ソウル市民」とい
う芝居について書いておられます。実は僕もたまたまその作品を、
昨年5月に利賀村で観ましたが、この劇の評価については少し違っ
たふうに感じています。
得丸久文(2001.12.04)
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月下の森は「冬枯れの木立ち」
富山県の方であの作品展をごらんになったかたから、感想をいただ
きましたので、ご紹介します。

引用:
「月下の森」については、私は、平凡かもしれませんが、「冬枯れ
の木立」の中を歩いているような気分でした。館内全体が白っぽか
ったことや、空調が効いていなくて寒かったせいもあるでしょう。

チラシには、別の美術館(得丸注:外国?)で展示されている様子
が出ていましたが、床が茶系のフローリングのようで、しかも、四
角い板が剥き出しでおいてあり、ただ単に、「似たようなオブジェ
が15体並んでいるだけ」のような、雰囲気のないものになってい
るような気がしました。(得丸注:オブジェというと、まるで意味
がなくても大丈夫のように聞こえるところが不思議だ)

空調が効いていなくて寒かったのも、(あの美術館は、もともと空
調が無いのか?空調はあるけど光熱費の予算が無いのか?それとも
、あの作品に合わせて、敢えて空調を効かせなかったのか?わかり
ませんが)、作品の雰囲気を出しているように思えました。もしも
、暖房が効いて暖かかったとしたら、また違った受け止め方をして
いたはずです。あの作品上から眺めて見ると、味気なさも感じまし
たが、作品と美術館の一体性という点では、よかったと思います。

お天気の良い日に、照明をつけずに、窓からの明かりだけで、あの
作品を見てみるのも、おもしろいんじゃないかと思いました。


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