670−1.「ある」ものとしてではなく、「つくりだす」ものとしての「町」



「ある」ものとしてではなく、「つくりだす」ものとしての「町」
     きまじめ読書案内 
吉岡忍著「M/世界の、憂鬱な先端」(文芸春秋,2000年,2000円)

 ここ10年来の日本を騒がせた事件の中でも、宮崎勤による連続少
女誘拐殺人事件と、神戸の少年Aによる通り魔事件と殺人死体遺棄事
件ほど、人々の心を戦慄させた事件はなかったのではあるまいか。
犯人が青年や少年であったこと、被害者がいたいけな幼な子や小学
児童であったことに加え、何回かにわたって行われた犯行の残忍さ
は、忘れることができない。

 吉岡忍著「M/世界の、憂鬱な先端」は、油ののりきったルポライ
ターが、犯人の心理をていねいにおいかけた力作である。以下では
、本書を読んで感じたこと、とくに物足りないと思ったことを、
批判としてではなく、提案として述べてみたい。
 
1 世界の問題ではなく、過去を失った日本の特種事情
 タイトルの一部として使われている「世界の」は、物質に取り囲
まれた消費社会がイメージされているようだ。「適応すればするほ
ど、モノに近づいてゆく消費社会」、「孤独になってゆく競争社会
」(p162)という表現がある。

 地球上で物質文明の最先端をゆく日本だから、あのような事件が
起ったという指摘は、おそらく間違ってはいないだろう。しかしな
がら、戦争に敗れて経済のことだけを考えるようになった戦後の日
本という特殊事情もあるのではないかと私は思った。

 はじめのほうで「天皇の戦争責任」についての記述があるが、
このような議論をあたかも当然のように行う感性、歴史教科書の中
で記述される戦争評価しか許さない風潮、戦前の日本社会や価値観
へのアプリオリな否定、その呪縛から逃れないと、今の日本をよく
することはできないのではないか。

 つまり、現代日本人の意識をより安定したものにするためには、
より実直なものにするためには、モデルは戦前や江戸時代に求めら
れるべきではないかと、私は思う。
寺子屋で教えられていた論語、町内会などの地域共同体(中川剛著「
町内会」中公新書参照)、そういったものしか、現代日本を救えない
のではないか、と私はおもっている。

 少なくとも、著者は、どのように現状を変えていくのかというこ
とについては論じていない。これはルポルタージュの責任はそこま
で及ばないと言われるかもしれないが、私にとっては物足りない。

2 なぜ精神障害者の刑事責任は問われないのか
 宮崎事件は、精神鑑定書をめぐっても話題にのぼった。犯行当時
の犯人の精神状況によって、犯罪の責任を問えるかどうかが決まる
らしい。著者も、3つの異なる精神鑑定書をていねいに読み込んで
いる。

 しかし、私は「なぜ、精神障害者は刑事責任を問われないのか」
という疑問をもつ。
やったことはやったこと。どれだけ正常だったか、どれだけ錯乱し
ていたかは別として、彼は人を殺したのだ。その行為の責任は問わ
れてしかるべきではないだろうか。

 そもそも、なぜ精神障害者の刑事責任は問われないのか。責任が
疎却されるのだろうか。これは大学の刑法I部の授業でも習わなかっ
たような気がする。単に忘れただけかもしれないが。たしか私が大
学で優をもらった数少ない科目のひとつが刑法I部だったと記憶する
ので(卒業してすでに20年近い時間が経過しており、私の記憶は無
意識のうちに書き換えられている可能性もあるが)、私なりにその
理由を推理してみたい。

 刑法は、被害者あるいは神に代わって、国家が犯人に対して刑罰
を課することを決めている法である。自由勝手な権力行使を予防す
るためにも、実に論理的で精緻な法体系となっている。

 そして、国家が刑罰を課するとはいえ、実際に有罪無罪、刑の種
類と主さを決めるのは、国家のために仕事をしている人間なのであ
る。人間なのだから、間違いをおかすこともある。その間違いがで
きるだけ少なくなるように、刑法は作られている。

 では精神障害者が、なぜ刑事責任を免れることができるのか。
ひとつには、精神に障害があるから、自分が何をやっているのか、
何をしたのか、認識できないからという説明が可能であろう。
 個人の自由意思を重んじるフランスでは、酔っぱらってぐでんぐ
でんになり、前後不覚で運転しているときに、人身事故を起しても
、責任能力がなかったのだから、罪に問わないという時代があった
そうだ。
 
 日本の場合には、「原因において自由な行為」という法理論によ
って、「たくさん酒を飲むと、前後不覚になって、人身事故を起す
かも知れない」と知りつつ飲んで運転したのだから、責任は飲んで
いた時点に求められ、罪に問われる。

 宮崎勤も少年Aも、自分が何をやったかの自覚はもっていたのでは
ないか。それなら行為の責任は問えるような気がする。

 ふたつには、精神障害者は、自己弁護できないから、真犯人によ
ってでっちあげられて身替わりとして無実の罪を被る可能性がある
からではないか。法を運用し解釈して判決を行うのは人間である。
人間は何が真実であるのかを知らないので、法廷の答弁や状況証拠
によって有罪か無罪の判断をせざるをえない。

 もし、精神障害者の刑事責任が普通に問えるのであれば、彼らを
だまして、身替わりにすることが簡単にできるだろう。それを防ぐ
ために、生身の人間である判事や検察官を誤判の可能性から遠ざけ
るために、精神障害者の刑事責任を問わないのではないか。

 そうだとすると、宮崎勤も少年Aも、自分で犯行に及んでいること
が明白であるので、刑事責任能力を鑑定するまでもなく、法の裁き
にかけるべきではないか。

 どっちの考えにしたがっても、私は宮崎勤も少年Aも、刑事責任
を問うべきだ、実際に彼らが行った犯罪に対してふさわしい処罰を
受けるべきだと思う。

 以上は20年も前にかじっただけの法律の知識しかもたない人間が
、あさはかに考えたことである。私は自説が絶対に正しいと主張し
たいのではない。以上の2点以外で、精神障害者の刑事責任を問わ
ない理由があれば、ご教示願いたい。もっと議論をしよう。

3 風景の喪失が心を喪失させる
 著者は、このふたつの事件にかぎらず、ほかのさまざまな事件の
発生した町(愛知、新潟、和歌山、、、)を訪ねて、全国を回って
歩いた。そこで著者が見たのは、生活しかない町、つまりベッドタ
ウンとしてしか機能していない無味乾燥な町。全国どこに行っても
、同じような景観しかなくなってしまい、日本中が「できそこない
のジグソーパズル」になってしまったことだった。

 おそらく、そのような無機的な町だから「憂鬱な先端」の事件が
発生したのであり、全国津々浦々の同じような景観をもつ町で、
先端を追い掛けるようにして、次から次へと事件が起きるであろう
、ということを著者は感じたに違いない。

 千代女が「朝顔につるべとられてもらい水」と日常の中で俳句を
生み出したように、かつての日本は季節感にあふれ、自然と対話で
きる環境だった。だからこそ、季語なるものが分類され、季語辞典
を編纂することができた。おそらく季語辞典が存在するのは、この
地球上でも日本だけであろう。竜安寺の石庭や、縄文の火焔土器の
ような非対称の造形を心地よく受けとめることができる感受性は、
日本の豊かな自然の中で育まれた。

 ところが、戦後の日本の建設会社や土木会社は、国家や地方の役
人は、そのようなことにいっさいかまうことなく、日本中を無機的
なコンクリートづけにしてしまった。

 宮崎勤や少年Aの心が無機的なのは、日本の空間が無機的だからな
のだ。著者はそう訴えたかったのだろう。

 この現状を変えていくには、建設会社や土木会社の仕事のやり方
を変えてもらわなければならない。国や地方の役人の、精神構造を
変えてもらわなければならない。無機的な景色に慣れてしまって、
それをおかしいと思わなくなった、私たち自身の意識を変えなくて
はならない。

 町はもうない。だったら、そこにつくり出すいがいにない。共同
体もなくなり、自然もなくなり、人々がバラバラにしか生きていけ
ない町を、共同性を意識しながら生活し、花や緑があふれる中で生
活できる町に変えていかなければならない。

 吉岡氏はそのために何をすればいいかのヒントすら用意してくれ
ない。私なら、まず岐阜県養老町にある養老天命反転地に行って
一日中公園の中をさまよってみろというだろう。
(得丸久文、2001.09.23)


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