730−1.得丸コラム



読まないことを薦める本 上原淳道 「読書雑記」
郵便小包で分厚く重たい本が届いた。「上原淳道 読書雑記」(
うえはらただみちと読む)とある。出版社も値段もない。あとがき
には、「上原淳道 読書雑記、発行日 2001年11月27日、著者 
上原淳道、発行者 上原勝子(とご自宅住所)」だけが記している
。この本は、どこにも売っていないので買うことができない。読書
案内するだけ無駄なのだが、それでも書かずにおられない、私の心
に染み入る本である。
 
目次はいたってシンプルで、
読書雑記
1期1号(1963年9月3日) 〜 100号(1967年4月21日)
2期1号(1967年6月12日) 〜 50号(1971年8月20日)
3期1号(1971年10月2日) 〜 50号(1976年3月14日)
4期1号(1976年5月21日) 〜 50号(1981年1月13日)
5期1号(1981年3月12日) 〜 10号(1982年2月26日)
6期1号(1982年5月22日) 〜 90号(1990年8月19日)
7期1号(1990年9月7日) 〜 50号(1995年5月7日)
8期1号(1995年6月12日) 〜 41号(1999年9月22日)
(通号441号)
とだけなっている。
 
「あとがき」に、奥様の言葉がある。
 
「本書は、夫・上原淳道の個人通信『読書雑記』の全号を、縮小し
て複製し一冊にまとめたものです。
上原は、生前つぎのように書いています。
 
『読書雑記』という個人通信(「個人新聞」とか「個人雑誌」とか
よぶ人もある)を出しはじめてから12年以上(あしかけ14年)
になる。創刊は1963年9月3日。1967年4月21日に第100号を出したが
、ここまでが第1期である。第2期は、第1号が1967年6月12日、
第50号が1971年8月20日。第3期は、第1号が1971年10月6日、
第50号が1976年3月14日。通算すれば第200号を出したことになる。
 
 「不定期刊」のつもりだが、最初の1年間は平均して月に3回、
最近はほぼ月に1回である。体裁は、わら半紙1枚、謄写版(ガリ
版)ずり、横書き。左半分に標題一行と本文20行、右半分に本文
21行。本文1行は30字だから、1号分の本文は1230字(
400字づめ3枚強)となる。毎号、数項目から成るが、どの項も
原則としてピタリを行の終りで終るように(つまり、30字の倍数
になるように)字数を工夫している。
 
 発行部数は、誰にも言わない。個々の配布さきも、その人が死亡
しないかぎり(つまり、生きている間は)、原則として明らかにし
ない。配布の方法は原則として郵送。私が送ろうと思う人に一方的
に送るだけである。たまに「購読」を申し込む人がいるが、売りも
のではないのだから、購読はできない。
 
 原稿書き、原紙切りから、あて名書き、切手貼りまで、すべて
独力でやる個人通信を12年以上も続けているのは、大げさに言え
ば、私なりの闘争であるが、闘争というよりは宗教的な「苦行」に
似ている。世の中にはいろいろな団体があり、出版物があるけれど
も、どの団体もどの出版物も取上げようとしない問題で、しかも私
にとってはきわめて重要であるような問題も存在するのである。私
の『読書雑記』をミニコミと言う人もあるが、私としては、ミニコ
ミではなく、さりとてむろんマスコミではなく、「ナグリコミ」だ
と思っている。
(雑誌「文藝春秋」昭和51年7月号・巻頭随想「個人通信14年
」より抜粋)
 
 これは、通算200号を出し終えた時点で書かれたものですが、
結局『読書雑記』の発行は上原の死去によって終刊となるまで36
年間つづけられました。最終号は、1999年9月22日付けの
第8期41号でした。通算すれば441号までとなります。この間
、体裁は全く変わっていませんが、印刷はある時期から複写機によ
る印刷(コピー)に変わっています。謄写版刷りの時期のものは、
インクの濃淡や文字の不鮮明な個所がありますが、本書は複製版で
すから、それもそのままにせざるをえませんでした。

         *
 『読書雑記』の発行は、「私なりの闘争である」と上原は言って
いますが、世間の評価はともかく、本人にとっては、特別な意味を
もつ大事な仕事だったと思います。それだけに私としては、この仕
事をきちんとした形で遺しておきたい、また、そうすることが遺さ
れた家族の務めでもあると思っていました。

 このたび、上原の没後二年を機会に、本書の刊行によって、遅れ
ばせながらこの宿願を果たすことができ、肩の荷が降りた思いがし
ています。
本書が、故人を偲んでいただくよすがになれば幸いです。(以下略)」

***** ***** *****
 実は私は1978年度の上原ゼミの学生だった。大学に入学した
ての教養学部1年生のときに、「南方アフリカの現状について」と
いう全学一般ゼミナール(教養学部の学生ならば誰でも参加できる
)に参加したのだった。上原先生がどのような先生かも知らずに、
テーマに惹かれて申し込んだのだった。
 
 これは地味なゼミ(土曜日の午後に図書館の中のゼミ室で開かれ
ていた)だった。ゼミでは、国連の反アパルトヘイト特別委員会が
作成した南アフリカの黒人が置かれた状況についての報告書を読ん
でいた。
 
 コンパの一回も開かれることもなく、ゼミ生の名簿が作られたわ
けでもなかった。それでも当時のゼミの仲間のうち3人とは今も親
交がある。そのうち2人は、いっしょに「グループアフリカと日本
」(のちに「アジアアフリカに学ぶ会」と改称)というクラブを作
って、学園祭の催しや文集つくりなどいっしょにした。
 
 大学を卒業して商社に入社して、2,3年したとき、私の参加し
ていた市民運動団体が、南アフリカから亡命してタンザニアに住ん
でいる子供たちのための募金をした。そのときに、上原先生にもお
願いしたところ、東横線の学芸大学にある仕事場に招いてくださり
、匿名を条件に1万円のカンパを下さった。それが印象に残った。
 
 実は学生時代に、2,3回『読書雑記』を送っていただいたのだ
が、どうお返事していいのかわからなかった。お礼の葉書1枚、
当時の礼儀知らずな私は出せなかった。中国古代史のことが中心だ
った『雑記』の内容にピンとくるものがなかったこともある。それ
で先生は私への『雑記』を送付停止扱いにされたようだ。この卒業
後の出会いから後『読書雑記』を最後まで送り続けていただいた。
 
 先生が一昨年の11月にお亡くなりになったことは、昨年の年賀
状のお返事として奥様に知らせていただいた。一昨年送っていただ
いた『読書雑記』を読みながら、そろそろ『雑記』も終るのではな
いかと漠然と感じていたので、奥様名義のお手紙をいただいたとき
に、来るべきものが来たという直感があった。一昨年、先生の死を
予感したその時に、お目にかかってお礼を申し上げなければならな
かったと後悔した。
 
 昨年4月に有志の呼びかけで「上原淳道を偲ぶ会」が開かれた。
死んだときに初めて「公開」される読者が一同に会した。みんなの
話題は、当然先生の一本筋の通った気品のある生き方と『読書雑記
』についてだった。その時に、私は『読書雑記』のバックナンバー
が読みたいと痛切に思った。その願いが、このたびかなえられた。
 
 こうして、この連休に441枚の手書きの個人通信を読んでいる
。手書き原稿は暖かく、読んでいて疲れを感じない。原稿用紙にす
れば1300枚以上になるので、結構読みでがあるが、1号1号読
んでいくのがとてつもなく楽しい。
 
 上原先生は、東大闘争のときの、教養学部の第六委員長(学生担
当)であられた。雑記2期18号(1969,3,3)によれば「私は昨年4
月1日、東大教養学部の第6委員(学生の自治活動に関する問題を
担当する委員)に就任、9月30日までは全学の学生委員を兼ねて
いました。10月1日、第6委員長に就任、任期は本年3月31日
までの予定でしたが、任期が短縮され、2月3日、委員長(ならび
に委員)を解任されました。」という記述がある。
 
 その背景でどのようなやりとりが行われたのか。実に興味深い。
けっして権力や時流におもねらず、思想のもっとも深いところで正
しい判断をされる先生が「解任」されたというところに、東大闘争
の終り方のいびつさ、いやらしさを感じるが、そこで何が議論され
何が決定されたのかを先生はけっして暴露されないので、読者は
推測するのみだ。
 
 こういった深読みが必要な記述はそこらじゅうにある。日本の平
和運動や中国との国交回復裏話、歴史学会の実情(とくに貝塚茂樹
氏のドン体質と、それを容認する岩波書店ほかの出版業界の体質)
については、私は門外漢であるが、多少だが実情を飲み込めてきた。
 
 中国古代史がご専門であられたこともあって、論語や韓非子に関
するさりげない記述や論文が紹介されているのを見つけるのも楽し
い。先生の生き方は、まさに論語を地でいくようなものであるが、
実際に先生が論語や韓非に思い入れがあったことを発見したのは、
うれしいかぎりである。 
 
 これは些細な事であるし、私が先生の影響をいつしか受けて勝手
に先生の真似をしているだけなのかもしれないが、私が東京の留守
宅で購読している新聞(毎日新聞)も、きらいな新聞社や出版社も
、ある本についての書評も(石田保昭「インドで暮らす」に蝋山芳
郎が書いた失礼きわまりない序文への嫌悪)、人からの後ろ指の指
され方(「人格的に問題がある」)までも似通っていて、先生との
不思議なご縁をあらためて感じている。先生の反骨精神や勉強熱な
どはまだまだ私の及ばないところで、深く恥じ入り、これから少し
でも改めなければと思った。
 
 『雑記』の中の先生は今もなお生きておられて、私にいろいろと
語りかけてくる。そういった「尚友」としての付き合いを楽しませ
ていただいている。『雑記』に紹介された先生の論文や、先生が読
まれた本や論文を、大学の図書館や古本屋を通じて手にしてみよう
と、メモをしている。そうすれば、先生とももっと深いお付き合い
になるだろう。
 
 もちろんこの本は非売品であり、誰も買って読むことができない
。何部印刷したのかもわからない。インターネットでも注文できな
い。おそらく多くの人(とくに朝日新聞の購読者層)にとっては、
読んでも楽しくない本だ。読まないことを薦める。こういう本があ
ってもいいと思う。
 
得丸久文(2001.11.23)
 
PS 実は今日は、合気道多田塾自由が丘道場の創立40周年の記念演
舞会が、新宿区若松町の合気道本部道場で開かれ、その後新宿三井
ビルで開かれた祝賀会にも出席してきた。「継続は力なり」、「(
継続のための)思いの大切さ」ということをことさら感じる今日こ
のごろである。
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文化と文明

お菓子が売ってなかった頃、かあさんはだんごをこしらえてくれた。
ほかほか弁当のない頃、かあさんは弁当をこしらえてくれた。

ガス風呂のない頃、湯加減を聞いて薪をくべてくれる人がいた。
ユニクロのない頃、みんなてんでばらばらな服装だった。

公園のない頃、どこもかしこも遊び場だった。
学校のない頃、大人たちは子供たちを教育していた。

自動車のない頃、しっかり体を動かした。
スーパーのない頃、お店のおじさんと話ができた。

ウォークマンのない頃、人々は歌を口ずさんでいた。
テレビのない頃、人々は夢を描いていた

文明のない頃、人々の心は活発に動いていた。
便利さの中で、心がだんだん退廃していく。

人とのふれあいが持てなくなってきた時代に、
僕たちは文化を失っている。
得丸久文 


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