692−2.読者の声



件名:「読書運動」について  
得丸さんはじめまして。

最近になって、国際戦略コラムを読ませていただいている長谷と
申します。
先日投稿された得丸さんのNO.684−2「読書運動」について
、私なりの疑問とコメントがありますので、読んでいただければ幸
いです。
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福田氏の本は拝見したことがありませんので何ですが、氏の予測は
当たっていると見ていいですね。

本屋さんに人が居ないのは最近に始まった事ではありませんが、
ここ2年ほどはまた違った様相を見せています。今までは本が売れ
ないといっても、コミック雑誌、週刊誌等はそこそこ売れていまし
た。しかし最近はそれでさえ買う人が激減しました。

これは一つには都会(電車社会)の特殊事情かもしれませんが、電車
通勤で片道1時間以上という人は珍しくなく、これらの雑誌は乗車
中の暇潰しで買う人が多かった訳です。しかし最近は学生だけでな
くサラリーマンでさえ、電車中で携帯電話でメールをしているので
しょう、ピコピコやっていて新聞や雑誌はさほど見当たりません。

もう一つには、私は一般の週刊誌は詳しい事情は存じませんので
書きませんが、コミックについていえば商業主義が一因の質的低下
は目に余るものがあります。
端的に言えば連載の殆どが読んでいて面白くないのですから、読者
が付く訳がありません。

さて得丸さんはテレビが不必要との意見ですが、それはモノには必
ず存在する功罪両面あるもののうち、罪のみを強調した考え方では
ないでしょうか?

ニュースのショウ化は私も懸念するところです。
しかし皆さんご存じかと思われますが、マスコミの報道は100%真
実が報道されるわけではない。何処かに無意識に或いは意図的に内
容が操作されている事もある。しかし報道の表面だけ見ているとそ
れは分からないので、その裏を推察する必要がある。
これはニュースソースとしてテレビ以外のメディアを利用しても
同じことです。ニュースそのものの吸収が不要というなら、話は
別ですが。

つまり、今失われようとしているのは書物等の文化そのものだけ
ではなく、人間が知的生物としての「考える力」を失おうとして
いる兆候だと思う。いや、既に失っているのか?

そこから、テレビを撤去しても子供たちが本を読むようにはなら
ないだろうと思いますが...
何故なら、本を読んで楽しいのは想像したり考えるから。しかし
考える力が醸成されていないから読もうとはしないし、読んでも
面白くはないのである。
そういうような彼らには、極端に言えば本は記号の羅列でしかない。
これを読んで楽しいだろうか?

さて本は記号の羅列でも、テレビは映像として五感に訴えるから
分かり易いので見るわけだが、映像やお笑いの語りなどの表面だけ
楽しむのであれば、考える力の醸成にはならない。それが仰る
テレビ不要論の根拠であると思います。

しかしN○Kスペシャルなど、数は少ないが決してそういった番組
だけとも限らない。こういうものを見ていると更に想像を掻き立て
られるものも少なくない。そういった番組も含めて、子供に見せ
ないようにするのはかえって損失のような気がする。

さて私は曽野綾子さんのコラムにも違和感を感じる。
子供に本を読むな、と強制しなくなったから若い人が本を読まな
くなったと仰っているようであるが、決してそうではない。
前述のように「考える力」が弱いから読んでも面白くないのに、
強制したらますます読まなくなる。

しかも、受け皿となる書籍の方の質的低下もはなはだしいものが
ある。
最近ブームの「ブック・オフ」が近くに有れば、本を買わないまで
も行ってみるといい。ここにある本は、いわゆるリサイクルだから
一昔前のベストセラーがとんでもない値段で大量にあったりする。
この手の本の多くを手にとってみると、果たして読んだその時は
面白いが、後にもう一度読み返してみようとか、考えさせられた
とかタメになったとか思うものはあまり無い。
いわば書物もテレビ化しているのだ。要は使い捨て。

これであれば、現状の書物は、テレビとどんぐりの背比べではない
のかという気がしてならない。

さて本題に戻るが、本を読むことで考える力が身につくのは確かで、
本を読むべきだという点は同感なのですが、さてそこに至るまでの
環境が失われている、すなわち「本を読んで面白い」とか「本を
読んで考えたり想像する」ということを身に付けるべき時期にそれ
を行わないからこそ本を読まないと考えるべきであろうと思う。

とすればどこに問題があるか?やはりその一端は教育制度にあるの
ではないのか。
確かにそういう政府を支持する、大人個々の責任は逃れられないが、
そういう社会になるように誘導、指導した政府(実質的には文部科学
省の官僚であろう)の責任の方が重くはないでしょうか。

長谷 
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件名:NO.682−1へのコメント  
〜「事実」と「真実」とは全然違うこ
とのようです。〜
アフガンの難民報道や、テロ報道などはそれぞれ国の立場にったっ
た事実がメディアから流されているかも知れませんが、事実の背後?
にある人間の真実の姿を常に見つめることを心がけて生活する必要
があると思います。イチローの活躍に喜ぶ報道や自分、それは事実
かも知れませんが、その活躍を支える本人や周囲の人々の生き様、
何よりも本人の頑張りを支える本人の「真実の思い」に思索をはせ
たりすることがあれば氾濫する情報におぼれることなく、自分なり
の泳法で確実に自分の目的地を見失うことなくたどり着くことがで
きるように思います。
<十法快児>
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kishizukaです。

アメリカの戦争騒ぎと国内の狂牛病騒ぎですが、一つ気になること
がりあります。
それはやはり、一億総なんとかの世界を作ってしまう日本のマスコ
ミです。

世界の或いは国内の安全保障の扱いは、国民にとって確かにもっと
も大切なことなのでしょうが、やはり、偏りすぎるのは如何なもの
かなと思います。
一つのことを報道しすぎればあたかも、国民は世界でそのことだけ
が懸念されていて、他のことは健忘症のごとく忘れてしまいます。

取材力が著しく落ちている日本のマスコミが、今まで同様に、特に
影響力の一番有るテレビはあくまでお祭り追っかけで、息の長い持
久力のある取材がNHK以外では出来ないというのは、困ったものです。

特にワイドショーなど新しいねたが無いので、同じことを繰り返し
報道している場合が多く見られます。
マスコミの取材努力とともに、どういう割合で何を報道するのが、
ふさわしいのかと言う議論が必要なのではないかと考えます。


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