655−2.太平洋戦争の歴史に反論



国際戦略コラムNO.647−1 太平洋戦争の歴史について
ふる@鶴川
 MONTANA氏のコメントで、
>問題はなぜ日英同盟が解消されたか?それは日本側が同盟国の義務
>を怠ったからです。
>「第一次世界大戦」でイギリスが西部戦線が苦戦した時に日本陸軍
>の派遣を要請しました。
>しかし陸軍首脳部は愚かにも要請を蹴った。理由は陸軍の先生の
>ドイツには勝てないと思ったからか現地でのお米の調達を心配した
>のか欧州での戦争を人ごとだと思ったのか定かではありませんがとに
>かく断った。
 これは、「日英同盟」解消の主たる理由ではないですね。
 陸軍原因説の他に、帝国海軍が地中海に艦隊を派遣したのにも関
わらず、英国海軍からあまり感謝されず、日本海軍の若手士官に
英国嫌いが増え、日英海軍の蜜月が崩れたのが原因と言うのもあり
ます。

 簡単に言うと、ワシントン会議以後の列強各国の条約尊守によっ
て世界平和を信じた日本外交が甘かったと言うか、ばか正直過ぎた
と言うことです。
 
「SECURITARIAN 2000年5月号」に掲載された「ワシントン会議と
日英同盟の廃棄」(防衛研究所 第2戦史研究室 2等海佐 横山
隆介)に経緯が詳しく掲載されています。「当時の日本は海軍軍備
競争のみならず、満州問題、対華21カ条要求、シベリア出兵、
移民問題及び南洋群島問題等の太平洋及び極東問題で悉く米国と
対立しており、国際的孤立に陥りつつあった。これらの問題の根本
要因となるものが日英同盟であった。言わば、日英同盟の帰趨が、
将来の日本の動向を大きく左右することは間違いなかった。 
 ワシントン会議前、日本は原敬首相の決断で「対英米協調路線」
というよりは、むしろ「親米協調路線」を採り、日英同盟に代わる
日英米三国協約の締結を積極的に推進するが、状況により日英同盟
を存続させてもよいという曖昧さの残る方針を決定した。一方、米
国に莫大な借款を負う英国のロイド・ジョージ首相も、英米友好が
第一義であり、次に日本との友誼及び協調を維持するというある面
で矛盾する二股外交的な政策大綱を決定した。英国は、英米関係を
良好に維持し、米国との建艦競争から離脱し、日英同盟をカードと
して中国における既得権益を守ろうという現状維持の政策を採ろう
としたのである。
 これに対して会議開催国である米国は、海軍軍備制限問題と太平
洋及び極東問題でイニシアティブを取り、J・ヘイ以来の門戸開放
・機会均等の政策を推し進め、中国における経済的権益を確固たる
ものとし、パックス・アメリカーナを樹立する野心を抱いていた。
そのためには、米国を仮想敵から除いたものとはいえ、日英連合を
認める日英同盟の廃棄がヘゲモニー(覇権)獲得のための必須条件
であった。 
11月22日、日英同盟に意を用いる加藤友三郎全権はバルフォア
英国全権を訪ね、日英同盟存続の希望を述べた。これに対して、
バルフォアは、日英同盟が復活できる条項を盛り込んだ、日英米同
盟三国協約案を提示した。これを受けて幣原喜重郎全権は、バル
フォア案を参考としながらも、日英同盟の廃棄をうたった幣原個人
の試案をバルフォア及びヒューズに手交した。当熱、米国にとって
、幣原案は渡りに船であり、望むところであった。ヒューズは、
すかさずバルフォア案受諾の前提条件として、山東問題の解決とい
う難題を英国に突きつけた。これに対して、バルフォアは中国での
既得権益をヒューズに承認させ、米国の介入を阻止しようと動いた。
こうして英米の中国をめぐる壮絶な外交交渉が続いた。1月28日
、ようやく英米は、幣原案とバルフォア修正案をもとに基本的な
合意に達した。この後、ヒューズは米国内の反英、反日思想の存在
を理由にフランスの加入を希望し、加藤友三郎にも認めさせ、
四カ国条約の調印に漕ぎ着けたのである。この間、あの冷静沈着な
加藤友三郎が、日英同盟の存続か廃棄に悩み、唯一、浮足立った姿
を見せたのであった。結局、日本は多国間条約である四カ国条約が
、軍事同盟である日英同盟に替わるという楽観的な見通しのもとで
、この条約を採択した。この結果、米国は日英同盟を太平洋中に葬
り去ることに成功したのである。(一部割愛)」 

 外交評論家の岡崎久彦氏の言わせれば、幣原という人は信念を持
った人で、ベルサイユ体制とワシントン体制で新しい時代、国際協
調主義が来たと思った。ワシントン体制の作った条約体制を世界の
強大国がそろって遵守すれば、世界はいよいよ平和になると信じた
のです。だから、もう日英同盟はいらない、と思った。その体制の
中には中国との間のいろいろな条約が全部入っていて、これは
二一ヶ条条約で作ったものも全部入っている。それを中国も飲んだ
。これが本当に最初の約束通り守られたならば、幣原の考えでよか
ったんですが、そうはならなかった。
 なぜかというと、中国自身がワシントン体制に反対の態度を明ら
かにしてきたんです。
これはナショナリズムの台頭という新しい要素が原因ですし、
アメリカが、ワシントン体制を裏切った。今度はアメリカが考えを
変えてしまう。ワシントン体制を作った当のアメリカが、ワシント
ン体制に反対し始めたんです。反対というか、条約を守らなくなった。
 
 結局、国際協調など未成熟の段階にも関わらず、日本は理想を追
い求めて自らの命の綱の「日英同盟」を断ち切ってしまったのが
本筋のようです。
 これが、日英ともに帝国主義の国同士ですから「日英同盟」を維持
すれば、第二次欧州大戦で、日本は英国の権益を守るために英国植
民地を防衛することになるでしょう。それにより、英国には感謝さ
れますが、アジアの国々の独立は随分と遅れたでしょうね。「同じ
アジア人でありながら、欧米に手を貸した裏切り者」と、結局、今
と同じ様に叩かれたたかもしれません(笑)。
 
 ところで、日露戦争後、満州に米国資本を導入して鉄道を敷設す
る案が積極的に検討されましたが、小村寿太郎の反対で頓挫した話
があります。満州に米国資本が導入されれば、米国とのその後の対
立が解消されたかもしれないと言う意見があります。なるほど、最
初から米国にあめ玉をしゃぶらせるのか・・・と、感心しましたが
、私には、結果論だと思います。
 日露戦争で途方もないほどの日本人の血が流れたのですから、
満州の権益を日本が独占したいと思うのが普通です。そこには、
日本の財閥の思惑もあったでしょうが、それよりも将来の日本と
米国の対立を、当時の日本人がどれだけ予測できたかですね。思い
もしなかったことではないでしょうか。
 今だって、将来、日本と米国が軍事的に対立する何てことを考え
る人は僅かだと思います。
ふる@鶴川


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