639−1.日本政治の構造改革



                   議員立法ができない理由
日本の議員が法律や条例の立法を自分でやれない原因の最大のもの
は、法律間の整合性の調整に必要な能力が議員の個人能力を越えて
いるところにあります。なぜ、議員の個人能力を越えるかというと
、1つの条文の改正や新規制定にしても、既存の膨大な法
律、規則などの中から、その改正や新規制定に関連するものを抽出
したり、抽出したものをどのように変更するかを考えたり、関係者
との協議をしなければならないからです。しかし、どうして、1つ
の条文の改正や新規制定において、膨大な既存法との整合性をはか
る作業が強いられるかという原因に、日本における官僚のパワーの
根源が巧妙に隠されているのがわかってきます。

1. まず、法改正や新規立法における法律間の調整方式を規定す
る法律や憲法の条文はありません。学説と慣習があるだけです。
大陸法系とか英米法系とかいうものです。

2. 次に法律間の調整をするためには、個別の条文の解釈が問題
となりますが、法律の条文解釈を誰が最も大量に行なっているのか
、それはどうしてそうなのかという問題があります。
法律の条文は通常は、「Aという条件が成立するならば、Bという
行為をせよ」をいう形式をしています。条件Aが成立する広がりの
範囲は、条文解釈によって決まってきます。
また、Bという行為の内容の広がりも条文解釈によって決まってき
ます。現実の世の中の事象の集合の中に、条件Aが成立する事象の
集合CA、行為Bの影響を受ける事象の集合CBがあります。他の
法律の他の条文や、同じ法律のほかの条文にもそれぞれ、CAやC
Bに相当する事象の集合があります。このような事象の集合に相互
に重なりがあるわけです。CAやCBに相当する事象の重なりをも
った条文間には直接の影響関係があり、それらの条文の改正や新規
制定には調整を必要とするわけです。
したがって、法律の条文解釈を、誰がどのような原理に従って行な
うかということは、法律間の調整方式に非常に大きな影響を持ち、
議員が立法しやすいか、しにくいかに大きな影響を持つことがわか
ります。ここまで分析すると、真の問題の原因が見えてきたと思い
ます。

私の考える真の問題点は、次のとおりです。

「新規の条文制定や条文改正などでは、憲法との間の整合性さえと
れておれば良く、他の法律との不整合に基づく訴訟あった場合には
、裁判所が整合をとるために、法律の条文解釈をする。」という原
理を法律または憲法に規定していないことが、真の問題点です。

すなわち、日本では法律間の調整と法律解釈に関する法が存在せず
、慣習と学説にこの部分がまかされており、ここに官僚がつけこん
で、自己の権益拡大をはかっているのです。
久野
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(Fのコメント)
ありがとうございます。その通りですね。法の解釈を米国は裁判所
で行っていますね。法体系の構造も変革する必要がありますね。
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Re:no.635-2日本をあなたのものにするために     ぶーちゃん
>「日本という国をあなたのものにするために」ウォルフレン著を読
>んだ感想とその発展系を考えよう。   Fより 

より始まる評論の議論の妥当性を問う。

この中では以下の2点が強調されていると思います。 
1点目は、日本は未完成の国で、国民がそのことに気づいていない。 
2点目は、日本は官僚主体の国家である。 
(私の読解力に偏りがあるかもしれませんが。) 

私には、これら2点の主張が何を根拠に議論しているのか分かりま
せん。
○先ず、1点目です。 
完成された国とは、どんな国でしょうか? 
民主国家が完成された国のイメージの助けになるでしょうか? 
市場経済主義や基本的人権を尊重する国がすばらしいのでしょうか?

国家には、未完成もなく、そして完成もありません。 
つまり、「優れている」とか「劣っている」ということもありませ
ん。 

たとえば、 
過去の国家体制が現在より劣っているとか、現在の国家体制が過去
より進歩しているという概念は「虚」です。 

国家の体制に、優劣や完熟度等による「見方」は、不当だと思いま
す。つまり、一方的見方による、国家分析評価だと思われます。 

国家という概念自体、国や時代によって異なるし、人によっては国
家という概念自体、欠落している人もいるのではないでしょうか。

○次に、官僚についてです。 
お忘れなのでしょうか、官僚は試験さえ通れば誰でもなれます。 
(年齢制限はあるが。試験は特に難しいということはない。) 

つまり、全ての国民に、官僚になる機会があり、また、官僚自体国
民です。日本の悪いところを、官僚に押し付けようというのでしょ
うか? 戦前の戦争責任を軍部に押し付けたように。 

確かに、官僚には1度はじめたものを止める力はありません。 
つまり、間違っていると分かっても、やり続ける。なぜならば、彼
ら・彼女らは、それらの執行者なのですから。 
それを止めるたり考えたりするのが、選挙であったり選出された議
員なのではないでしょうか? 

また官僚には、プロジェクトの走りはじめに「良かれ」と思われる
ことを、時代が変わっても「まだ良かれ」と勘違いする傾向はある
と思います。 
世間知らずということです。 

そう考えると、官僚の採用制度自体を、「まだ良かれ」と勘違いし
ているのかも知れません。恐らく、何十年前から、基本的な採用シ
ステムは変わってないと思います。 
(30代後半の採用は基本的に無い!) 

この転職・能力主義の時代に、新たに入省する人は20代、また、
仕事の出来ない50代(名誉ある窓際)の多いこと。 
(なぜ、首に出来ない。) 

しかも、年齢が上がるほど「やる気」がない人の割合は増え、呆れ
る程の「保身」主義、自分の補職期間中に、そのポジションで問題
が起こらなければそれでよし、という考え。しかも、情報の枠から
外れると「イジケ」る。 

今の、議論から理解できるように、官僚自身で、走り始めたプロジ
ェクトを阻止するのは、不可能であると推察できるのではないでし
ょうか。 

第一、官僚になる大部分の人が、日本の学校・大学システムの中で
、優等生クラスの人々です。 
つまり、先生の言うことは良く聞き誉められ、といった、「良い子
ちゃん」集団です。 

余談ですが、私の知っている限りでは、新人官僚の大部分は自身満
々で入ってきます。(自分は優秀だ、という思い込み。) 

1,2年すると、変わってきます。 
(自身を失う。人生最初の劣等生気分を味わう人もいる。) 

さらに、3,4年すると大きく2種類に分かれます。 
劣等生気分を払拭し成長する人と、「これでもいいや」と思う人の
2種類です。 

しかしながら、公務員の世界の評価では、どちらも同様に扱われ、
同様に昇進していくことでしょう。現に、私は、5年目の国家公務
員ですが、今のところ、同期入省者は、同様に扱われています。 
先輩入省者を見ても、皆同様に扱われているように見えます。 

ただ「失敗をしないでいる」という条件がつきます。何かで成功す
る必要はありません。後は、「たまたま」という運次第の面が大き
いように思われます。つまり、失敗しないように保身に走っていれ
ば、よほど運が悪くなければ偉くなる、ということではないでしょ
うか? 

皆さん、悪い人ではないのですが。
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(Fのコメント)
日本を民主主義として定着していない。と言っていると思う。
民主主義をする最低限の条件が、国民が市民化しないと、現代日本
のように、悪くなる。どの主義がいいとはの問題ではない。

日本が悪いとすると、どのように悪いかを検証する必要があり、
その大きな原因が官僚と政治家にあると結論付けられるし、そのよ
うにした原因は国民サイドも問題ということでしょう。

結局、変革期は官僚に任せることができないということですよね。
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市民意識の無い無責任国民。  
本日の論説は私も予てから警告してきた理論です。矢張り民度が低
いのでは無いかと諦め始めていました。この傾向は三百年の昔から
引き継がれて今日に至っており、明治維新で官僚が制度を確立して
大衆を愚民化したという見方は極端でしょうか?
 渡辺。


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