698−1.ロスから山岡さんの報告



件名:アメリカの国旗  
ロスアンジェルスに来ている。アメリカに入国の厳しさは、半端で
は、なかった、それも人を見ていおんやる、私などは、人相から見
てあまり良くないので、検査対象に当然なった。
可哀想なのは荷物多い人、空けられて、そのまま放置されるので、
入れるのに大変、市内に入ると車に星条旗を付けているのが目立つ
、バッチも売っている、私もバッチを購入した、多少返りの税関に
心象が良いと思う。テレビはのべつアフガギスタンの放送をしてい
る。
大リーグは国歌から始まり、アメリカのナショナリズムを見せ付け
られる。
アメリカの人種の一番多いのはドイツ系、インデアンを追い込んだ
のもドイツ系、テロに対する怒り方はドイツ的に考えると、理解出
来る、スーパーでもどこでも旗が売っている、日本では旗をつけた
ら右翼と思われる、ロス市内は至極平穏アメリカ人もう少し観察し
たら?
kenzo_yamaoka
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バイオテロ 

暗い話で恐縮ですが、このところ炭疽菌の被害に関するマスメディ
アの記事が増えてきました。USAでのそれは、更に多くの紙面を
割いていることはご存じの通りです。

これら記事に関連して多く使われている単語の1部を集めてみまし
た。

炭疽菌         Anthray     
細菌バンク    Germ−bank
細菌戦争    Germ warfare
細菌テロ       Bioterro
伝染性      Contagious

炭疽菌 の次に予想される Germ Weapon として、
ポツリヌス菌  Botulinum toxin    1grの精製菌は、理論的に100
万人の殺傷力、但し伝染性(Contagious)ではない。オ-ム
教は、製造に失敗した。
天然痘  Smallpox 1977絶滅宣言されたが、種痘の免疫効
果はも早無効。再び蔓延のおそれ。
kenzo Yamaoka ロスから。
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Re: テロの裏で光った実話 
私の個人的なルートから、以下のようなメールが届いております。
暗いニュースが多い中で、感動的なメッセージなので、長くなりま
すが失礼をかえりみず、転送いたします。(原文の英訳)>
「航空ルート変更」>
九月十一日の朝、真っ青な大西洋の真ん中を飛んでいた全てのフラ
イトに起こったことについて、もしもご興味があれば、フランクフ
ルト発アトランタ行きのデルタ航空の客室乗務員が記したこの詳細
な体験談。
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フランクフルトを出て約五時間経過し北大西洋の上空を飛行中でし
た。私は交代の休憩時間で乗務員休息席に居ました。いきなりカー
ティンが開けられ直ちに操縦室の機長のところに行くように言われ
ました。

急いで行ったところ、クルーは一様に固い表情をしていました。
機長は私にプリントのメッセージを渡しました。一読して事の重大
性を感じました。
それはアトランタから私たちのフライト宛てで“米国本土の空港は
全て閉鎖された。早急に最寄の空港に着陸せよ。予定地を知らせ。
” という簡単なメッセージでした。

運行司令が空港を指定しないで直ちに着陸を指示して来た事は、
司令は不本意ながらフライトの運行管理を機長の判断に任せたとい
うことです。事態は深刻で早急に陸地を探さねばなりませんでした。

私たちの右肩の後方四百マイルにあるニュー・ファウンドランド島
ガンダーが最短距離の空港でした。直ちに右旋回してガンダーへの
直行航路をカナダの航空管制官に要請したところ即座に承認されま
した。
わたし達客室乗務員は緊急着陸のための機内準備を指示されました
。その間にアトランタからの次のメッセージはニューヨーク地区で
のテロリスト活動について知らせて来ました。

客室乗務員にガンダー着陸予定を説明して着陸のための“機内の店
仕舞い”の仕事を始めました。数分後に操縦室に戻った時に、幾つ
かの航空機がハイジャックされ米国中の建物に突入した事を聞きま
した。

わたし達は当分の間乗客には嘘のアナウンスをすることにしました
。乗客には、フライトの計器に問題が発生したので点検のためガン
ダーに着陸すると伝えました。詳しいことはガンダーに到着後知ら
せることを約束しました。
多くの乗客は文句を言いましたが当然のことです。このエピソード
の発生後約四十分後にガンダーに着陸しました。

地上には世界中からの航空機が約二十機既に居ました。搭乗口に駐
機した時に機長がアナウンスしました。

“乗客の皆様。周りのこれらの航空機も全て私たちと同じように計
器の問題が起こったのだろうかと不思議に思っておられるだろうと
思います。しかし本当の理由は別のことです。”と述べて、米国の
状況につき私たちが持っている僅かな情報を説明しました。

乗客は驚きの声を挙げ信じがたい表情を示しました。ガンダーの現
地時間は午後12時半(東部標準時刻、午前11時)でした。ガンダー
の管制塔はそのまま待機するよう指示しました。
地上の人は一切航空機に近づくことを許されませんでした。

空港警察の自動車だけが時たま巡回して我々を見上げてそれから隣
の航空機に向かって行くだけでした。
それから一時間ほどの間に北大西洋上の全ての航空路線から航空機
は姿を消してガンダー空港だけでも世界中から航空機が五十三機、
内二十七機が米国籍でした。

全ての航空機からの乗客の下船は一度に一機毎に行われ、外国の航
空機が優先すると通知されました。

私達は米国籍のグループのなかでは十四番目で、午後六時に下船予
定時刻の通告を受けると言われました。

その内に、航空機のラジオから断片的なニュースが入り始め、ニュ
ーヨークの世界貿易センターとワシントンDCのペンタゴンに航空機
が突入したことを始めて知りました。

皆は手持ちの携帯電話で通信を試みましたがカナダのシステムが異
なるため接続出来ませんでした。或る人はカナダの交換手にやっと
繋がったが米国への回線は障害又はパンク状態のため後刻又掛ける
ように言われました。

夕方遅くなって世界貿易センターの崩壊、ハイジャックされた四番
目の航空機墜落などのニュースが伝えられました。
乗客は今や全く呆然として喪失状態でしたが冷静でした。

周りを見渡せばこんな苦境に陥っているのはわたし達だけではあり
ません、ほかの五十二機の航空機にも同じ状態にある人達がいるこ
とを私たちは乗客に繰り返して話しました。

我々はカナダ政府の管理下にあり、その指示に従うほかないことも
乗客に伝えました。最初の約束通り、午後六時にガンダー空港は私
たちの下船予定時刻は翌朝午前十一時であると伝えて来ました。

乗客は全く諦めの境地でおとなしく、この知らせを受け止め、機上
で一夜を過ごす準備を始めました。ガンダーは必要な全ての医療、
薬品、水、トイレのサービスなどを約束し、全て実行してくれまし
た。

幸運なことにその夜は医療が必要な事態は起こりませんでした。
妊娠三十三週間目の若い婦人が居たので、わたし達は特に彼女の世
話に万全を期しました。

寝るには窮屈な環境でしたが、その夜は私たちの機上では特にそれ
以上の問題は起きませんでした。
十二日の朝10時半ごろに下船準備の連絡を受けました。

航空機の横にスクール・バスの一団が現われ、搭乗階段が機体に取
り付けられて乗客はターミナルに“手続きのために”運ばれました
。クルーは同じターミナルの別の場所に行かされました。そこで入
国手続き、税関検査後、赤十字に登録をしました。

その後、クルーは乗客から引き離されて、一団のバンに分乗してガ
ンダー市内のとても小さいホテルに案内されました。
乗客の行き先については何も教えられませんでした。

赤十字によればガンダー市の人口は10,400で、ガンダーに不時着し
た航空機の約10,500人の世話が必要でした。 
ホテルでゆっくり寛いで空港への呼び戻しの指示を待つように、
但しその指示は当分の間期待しないようにと言われました。

ホテルに着いてテレビを付け、事件発生から二十四時間後に本土で
の恐ろしい事件の全貌を知りました。そこで私達は町を徘徊して珍
しいものを見たり歓待を受けたりして楽しみました。人々は人懐こ
くてわたし達を“航空機の人達”と呼びました。

二日後十四日の午前七時に呼び戻しの知らせを受けました。
午前八時半に空港に行き午後十二時半にアトランタに向けて出発し
、アトランタには午後四時半頃到着予定でした。(ガンダーと東部
標準時間との時差は一時間半、間違いなく一時間半先です。)

しかし私が皆さんに話したかったのは、これからのことです。
乗客が私たちに語ったことはとても素晴らしく信じられないほど最
高でした。
ガンダー及び半径七十五キロ以内の小さい町はすべての高校、集会
場、宿泊所その他大きい集会場を閉鎖しました。

これらの全て施設を集団宿泊場所に転用しました。
簡易ベッド、マット、寝袋、枕などが持ち込まれました。
全ての高校生は “ゲスト”の世話をするためにボランティアとし
て動員されました。

私たちの218人の乗客はガンダーから約45キロ離れたルイスポート
という町に落ち着きました。そこの高校に収容されました。
女子の希望者には女子専用の区画が割り当てられました。

家族は家族ごとに纏めらました。老齢者はすべて個人の家庭に招か
れました。
ご存知の若い妊婦は二十四時間緊急診療所から真向かいの個人の家
庭に泊められました。常時来診可能な医療サービスがあり、看護士
(男性及び女性)も滞在期間中集団に付き添ってくれました。

全員、各人が一日に一回、米国及び欧州に電話とEメールを利用する
ことが出来ました。滞在期間中に、乗客は“遠足”旅行を選択する
ことが出来ました。
或る人々は湖や湾へボートのクルーズに、他の人達は近くの森に行
きました。

土地のベーカリーは常時開業してお客様に焼きたてのパンを提供し
ました。食事は町の住民全員が準備しました。
宿舎から外出したくない人には学校に食事が運ばれました。

他の人達は選択した給食場所に自動車で案内されご馳走になりまし
た。手荷物は機内に置いて来たので、支給されたコインを使って町
のコイン・ラウンドリーで衣類を洗濯しました。

つまりこれらの不幸な旅行者が日常生活に必要なものは全て満たさ
れました。乗客はこれらのことを涙ながらに話してくれました。
乗客は一人の落伍、遅刻もなく予定時間通り空港に戻って来ました。

全ては地元の赤十字社がガンダーの各地の状況を完全に把握して、
グループ毎に空港の所要到着時刻に合わせて出発時刻を掌握してい
たお陰です。
全く信じられない完璧な手配でした。

乗客が機内に乗り込むと、あたかもクルーズのような雰囲気でした
。全員はお互いにファーストネームで知り合いになっていました。
おたがいに滞在中の経験談を交換して、夫々が過ごした楽しい自慢
話を交わしました。信じられない事です。

アトランタへの帰りの旅はパーティの様でした。
乗務員は邪魔しないように引っ込んでいました。
乗客同士が固い絆で結ばれお互いにフアーストネームで呼び合い、
電話番号、住所、Eメール・アドレスを交換していました。

そこで変わったことが起きました。ビジネスクラスの一人の乗客が
私に近づいて機内放送を使って他の乗客に話したいと言って来まし
た。
これは規則で固く禁じられていることです。しかし、この時彼の言
うとおりにせよと、なにかが私に命じました。

“勿論、どうぞ”と私は答えました。彼はマイクを持って全ての乗
客が過去数日間体験したことを話しました。全くの赤の他人から受
けた歓待について乗客に語り、更にそのお返しとしてルイスポート
の善良な市民のために何かしたいと言いました。

デルタ15(我々のフライトナンバー)と名づけた信託基金の設立
を彼は提唱しました。
この信託基金の目的はルイスポートの高校生の大学進学を助けるた
めの奨学金の支給です。彼は旅行仲間達に任意の寄付金を要請しま
した。

金額、氏名、電話番号を記した紙が戻って来ました。
合計額は$14,500 (カナダドルで約$20,000)でした。
基金の提唱者はバージニアから来た医者でした。

彼は合計額と同額の拠出を申し出て、更に奨学資金設立の世話役を
引き受けました。彼はこの提案をデルタ航空に提示して会社からも
寄付金を要請すると述べました。

一体全体こんなことは、どうして起きたのでしょうか? はるか遠
い場所の或る人たちが、彼らの間に文字通り降って来た或る見知ら
ぬ人たちに親切を尽くしたからです。
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最後までお読み頂き、ありがとうございました。
 
Kenzo Yamaoka   LAから
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 羨ましい話でもありました。今の日本人にこんな芸当
出来るだろうかと思いました。そして悲しくなりました。江戸時代
(もしかしたら明治のごく初期の頃)、太平洋で難船したメキシコ
の船乗り達を、ある漁村の村民が総出で救助し、介抱し、各家へ引
き取って帰国の便を得られるまで生活の面倒をみたという話をなに
かで読んだ記憶があります。メキシコにはそれを顕彰する石碑もあ
るという。
 
 昔の日本にはいい文化があったようだ。そういうものがここ数十
年の間に、潮がひくように亡くなってしまったように感じられます。
大変なスピードで野蛮の世界へ突入しているように思われてなりま
せん。
犯罪の激増も、不法入国外人ばかりのことではないでしょう。奢れ
る者久しからずなのだろうか。
 
 「近頃の若い者は」現象の次元を超えていると思います。先日広
島で見た風景です。ある中学校の校門に掲げられていた横断幕に
「勇気・責任・郷土愛」と大書してありました。泥臭いスローガン
かもしれませんが、崩れ行く文化に抵抗しようという気持が感じら
れました。
 Kenzo Yamaoka  LA 
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e: 鯛の骨 
昔から、鯛は美味ではあるが、その骨の硬さ・鋭さのゆえに 敬遠
される向きもあったが、姿形・色・味、三拍子そろった魚であるた
め、お祝い事には欠かせない魚となっている。
最近、日本の業者が、タイ産の 鯛 を、タイ国で すっかり骨抜
きにして(いったん 開き、背骨と小骨をピンセットで、すべて抜
き取る) しかる後、澱粉で元通りに貼り合わせ、「尾頭付き鯛」に
戻してーー日本へ輸入するという、新しい商売をはじめた。
当然、コストアップ となるが、食べやすさ で、どれだけ売れる
だろうか?
もし、この商売が成り立つほど売れる、としたならば 日本人の食
感が少し くるって来ているような気がする。
ところで、鯛さん という苗字の人をご存知ですか?
三菱商事に、鯛部長さんがおられ、「ご出身は?」 と聞いたら、
淡路島 でした。非常に珍しい名前なので、日本全国捜しても、鯛
 姓はすべて、元は 淡路島 の出のようです。
余談ですが、昔 上司に 鱸(すずき)という部長がいて、鈴木さん
が大勢いたため、区別するため (通称) ギョロ さん、でとおし
た。
なぜかというと、鱸 を分解して「魚」「ろ」、、、ギョロ。
目が多少 ギョロメっぽかったので、ぴったりな ニックネームで
した。
鱸は出世魚。 名前のとおり、ギョロ部長、とんとん拍子で出世し
、専務取締役まで昇格した。
86歳の今も、ご健在である。
Kenzo Yamaoka


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