709−2.得丸コラム



鷹揚の会の11月のテキストは、篠田節子著「弥勒」(講談社文庫)
である。
 
−1−
これは、インドと中国の間にある想像上の山岳国家パスキムが舞台
の小説である。
この国の仏教美術品に興味をもった日本の新聞社の美術担当事業部
員永岡がパスキム美術展を企画していたところ、民主化(実際はク
ーデター或いは革命)が起き、企画は中止となる。
パスキムは外国人を締め出し、外国との接触を一切断つのだが、こ
の国の美術品への興味が募る永岡は、インド出張のついでにパスキ
ムに単独潜入する。
そこで永岡が見るのは、住む人がいなくなり無人になった街であり
、破壊された寺院であり、虐殺された僧侶たちであり、荒らされて
河に捨てられた美術品である。
永岡はそこを脱出する途中で道に迷って逮捕され、一年間陰惨な収
容所生活を送る。
 
クメールルージュ時代のカンボジアを思い起こさせる下放政策、悪
平等主義、不労働階級の粛清、科学技術批判。伝統農法をも否定し
たために起きる農地の疲弊、土壌流出、そして食糧危機、栄養失調
、疫病の流行。いかに美しい理念や、現実の不平等への怒りに基づ
いていても、過去の伝統を否定し、文化継承を軽視する革命は失敗
するということが思い知らされる。
(ちなみに近藤紘一著「戦火と混迷の日々」文春文庫は、日本人で
クメールルージュ時代を体験した内藤泰子さんへの聞き書きである
。一読をお勧めする)
 
−2−
私はこの本を読んで、人間の文化とは何かについて改めて思いを馳
せた。
ひとつは、過去や伝統を否定することによって、文化は断絶すると
いうことだ。人間は文化なしでは、獣にすぎない。いかに高邁な理
想を語っていても、文化がなければそれを実現することができない。
 
逆にいえば文化とは、長い年月かけて人間が世代から世代へと受け
継いできた生産や表現の技術であり、個々の人間が努力して後天的
に獲得するものである。 
生身の人間による継承なしに、文化は存在しえない。文化は個別の
有限な生命をもつ人間の意識の上に叩き込むことによって、次の世
代に受け継ぐだけのレベルに高めることができるものである。いわ
ゆる師範の免状を取るレベルである。
 
したがって、文化はある人間の意識から別の人間の意識へと伝達さ
れるものとしてとらえる必要がある。それぞれの文化には、それぞ
れの伝達方式・伝承技法が必ずある。たとえば、家業というシステ
ム、共同体による成人教育、各種学校制度、徒弟制度、塾や道場や
各種教室。そういったものがあって、はじめて文化は世代を超えて
伝達されえるのだ。そういった伝達システムのない文化は存在しな
い。文化を語るにあたって、このことを忘れてはならない。
 
もうひとつは、いかにすばらしい仏教美術品であろうと、それは
文化財や文化遺産であって、文化そのものではないということだ。
バーミアンの石窟寺院も、玉川上水も、浮世絵も尾形光琳のかきつ
ばたの屏風も、それぞれを生産した人間の意識活動が文化であり、
残された建築物や絵画そのものは意識活動(文化)の結果たまたま
生まれた作品にすぎないのだ。残された作品も大切であろうが、
その作品を生み出す技や心のほうがもっと大切ではないかと思うの
だ。
 
主人公永岡は、パスキムの弥勒仏をなんとかして救い出そうとして
寺院から持ち出し、逮捕直前に穴の中に隠す。そして、一年後国外
に逃亡するときに、隠し場所から堀り出して背中にくくりつけて、
苦労して国外に持ち出そうと試みるのだが、重さに耐えかねて結局
仏像を捨ててしまう。最終的に弥勒仏を捨てたときに、主人公はほ
っと安堵する。これは、美術品あるいは文化財に惑わされてはなら
ない、文化(心)こそが大切なのだということを体感したためでは
なかろうか。美は文化ではない。
 
−3−
さて、文明とは何だろうか。文明とは、環境である。
人間が生きていくためには、食糧生産のための環境、排泄物処理シ
ステム、教育環境、社会環境、建築・都市計画の環境などが必要と
される。これらがうまく調和しているときに、それを文明とよぶの
ではないだろうか。
 
革命政権は、既存の文明を否定した。すると、一気に食糧も燃料も
不足するようになり、疫病が流行し、人口は減少した。それは、
文明のありがたみを理解できる人間が減ったからでもある。文化の
否定あるいは喪失が、文明の破壊をもたらしたともいえる。
 
文明は心をもたないので衝突しない。衝突を起こすのは心、文化で
ある。つまり、環境が戦争を起こすのではなく、人間の心が戦争を
引き起こすのだ。
 
むしろ現在の問題は、人間の作り出した文明が、ついに地球という
容器にいっぱいいっぱいになって地球環境問題を引き起こしている
ところにある。個別国家のエゴイズムや、先進国と発展途上国の
利害対立など乗り越えて、全人類的に問題解決に取り組まなければ
ならないのに、そのような意識(=文化、心)が未だに形成されて
いないところにある。
 
得丸久文(2001.11.04)
 
ー 記 −
思想道場鷹揚の会
11月30日(金)午後6時半から
東京都港区新橋3−16−3 
港区生涯学習センターにて
篠田節子著「弥勒」(講談社文庫)の読書会
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あらっ、私アイロン消してきたかしら?
皆様おはようございます。

−1− グローバルな問題と個々の人間をどう結びつけるか
NGOに参加している一般の市民と地球環境問題をどのように結びつけ
るのか、実に難しい問題だと思います。

なぜならば、普通人間は、自分の目先のこと、つまり「今」と「こ
こ」のことしか考えることができないからです。先のことを考える
ことができるのは、よほど修練を積んだ人か、あるいは伝統文化に
よってそのようにプログラムされた人くらいではないでしょうか。

地球は、普通の人間の想像力を超えた存在です。人間の身体感覚で
つかむことができる「世界」というのは、今と日本書紀の時代とで
大差ないのではないでしょうか。せいぜい半径2−3kmの地域か
なと思います。

問題は、人類が自分の身体感覚で把握できる世界より以上のものを
破壊する力を持ってしまったことでしょう。人類は、今とここだけ
を考えて生きてはいけないはずなのに、、、、。汎神論的な宗教観
・世界観をもっていた時代は、それでもまだ山の神や海の神に対す
る畏れがあったから、抑制できていたのでしょうが、今はそれすら
失われましたから。

(余談になりますが、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」の映画で
、千尋だけでなく、ハクと呼ばれる少年も自分の過去の名前と記憶
を奪われてしまいます。ハクは川の神だったわけですが、これは人
間も自然も過去を喪失したというメッセージでしょうか。また、顔
なしと呼ばれるお化け?が、登場しますが、彼はどんどんお金をば
らまいて一旦は人気を博すのですが、実は狂暴な人食い?だった。
これは拝金主義批判でしょうか。)

−2− 身につまされる環境教育、個々の人間の行動を規制する教育
やはり教育しかないのでしょうね。
よく話題になる環境教育も、頭の上の概念だけだと、どうしても弱
いと思います。頭の上の知識としての地球環境問題と、自分の目の
前にある土地の開発あるいは廃棄物処理問題を、比較して、それが
経済的には不利益であるにもかかわらず頭の上の知識に従うことが
できる人というのは、よほどの聖人君子ではないでしょうか。自分
だけが、ちょっとくらい、いいかなと、ついつい考えてしまうのが
人情ではありませんか。

子供のころ、家族で買い物に出かけたときなど、家を出て数分した
ときに、母が「あらっ、私アイロンのスイッチ切ってきたかしら?
」、「ガス止めてきたかしら?」と心配になって、家に引き返した
ことがあります。彼女の頭の中は、アイロンやガスのことでいっぱ
いになって、それから先の行動に支障が出るくらい心配していたん
です。

いったいどうすれば私たちひとりひとりの意識を、地球というひと
つの惑星の環境と直結することができるのか。どうすれば環境問題
を他の問題に優先させることができるのか。人間の行動をコントロ
ールする次元で、環境教育を行うにはどうすればいいのかを考える
べきではないでしょうか。

先だっての意見交換会でお話し申し上げたように、人間にとって、
常識は短い期間で作ることができます。人間は、いくらでも新しい
環境に適応することができます。

たとえば、9月11日の世界貿易センタービル事件の直後から、み
んな飛行機に乗らなくなった。あるいは、狂牛病のウシが日本で見
つかったというニュースに接しただけで、牛肉を食べる人が減った。

それぞれわが身かわいさに発した行動かもしれませんが、地球環境
問題だって、長期的(せいぜい数十年規模ですが)に見れば、自分
や自分の子孫の生存問題にかかわるわけです。

牛肉を食べない、飛行機に乗らない、の次の行動として、開発はし
ない、自動車は公共交通機関のみ、ガソリンなどの燃料価格は世界
一律増税によって今の5倍にする(そうすれば輸入食糧問題も同時
に片付くかもしれない)、環境に放出しやすいにもかかわらず自然
には分解しないプラスチックの製造を中止する、、、、。

ひとりひとりの日本人が、生産・輸送・新規開発を制限するライフ
スタイルを模索して、その中に大きな喜びを発見し、それを世界に
報告するということは、できないものでしょうか。

得丸久文

PS NGO/NPOという視点でものを考えるときには、他国の人口問
題や政治問題、あるいはODAのことについて議論する前に、まず自
分たちの生活について見直すという態度が必要ではないかと考えま
した。「貧困と人口」問題も、まだまだ議論する余地があると思っ
ておりますが、なにはともあれ自分たちの日常生活から考え直して
みたいと思います。

PS2 小学6年生の子供の社会科の参考書を読んでいて気づいた
のですが、海洋汚染問題は地球環境問題として位置付けられていな
いのですね。温暖化やオゾン層破壊や砂漠化に比べれば、まだ海洋
汚染(たとえば浮遊ゴミ問題)のほうが、汚染を体で実感しやすい
と思うのですが。
やや手前味噌になりますが、富山県やJEANが行っている浜辺のゴミ
拾い運動は、海洋汚染を肌身で感じさせる環境教育としては、実に
すぐれたものだと思います。


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