647−1.太平洋戦争の歴史について



責任曖昧な日本の組織           ふる@鶴川 
   
  八木さんが、戦争の行く末がはっきりした時点で戦争を早期に
終結できなかった点を批判していますが、それは日本の国家が欧米
のような一部のエリートによるトップダウン方式で運営されている
のでなく、合議体である限り無理な話です。 

 ご存じとも思いますが、日本の陸・海軍の上層部内でも、ガダル
カナルの戦いに破れて以降、冷静に戦争終結へのための動きはあり
ました。当時の東條英樹首相らの戦争指導者達だって、国力に差が
ある米国に戦争に勝てるなどと思っている人はいません。あわよく
ば講和に持ち込んで戦争終結を図ることを意図していました。 
 しかし、例え日本の戦争継続への限界を為政者が感じたとしても
、戦争の終結を勝手に図ることはできません。 
 戦争終結を図るためには、講和の成立か降伏しか選択肢はありま
せん。戦争のイニシアチブを取り始めた米国が、講和のテーブルに
着く可能性はありませんので、選択肢は日本の降伏しか考えられま
せん。彼の内閣が実行できたでしょうか? 不可能ですね。 
 米軍に一泡吹かせて講和に持ち込もうと戦争を継続した結果のな
れの果て、多大な犠牲を払ってやっと、「もうアカン。。。」と、
言う国内全体の気持ちになったので、降伏できたと言わざるを得な
いと思います。 
 それでも、鈴木貫太郎内閣がポツダム宣言を受託するのに、陸軍
の反対を天皇の「聖断」の離れワザによって押し切ったのですし、
ポツダム宣言の受託後も「国体維持」を図る陸軍の一部の叛乱が起
きたぐらいです。 
  
 戦前よりも戦後の方が、首相の権限が強くなった現在でも、小泉
首相の思うとおりに構造改革が進まないように、日本の組織は、
トップによって隅々まで指導力が発揮できない構造的な問題でお判
りになると思います。 
 日本の合議体方式では、戦争責任も図れません。ドイツ人は、ヒ
ットラー及び彼の率いるナチスに自分達の未来を託し、敗戦後はす
べて彼らの責任と押しつけることができました。 
 日本の歴史を振り返れば、混迷の戦国時代の非常時には、個性豊
かな武将の指導力で生き延びたのですから、平時・有事で組織の使
いわけが器用にできれば、誰かが責任を持って対処し、失敗した
場合は責任を取れるのですがね。 

 「日本人の戦争責任」と言うのは、要は、日本人が「最初に手を
出した!」に他ならないでしょう。それが、相手から喧嘩しなけれ
ばならないように仕向けられたものであっても、「手を出した方が
悪い(手を出さざるを得ない程に追い込まれた日本の国家戦略の無
策)。」の論理ですね。 
 これが、戦争に勝てないまでも、講和に結び付けば、日本の正当
性や大義名分が図れたかもしれませんが、負ければボロボロです。 
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件名:ポツダム宣言について  
ken@千葉です。
yamaokaさんを始め多数のみなさんがポツダム宣言を否定的に捉え
ていらっしゃいますが、そういった面だけではないと思います。

日米開戦当時の駐日米大使・ジョセフ・グルーは、米国帰国後、何
とか日本との和平を考えていた。しかし、ルーズベルトは対日政策
からグルーらの親日派を排除していた。

ご存じのとおりルーズベルトは1945年4月11日(12日だったかな)
になくなった。
そこで、グルーら親日派の出番がでてきた。時の日本の首相は鈴木
貫太郎で、グルーとは旧知の仲だった。ここに一つの歴史上のドラ
マを感じる。

グルーは「日本が本当の焼土となる前に何とか降伏のチャンスを与
えたい」との思いでポツダム宣言を書いた。(グルーはマンハッタ
ン計画を知っていて、焦っていたとの説もある)

「国体の護持」を明記できなかったが、「天皇を死刑にすべし」と
の世論が圧倒的であった米国では仕方なかった面もある。

江藤淳氏が言うように「ポツダム宣言」は「無条件降伏の文書では
ない」との考えもある。GHQのポツダム宣言の運用には首肯できない
面も多いが、それはグルーのせいとは言えないでしょう。

ちなみに「日本の恩人」とも言えるグルーに対する評価は日本では
異常なまでに低いと思います。その反面、「つくる会」の歴史教科
書では、グルーを写真付きで扱っているのは大変良いことだし、
うれしく思います。
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揚げ足取りの様で申し上げ難かったのですが、ただ確認まで、とい
うことでどうかお許しくださいませ。
Fさんの”このコラムが智閥の源に”における朝日新聞・東京日日新
聞の関係について正しくは、現毎日新聞の前進が東京日日新聞では
なかったでしょうか。
手元の資料には
○明治21年7月『東京朝日新聞』創刊
 昭和15年9月『朝日新聞』と改題。 
○明治5年2月『東京日日新聞』創刊
 昭和18年1月『毎日新聞』と改題。(東京初の日刊紙)
と書いてありました。
Sato
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(Fのコメント)
そのとおりです。修正します。朝日が戦争遂行協力したことは事実
です。
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件名:太平洋戦争の原因について  
太平洋戦争の「原因」は日露戦争の後処理という意見がありますが
、私は「一因」ではあっても「原因」とは違うと思います。理由は
太平洋戦争の「決定的な要因」にならないからです。
私の考えでは「日英同盟解消」が原因だと思います。まあその日英
同盟解消もアメリカの画策が働いていますが、日英同盟さえ堅持し
ていたら太平洋戦争にはならなかった。日本が苦しんだ「世界の
ブロック経済化」の時点でも大英帝国と手を結んでいたら石油や鉄
鉱石など資源が手に入ったはず。
海軍力でも日本+イギリスならアメリカの戦力を上回った。(ロン
ドン軍縮会議後)問題はなぜ日英同盟が解消されたか?それは日本
側が同盟国の義務を怠ったからです。「第一次世界大戦」でイギリ
スが西部戦線が苦戦した時に日本陸軍の派遣を要請しました。
しかし陸軍首脳部は愚かにも要請を蹴った。理由は陸軍の先生の
ドイツには勝てないと思ったからか現地でのお米の調達を心配した
のか欧州での戦争を人ごとだと思ったのか定かではありませんが
とにかく断った。(海軍は地中海に艦隊を派遣しましたが)
仮に「コサック騎兵を撃破した」実績を持つ優秀な日本陸軍がイギ
リス陸軍と連携しててドイツ陸軍と対戦していたらイギリスは同盟
を解消しなかったでしょう。墓穴を掘った「日独伊三国同盟」や「
日ソ不可侵条約」も不要だったはず。
「20世紀は第一次世界大戦から始まる。」と言われますが日本も
欧州で戦闘を経験してたらその後の国家戦略ももっとピントが合っ
ていたはずです。ヴェルサイユでの講和会議でも立場が違っていた
でしょう。
ただ戦争は相手があって成立するものですからアメリカ側からした
ら日露戦争で「貸し」を作ったはずの日本が中国で権益を一人で
拡大するのは確かに面白くなかった。
「ロシアを止める手段」の日本が勝手に大きくなり過ぎたらアメリ
カにプラスにならないですからね。
そこからアメリカの仮想敵国になったのは理解できます。
しかし繰り返しますが日英同盟が堅持してたらアメリカは日本に手
が出せなかったと思います。イギリスを仲介としてもっと上手く立
ち回る事すなわち日米開戦可避が可能だと思っています。
若輩者ゆえ粗忽な意見ですが間違いがありましたら指摘して下さい。

教訓としては「元帥」や「元老」など過去に実績のある人を神棚に
祭り上げたらもうダメです。(マキャベリが正確に分析しています
。)小村寿太郎や松岡洋右などの「野心家」にも権限を与えたらダメ
です。(ついでながら現職の野心家外相は問題外の超低レベルです
が。)
「戦争に負けてよかった。」という事をいう人がいますが私はそう
いう人を全く信用しません。理由はいわずもがなですね。

MONTANA
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いつも愛読し大いに勉強させていただいている者ですが、
今回配信分の「国際戦略コラムNO.638-1を読んでの感想」の中の
「昭和16年12月8日開戦となった太平洋戦争では日本は・・・・」
から「・・・・気概の面ではどの国よりも優っていたと私は思う。」
までの文章は一字一句違わず下記文章と同じです。

窪田やよいと言う人がお父さんの窪田孝之助氏からの聞き語りとして
纏められた「インパール作戦 〜父が語る戦争体験記〜 1999.
1.23」の最初の部分「インパール作戦概要(私的見解)」

「インパール作戦」で検索すれば上記ページ見つかると思います。
安岡
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(Tより)
山岡さん、引用する場合は、引用先の記述を御願いします。


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