684−2.読書運動



得丸です。
単純に返信メールとしたところ個人的なメールが流れてしまい、
皆様にはご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。今後
はこのようなことがないように気をつけたいと思います。

ところで、福田宏年「時が紡ぐ幻 − 近代藝術観批判」(集英社
、1998年)については、すでにきまじめ読書案内で紹介しまし
たが、読まれた方はおられますか。
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/kak3/1301141.htm

この中で、福田は、「語り」から「小説」、「小説」から「ビデオ
」へと推移する物語文学の歴史について触れている。

「平家物語」などの語りの文学は、印刷技術と識字率の向上によっ
て、書籍を媒体とする書かれた文学に受け継がれるが、それらの書
かれた文学は、見聞きする文学である映画やビデオにとってかわら
れるであろうと福田は予測する。

これは、つまり、もう誰も小説を読まなくなる可能性があるという
ことだ。実際に、書店で文学のコーナーにいってもいつもガラガラ。

今朝も僕はうちの子供たちが本を読まないことで、妻と口論になっ
た。「テレビをなくせばいいじゃないか」という僕の過激な意見は
通らない。しかし、テレビがあるかぎり、本を読まなくても楽しめ
るから、誰も本なんか読まないんじゃないか。

妻は「私の見ているのは、ニュースだから」というが、ニュースだ
って見る必要はないと僕は思う。今のニュースは娯楽化しているの
ではないか。リアルな映像を見ることで、人々は自らの想像力を涵
養する努力を怠るようになる、想像力のない人間に育つ。

娯楽だけなら、本からテレビや映画に移行すればいいが、知識を得
るためには本しかない。古今東西の知恵が本の中に込められている
というのに、本を読む力が衰えると、知識を吸収することができな
くなる。大変な不幸だ。

今朝の産経新聞の曽野綾子さんのコラム「自分の顔、他人の顔」も
「読書運動」というものだった。

曰く、「本当に最近若い人と話していて本を読んでいないのに驚く
ことがある。それは戦後長い間、先生も親たちも子供に、『本を読
みなさい』と強制しなくなったからである。一つには自分自身がテ
レビしか見ないし、美容院や理髪店ではマンガ本かお噂を中心とし
た週刊誌を読むだけで、本気で長い学術書も小説も読まなくなった
から、子供に本を読みなさいと言えなくなったのである。」

大人が本を読まないから、子供も本を読まないのだ。本を読むこと
でしか得られない知識を捨てて、人類はいったいどこへ行こうとい
うのだろう。

「これから世界の中の日本で、どのように生きるかは、政府や文部
科学省が考えてくれることではない。個人が常日頃深く模索するこ
とでそれが安全と自由につながる。」と曽野さんはおっしゃる。
曽野さんの意見が、とても新鮮に聞こえるのは、こういったあたり
まえの議論にお目にかかることも珍しいご時世になったからだろう
か。
「本を読むだけが学問ではないでしょう」という子路の言葉に対し
て、孔子は「だから私は強弁する人間が嫌いなのだ」と答えている
。(論語、先進第十一)

本を読むことをないがしろにする風潮は、古くからある問題なので
ある。それを乗り越えるのが、文化の力である。
私たちはなんとしてでも文化の力を取り戻さなければならない。
読書週間は毎年10月27日から2週間だ。10月27日は松陰忌
であり、僕の誕生日でもある。

得丸久文(2001.10.11)


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