699−2.得丸コラム



得丸
立山止観の会では、論語の第十章までいちおう読み終えたので、
これからしばらく後半の章で興味のあるところだけを選択的に読み
すすめることにする。なお次回は10月31日に富山市内で行う。

現在私たちが手にすることのできる論語は全部で二十章からなるが
、前半の十章までと後半の十一章から二十章まででは、編集の密度
が違う。これも今回じっくり読むことによって感じたことだが。

第十一章
第十一章先進は、孔子の弟子たちについての論評が並ぶ。何度も
ゆっくりと読んでいると、だんだんとそれぞれの弟子の性格や気性
まで感じるようになるところが論語のおもしろさでもある。以下
参加者のコメントを記す。

268 過ぎたるはなお及ばざるがごとし
この背景には146にある「中庸の徳たるや、其れ至れるかな」にあ
る中庸を尊ぶ思想がある。湯加減にしろ、塩加減にしろだ、適当な
域があるのであって、過ぎるのも及ばないのも、ともに駄目である。

何が最適な状態であるのかを理解することが大切である。それは自
らを相手の立場においてみることによってはじめて可能になるので
はないか。

戦後の日本の公務員は、あまり人事考課を受けることがなかった。
横並びで、みんな同じ給料できた。この横並び主義は、改められな
ければならないが、上に立つものがしっかりしていないと、きちん
とした評価は行えない。

自分より地位は低いが能力的に優れたものを素直に認めて、その人
物を育て、引き上げ、伸ばしてやることのできる人間は滅多にいな
い。

論語や朱子学では、そのような上に当たった時でも、自分を失うな
と教える。用捨行蔵(157、用いられれば働き、罷めさせられれば引
っ込んで音もたてない)というのが君子の理想なのである。

能力も無いのに縁故や追従によって過分な地位についたりするのも
よくないが、周囲が認めていないのに仕事を進めれば逆に陰謀によ
って失脚させられ命を失うこともある。

プロ野球のイチロー選手は、まるでサラリーマン社会のように堕落
した日本のプロ野球界でひとり求道者然としていて、浮いた存在だ
った。彼はアメリカに渡ってプレーするしかなかったのではないか。

(参考:得丸はイチロー選手が昨年まで日本にいたことすら知らなか
った、記憶になかった。スポーツ音痴もここに極まれりである。そ
ういう事情であるのなら、アメリカでプレーするしかないのかもし
れない。日本に帰ってくる必要はない。問題なのは日本のプロ野球
のあり方であり、日本のファンやマスコミの態度・姿勢かもしれな
い。)

第十二章 顔淵
279 己に克ち礼に復るを仁と為す。
顔淵は孔子が一番高く評価していた弟子。以下3つの章で、仁につ
いて説かれているが、それぞれが弟子の能力や性質に応じた説明に
なっている。

「非礼は視るなかれ、非礼は聴くなかれ」というのは、相手の非礼
を無視せよということであり、「非礼は言うなかれ、非礼には動く
なかれ」というのは自分の態度として非礼なことはするなという戒
めである。相手の挑発にのってはいけないのだ。

これは仁を心の次元、意識の次元で説いたといえるだろう。仁とい
うのは、どのような心のあり様をいうのかを理解し体得すれば、
あとはそのまますべて行動に反映される。孔子は、顔淵であればそ
のような仁の理解と実践ができると思って、あえてこのような仁の
説明を行ったのであろう。

仁とは、相手の態度や言葉に影響されない絶対的な態度である。
自分がしっかりしておれば、常に仁の心境でいられるのだ。よく
相手の過去の非礼な態度の話をしつこくくり返して、現在の相手へ
の攻撃や非礼を正当づける人がいるが、これなどは仁にもとる態度
である。
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得丸です。

回答を求められているとは思いませんし、長谷さんのご意見には全
く同感です。
思ったこと、感じたことを書かせていただきます。

福田宏年「時が紡ぐ幻」は文学を愛する人や人類の歴史に興味をも
つ人には本当にお勧めです。ぜひご一読されることをお勧めします。

ケータイメールが世にはびこるようになって、雑誌やコミックすら
売れなくなってきているというご指摘ありがとうございます。まっ
たくその通りですね。

そして、雑誌やコミックも、人をひきつける力を失っていることも
確かです。

また、私の「テレビ不要論」が極論であることは認めます。いい
番組もたまにあります。テレビの深夜の時間帯に、おもしろい映画
とであったこともあります。

(ちなみに、BS朝日「田原総一朗の熱論90分スペシャル」の
8月29日収録の田嶋陽子さんゲストの回の前半が、昨日の朝、
テレビ朝日「スーパーモーニング」で放送されましたが、この収録
に私も顔を出しており、『映ってたよ』と夕べ知り合いから連絡が
ありました。来週放送分では私のつたない発言が放送されるかもし
れません。)

長谷さんのご指摘で、一番大切なのは、

  つまり、今失われようとしているのは書物等の文化そのものだけ
  ではなく、人間が知的生物としての「考える力」を失おうとして
  いる兆候だと思う。いや、既に失っているのか?

という部分ですね。

曽野さんは、「哲学の本を読ませるべきだ」とおっしゃっていまし
たが、少なくとも日本の戦後の哲学や思想の本は、現実から遊離し
て、概念に振り回されるか概念をもてあそぶだけの無力で有害なも
のが目立ちます。

これは敗戦の心の傷のためということもあるのかもしれませんし、
明治維新以降の西洋化によって自己喪失した結果かもしれません。
それらが複合的に作用しているのでしょう。

  そこから、テレビを撤去しても子供たちが本を読むようにはなら
  ないだろうと思いますが...

そうなんです。探偵小説やSFや恋愛小説を通じて、あるいは論語や
百人一首を通じて、読む力、理解する力というものが培われて、
はじめて「難しい」科学や哲学の本を読める段階に達していたので
す。

福田宏年さんの言われたように、小説が視聴覚映像にとって代わら
れると、「準備体操」あるいは「助走」ができなくなりますから、
突然本を与えられても意味不明な記号の羅列になってしまいます。

考える力をどうやってつけさせるか、これは子供たちの問題という
より、まずは大人の問題かもしれませんね。

得丸久文(2001.10.24)
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こころの原風景 「光の呼吸 休憩室」
富山県立近代美術館で開かれている「とやま現代作家シリーズ 
こころの原風景」をみてきた。

ひとりひとりの作家の作品について評論できるだけの見識も批評眼
もないので、それは控えることとし、気になった作品についたこと
だけ、ひと言述べたい。

柳原幸子「光の呼吸 休憩室」は、展示会場の一番奥にある。他の
作家たちの絵画作品が架けられた壁と壁の間から、薄いベージュ色
かオフホワイトの紙でつくられたでこぼこの壁面が見えたので、覗
いてみた。

これは美術館の建物の一番隅の空間を利用して、高さ2m強、奥行き
2m弱、幅10mほどにわたって、円筒の4分の1縦断面(あるいは蒲鉾の
半分)の形状に彎曲してつくられた壁面だった。それぞれにランダム
な形に彎曲褶曲させた紙を張り合わせて作っているので、かまくら
のつるつるな壁とはちょっと違うが、その点を別にすれば、まるで
かまくらか雪のトンネルの中にいるような気分になる。

最初見たときは、これが作品であるのかどうか判断できずに、一回
展示室に戻って、作者と作品名が表示されているのか確認した。
それほどおくゆかしい作品である。

実際に休憩室として使おうとすると、左奥には美術館の外が見える
ガラスの壁があるし、右奥には二階の展示コーナーへと続く階段が
あり、床と手前の壁はそのままだから、休憩室というよりは美術館
の遊休空間としての性格が強くでている。作品が建物に打ち勝って
おらず、ちょっと中途半端といえるかもしれない。誰もそこがかま
くらの中だとは思わないだろう。

また休憩用に置かれている椅子は、意図的にか非意図的にか、単な
る普通の何の変哲もない椅子であって、特にくつろげるような配慮
がなされているとは思えなかった。
富山県近代美術館には倉俣史朗らの作った実に味わいのある椅子の
収蔵が多くあり、探せばこの空間にもっと適した椅子があったので
はないかという気もする。

壁面のランダムな形状と、オフホワイトの自己主張しない色感だけ
で、くつろいでほしいと作者は思ったのかもしれない。

なかなか面白い趣向だと思ったが、作者はそこを訪れたものを、
もっと引き付ける仕掛けを用意してもよかった。そこの椅子に座っ
ただけで、まるで胎内にいるような居心地のよさを、有無を言わせ
ずに感じさせてやるぞという意気込みがあってもよかったのではな
いか。

欲を言い過ぎかもしれないが、岡山県奈義町にある奈義町現代美術
館の荒川修作作品「太陽 遍在の場・奈義の龍安寺・こころ」の円
筒形の空間にまけないくらいの仕掛けがほしい。

作品は少しもの足りないが、空間として作品を提供した作者の意欲
は評価したい。

この休憩室で、光を呼吸するという言葉(=概念)ではなく、現実体
験そのものとして、見学者に光を呼吸させることができるならば、
それはもはや芸術作品や美術作品というカテゴリーすら必要としな
い自立した存在価値を主張できるのである。

概念以前のものとして、立ち現れよ。そこを訪れたものの思考活動
をすべて止めさせて、そのかわりに母の胎内にいたときの気分や、
サワガニが水の底から水面の光の揺らぎを見てそれに惹き付けられ
る気分にさせるのだ。あるいは子供のころかまくらの中で我を忘れ
て遊んだ記憶を、意識させることなくよみがえらせるのだ。

現代芸術が本来求めていたものは、美の概念すら否定する直接的な
体験であったのだということを考えさせてくれる作品であった。

得丸久文(2001.10.25)


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