700−2.善と悪について



白鳥です。
以下のような議論を耳にしました。
どなたかこの生徒に答えてやって頂けないでしょうか。
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先生 「たとえどんな事があっても人を殺すことは『悪』だ」
生徒 「でも、実際にその『悪』を犯しながら人類は進歩発展
     をしてきたのではないですか?」
先生 「確かに、人類は数多くの間違いを犯しながら、現在まで
     歴史を作ってきた」
生徒 「人を殺すことはなぜ『悪』だと断言できるんでしょうか?』
先生 「それは『感性』に属する問題だ」
生徒 「殺すことも『悪』とは感じない感性というものもあるんでは
     ないでしょうか?」
先生 「君はとても危険なことを言っている」
生徒 「いえ、私は別に人を殺すことがいいとか悪いとかの価値
    判断を自分がしているわけではありません。私は本当の
    ことが知りたいだけです」
先生 「『殺す』ことが良いとか悪いとかという論議自体が問題だ」
生徒 「先生、あなたは、自分で前提そのものを決めてしまって
    話をしておられますね。でも前提そのものの合理性正当性
    を説明なさらないでは、違った前提に立った者たちと論議が
    できないではないですか」
先生 「確かに、君の言いたいことはわかる。でも君は人を殺す事
     はいけない事だという風には思わないのか」
生徒 「またまた、ーー私はそういう論議をしているのではありませ
    ん。先生は先ほど『たとえどんなことがあっても』人を殺す
    ことは『悪』だと仰った。それは人を殺す事は『絶対悪』って
    ことですよね。それなら死刑制度そのものも、国家がこの
    『絶対悪』を容認していることになるんではないですか?」
先生 「だから、それはいけない事だということで、今死刑制度廃止
    の流れがあるんだ」
生徒 「でも、どうしても人を殺さなければいけないような状況という
     もいのも人生の中には起こり得ることもあるんじゃないです
     か?」
先生 「たとえそういうことがあったにしても、人が人を殺してはいけ
    ない」
生徒 「どうも論議になっていませんね。私は殺さないといけないよ
        うな状況も発生することがあるのではないでしょうかと質問を
    したのです」
先生 「君はなかなか恐ろしいことを言うね」
生徒 「ちょっと待ってください。どうしてこうなちゃうんだろう。
        先生、私の言うことが分りませんか?」
先生 「分らない」
生徒 「そうですか、それでは議題を別にしましょう。先生、質問です
    が、もし人を殺す事が絶対悪だと前提して、それでは動物の
    命を奪うことは悪ではないのでしょうか?」
先生 「確かに好ましいことではない」
生徒 「先生、好ましい、好ましくないという話は一切度外視しまし
        ょう、この際。人間を殺す事は絶対悪だが、動物を殺す事は
        絶対悪ではないという論法なのですか、先生、どうなんでし
        ょうか?」
先生 「もう、時間が来た。君の質問は今度のお互いの宿題ということ
     で、今日のところはお仕舞いにしよう」
生徒 「はい、分りました」
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> 先生 「確かに好ましいことではない」
> 生徒 「先生、好ましい、好ましくないという話は一切度外視し
>         しょう、この際。人間を殺す事は絶対悪だが、動物を殺す
>         事は絶対悪ではないという論法なのですか、先生、どうな
>         んでしょうか?」

先生の友人「ちょっとちょっと、キミイ!人のいいセンセをいじめる
のはどうかとおもうよ〜。人を殺していい、の、「いい」を善、と
いいなおそう。法律で殺人はいけないから、殺してはいけない、とい
う議論をいましているのではないのだから、自分で善、とおもえば
殺したってかまわないだろう、チットモ。 そのあとで、殺した人、
や殺された人の家族、や自分になにがおこるか、は気にする人もいる
だろうし、いないひともいるだろう。
勝手にするがええだろう。 
わたし? 生まれてこの方、蚊の一匹も殺してないよ。うん。
。。で、ええかな?」

> 生徒 「はい、分りました」

。。いい子だ。こんど、カラオケにいこか?
inoue
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モスクワより、メール差し上げます。

白鳥さんのメールを読んで考えました。
たしかに、この時代の善悪判断を巡る危機的状況は、ほとんど単な
る政治的な問題を通り越して、個人の価値観の次元にも、かなりの
波紋を投げかけている、そういう気がします。

奇しくも、私自身が今日本におらず、ロシアという遠く離れた大陸
にいることから、日本人としての自分の位置が、ときどき、非常に
危ういものであることを感じています。
それでも、その危機感があるからこそ、逆に言うと、意識が高まる
という面もあるのですが。

そして、この矛盾に満ちた大国にいると、おかしなものですが、
やはり、自然天候の厳しさゆえか、どうしても、どこかしら哲学的
になっていくのを感じます。

トルストイ、ドストエフスキーが現れた
この独特の地理条件というのは、やはり、ここにいる人間を人生に
対して、無意識のままほっておいてくれない、何かがあるようです。

ご存知の方がほとんどと思われますが、ドストエフスキーは「罪と
罰」の中で、自分の理想のために、金貸しの老婆を殺害する青年を
登場させて、その善悪を問う、という壮大な実験をしております。
(ソ連時代は禁止されていた時期もあったようですが)
この小説は、ロシアの国語の教科書に、必ずと言っていいほど出て
くる、古典作品となっています。

この問題提議から、どれだけ歳月が経ち、どれだけ人間を巡る環境
や条件が変化しても、やはり、「なぜ人を殺すのがいけないか?」
という命題は、非常に大きな普遍的テーマだと思います。

一言で結論が出るものではないにしろ、そのような、殺すことを
肯定する人物に対するひとつの処方箋として、ドストエフスキーは
、「人間は、苦しみを知らなければならない」ということを訴えて
いる部分があると思うのです。

そして、この苦しみを分け合えるような本物の人間関係、相手の苦
しみを理解し、自分のものとして贖うことを望む、心の清らかさ、
そういったものは、ある意味で理想であり、一種の信仰に近いもの
がありますが、そういったものが、現代の目まぐるしく変化する
日常の中で、個々の人間の心にとって、本当の救いをもたらすもの
なのではないか?
と、月並みかもしれませんが、私自身は考えます。

東 知世子
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> ドストエフスキーは「罪と罰」の中で、
> 自分の理想のために、金貸しの老婆を殺害する
> 青年を登場させて、その善悪を問うという壮大な実験をしており
> ます。

> どれだけ人間を巡る環境や条件が変化しても、やはり、
> 「なぜ人を殺すのがいけないか?」という命題は、
> 非常に大きな普遍的テーマだと思います。
> 
> 一言で結論が出るものではないにしろ、そのような、
> 殺すことを肯定する人物に対するひとつの処方箋として、
> ドストエフスキーは、「人間は、苦しみを知らなければならない」
> ということを訴えている部分があると思うのです。

人間は人間を知らなければならない、ということだとおもいます。
ドス氏は、ペトラシェフスキー事件(皇帝襲撃事件?に連座)で、
死刑場で死刑直前に恩赦。。という(皇帝、のヤラセ、だったらし
い)体験をしております。これがカナリ、思想に影響を与えている
のではないでしょうか?
 
> そして、この苦しみを分け合えるような本物の人間関係、
> 相手の苦しみを理解し、自分のものとして贖うことを望む、
> 心の清らかさ、そういったものは、ある意味で理想であり、
> 一種の信仰に近いものがありますが、そういったものが、
> 現代の目まぐるしく変化する日常の中で、
> 個々の人間の心にとって、本当の救いをもたらすもの
> なのではないか?
> と、月並みかもしれませんが、私自身は考えます。

罪と罰、は 学生時代に映画を見ました(ロシア映画)。
キリスト教徒でないわれわれには ラストはあまりにも唐突
かつ月並み、であり、これがショックです。
前世紀の大戦争大紛争、は、すべて宗教を深く信仰すると
いわれる国ぐにが率先して起こしています。
イスラムとキリスト、ユダヤ教はみな兄弟。
諍い、もまた、人間の宿業、と思わざるを得ません。
inoue
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東さん、

> 「なぜ人を殺すのがいけないか?」という命題は、
> 非常に大きな普遍的テーマだと思います。

地球環境が60億人の人間によって破滅的状況になっている現在、
相当数の人間を処分しないことには、人類は滅亡するかもしれない
。人類の生活スタイルを、よほど改めないかぎり、人類も野生生物
もみな死に絶えるかもしれない。

そのようなときに、どうすればいいのでしょうか。
このままレミングのようにぞろぞろと死滅の道を歩むしかないので
しょうか。

人口を減らし、生活スタイルを変えようと思えば、どうすればいい
のでしょうか。

この問いに答えないことは、レミングの道です。

得丸久文
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希望的発想
得丸さま
おっしゃるとおり、時代的にも状況的にも、
世界はかなり切迫した問題を抱えています。
たしかに、今起こっていることすべてが
ときには、絶望的に見えることもあります。
しかし、抜け道はどこかにあると思うのです。

この地球の周りに、惑星があり、非常に広大な空間があり、
大きな宇宙が存在するように、人間の個々の心にも
小さな宇宙があるというようなことを、
真言密教を大学時代に
学んでいるときに知りました。
有名な、あの空海の曼荼羅をご覧になれば、
大変に、その哲学が単純明快に示されていますが、
この世界は、あの図のように、
多様な神々の調和を必要としていると、思うのです。

それは、単に宗教とか神仏の次元だけの問題ではなく、
おそらく個人個人の人間が、いかにして全体としての調和を
取り戻すか、また生態系、環境などの自分の周囲との
アンバランスを解決するには、まずなによりも、
人間一人一人の、内面的な世界から、
自発的に、変えていくべきなのかもしれません。
chiyoko azuma 
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朝に道を聞かまほし、夕に死すべきレミング
東さま、

> ときには、絶望的に見えることもあります。

これは皮肉ではありません。人類にとっては絶望的なことも、他の
生物や地球それ自身にとっては希望といえるのかもしれませんね。
だから絶望することなく、かといって過大な期待は抱かずに、淡々
と生きていかなければと思っております。

自分の頭で考える(解釈する・意味づける)のではなく、ただひた
すら世界を眺める(世界を視野に取り込む・世界と一体化する)こ
とが必要なのでしょう。僕は禅をそれほど勉強しているわけではあ
りませんが、これが禅的な認識方法だと思います。

海辺のゴミ問題は、ひとつひとつのゴミを手にとって、それらを
分類して、さらに重さを量って、といった単純な作業を行っている
うちに、それが海全体のゴミ汚染であること、すべて人類の責任に
よっておきていること、そしてゴミ汚染はますます深刻化していく
ことを、現実として感じさせてくれました。

この現実感覚は、希望的観測や絶望的観測の結果得られたものでは
ありません。
ひたすら現実の漂着ゴミと一体化することによって、我々の意識が
現実世界の一部とつながった結果といえるでしょう。

> この世界は、あの(曼荼羅の))図のように、
> 多様な神々の調和を必要としていると、思うのです。

調和を乱しているのは、主として近代以降に、自分こそが神である
と思い始めた人類ではないでしょうか。

> この出口がないように見える状況の中で、できるだけ、
> 前向きに生きようと思っています。

「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」という論語の言葉のとお
りに、どんなに混乱が起きても、どんなに明日が悲観的であっても
、最後までよき人間として道を求めつづける態度が必要だと思いま
す。この点では、東さんにまったく同感です。

「朝に道を聞かまほし、夕に死すべきレミング」という言葉を夕べ
から何回か口ずさんでいます。

おそらく現在進行している地球環境問題(とくに温暖化と海洋汚染
)は、けっして止まらず、行き着くところまで行くことでしょう。
そのときにどのような修羅場がおきようとも、人間として恥ずかし
くない生き方をするように今から心構えをしておかなければならな
いのだと思います。

得丸久文
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白鳥です
得丸さん・東さん、感慨深さを知らされます。

海洋汚染の問題にしても、一つの海岸を掃除してみたところで
何も解決しないとされる方もいらっしゃると思いますが、「無駄」
を「無駄」としないで一つのところから始める姿勢こそが訴えの
原則だろうと思います。

何もしないことは時として必要だとは思いますが、何も考えない
ことはあってはならないことだと考えます。

私も「環境」「福祉」「教育」「平和」「未来」その他希望の火を
消さないように「細々」でもいいから活動を続けていきたいと思い
ます。


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