695−2.マンション反対闘争のボキャブラリ



                                                得丸久文
マンション反対闘争のボキャブラリ
ー 身体感覚を研ぎすまし、ボキャブラリを豊かにする −
1 マンション反対住民運動の幹事役になる
このひと月半ほど、東京都立大学理工学部跡地に○○工務店が計画
している大規模(約八百戸)高層(十九階)マンション計画の反対
運動に積極的に関わっている。

世田谷区深沢2丁目にあった都立大学が八王子に移転して早十年、
跡地は遊休地として野鳥の休息地、高校生の隠れ家になっていた。
そこを財政難?の都が民間に売却したところ、周辺環境を乱す高層
建築を提案してきたのだ。

敷地から百メートル以内に住んでいる住民のひとりである私にとっ
ては、いつかはこのような事態が来るであろうと予測されていたこ
とであった。実はここに引っ越してきた二年前の最初のマンション
管理組合総会の場で、跡地の利用法次第ではうちのマンションの資
産価値も変わってくるから、積極的に跡地問題に関わっていこうと
提案して誰にも支持されなかったのだった。人間という動物は、
「今」と「ここ」しか考えられないらしい。先のことをおもんばか
って、あらかじめ周到に計画して行動するなんてことはできないよ
うだ。

実際に東京都が土地を○○工に売却したときにも、何人かのマンシ
ョン住民の危機感をあおってみたけれど、反応はなかった。それで
私もしばらく何もしないでいたのだった。

少し遅めの夏休みを九月に取った最初の日に、深沢の環境を守る会
の集会があった。
おっとりとした上品なご婦人方を中心とする運動で、この先どうや
って戦うのだろうかと心配になるほどだった。少し長めに発言した
ら幹事を拝命し、以来休日に自分の時間がなくなった。

2 住民のボキャブラリの貧困
九月十日に、**工の計画概要説明会があったが、参加した住民の
意見の多くは、交通量にかかわるものであった。つまり、戸数八百
の団地ができると、付近で交通渋滞が起きたり、裏道を走る車が増
えるので交通事故が増える、という心配だった。○○工が提示した
交通量調査は、実際に走っている運転者の実感とずれている、とい
う批判もあった。

この心配や批判は実に正しい。だが、低層住宅ばかりある住宅街に
、突如として十九階建ての高層マンションができるときに、まず交
通問題に目が行くのは、普段から車を運転しておられる方が多いか
らだろう。自家用車をもっていない私にはそのような発想はわかない。

古くから住んでいる地主の方が、「低層住宅の中に十九階の建物を
建てると、まち並みはめちゃくちゃになる。やめてくれ」と悲痛な
叫びをあげていた。私には、このおじいさんの反応のほうがなじみ
やすかった。

ボキャブラリというのは、普段どんな生活を送っているのか、自分
が何を大切に思っているのかによって、形成されるのだろうか。

3 私の建築のボキャブラリ
説明会で提示されたのは、まるで「風呂屋の下足箱」を連想させる
無味乾燥で画一的な建物だった。「風呂屋の下足箱みたいな建築を
二十一世紀になっても続けるのですか」と私は会場で質問?をした
。この言葉は○○工社員の心をいたく傷つけたようで、その後何度
か○○工の方にお目にかかったときに、自嘲的に口にしているのを
耳にした。倒産寸前といわれる○○工の社員にも、いちおうプライ
ドがあることに驚く。

種を明かすと、この「風呂屋の下足箱」という表現は、実は三年前
にシンガポールで開かれた建築都市ワークショップに参加したとき
に、現地の建築家が初期のシンガポールの公共住宅としてスライド
で紹介してくれた建築を見て、身に付けたボキャブラリである。
説明会場で○○工の建築計画もそれに近いと感じた時に、ボキャブ
ラリがよみがえってきた。

ボキャブラリを身に付けるためには、たくさんフィールドワークを
こなしたり、本を読んでいなければならない。また、ボキャブラリ
の中から有効な言葉を拾い上げるためには、常にどういった表現が
最も効果的であるのかについて配慮しておかなければならない。

4 建築家のボキャブラリの貧困
それにしても悲しいのは、建築家の提示する設計図面が、まるで石
鹸箱を積み重ねたような単純なものばかりであることだ。彼らの
ボキャブラリも実に貧困である。

実はこの運動に関わってから二度ほど東京都庁を訪問した。都庁は
西新宿にあって、外から見ると、高層ビルで、外壁は集積回路の
プリント基板を思わせる格子状になっている近代的なビルである。

驚いたのは、外壁はプリント基板なのに、中は単なる普通のオフィ
スビルでしかないのだ。どこにもプリント基板を感じさせない。
雑然とした事務所としか形容しようのない特徴のないビルだった。
インターネットの配線すらないといううわさだ。

これこそが日本の建築家のボキャ貧の証明であろう。
ロンドンのロイズ本社ビルは、リチャード・ロジャーズの設計にな
るが、そとから見てハイテク風のガラスと鉄骨のビルは、中に入っ
てもやっぱりハイテクだった。

あるいは昨年訪問したブラジリアの国会議事堂の地下は、何本もの
迷路のような地下道がはりめぐらされており、そこを歩いていると
、私はかつて勤務したパリのユネスコ本部ビルの地下を思い出した
のだった。ともに設計者は同じ、オスカー・ニーマイヤーだ。建築
家のボキャブラリが強烈だから、ひとつのビルの中を歩いていると
きに、まったく別のビルのことを思い出させるのだ。

日本の建築家たちの多くは、おそらく必然性のある線一本まともに
引けないのだろう。欧米の建築の物まねしかしてこなかったのだか
ら仕方ない。丸写しのカンニングで今までごまかしてきたのではな
いか。丸写しのカンニングだから、ちっともボキャブラリが身に付
かないのだ。(全員が全員カンニングとは思わない。たとえばホテ
ルオークラを設計した谷口吉郎の設計を私は愛する。)

5 荒川修作のボキャブラリ
深沢の環境を守る会の運動は、理想案として荒川修作が描いてくれ
た「深沢庭園集合住宅」案を、○○工や都や区に提出して、これな
ら受け入れられると主張している。
荒川の描いた庭園住宅高層は、最高でも七階建てで、まるで緑豊か
な里山のように住宅が積み重なってあるのだ。

荒川は、一九六〇年代初頭に、ニューヨークに移住して、以来一貫
して「意味のメカニズム」を追求してきた芸術家である。人間はい
ったいどのようにして意識を発達させるのかという問題関心である
。初期は図形絵画(ダイアグラムアート)であったが、だんだんと
人間の身体とそれを取り囲む環境の関係性に視点が移り、とうとう
建築家のような仕事をするようになった。

岐阜県養老町にある「養老天命反転地」や、岡山県奈義町にある「
偏在の場、奈義の竜安寺 こころ」といった作品は、まだ実験的な
要素が多いが、人間の身体と意識と建築の間には関係性があるのだ
ということを、訴えかけてくれる作品である。

私たちが荒川のボキャブラリを身につけることはけっして容易なこ
とではないが、かといって不可能なことでもないはずだ。養老や奈
義を訪れて、作品となじむことによって、荒川のボキャブラリを身
につける努力をすることは、海外の建築ワークショップに匹敵する
、あるいはそれよりも意義深いことかもしれない。

(二〇〇一・一〇・二三)
得丸久文(とくまる くもん)、一九五九年生。ロンドンで放浪中
の田原千と出会い、以後飲み友達である。人工衛星による地球観測
、南アフリカの脱植民地化、地球環境問題とくに海洋汚染、建築や
現代芸術、中国の古典、吉田松陰、道元などに興味をもつ自称思想
家。


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