630.時間の哲学について



得丸
昼の間はまだまだ暑いが、夜になるといくぶんしのぎやすくなって
きた。立秋もすぎ、お盆を迎えた。大人になってから時間のたつの
が本当に早くなった。気づかないうちに高校野球も終盤戦だったり
する。

ー1ー 時間の哲学を踏まえた行動論
鷹揚の会の今年の合宿は、8月25-26日に飯能の竹寺で行うが、道元
、明恵上人、「深い河」を取り上げる。私は道元を担当するので、
先月以来、寺田透著「道元和尚広録」(上下)や、鎌田茂雄著「正
法眼蔵随聞記講話」などを読みかじっている。おかげで少しずつ
道元の言っていることがわかるようになった気分である。

たとえば、何かをしなければならないとき(道元の場合には具体的に
は仏道修行にとりかかるとき)に、「まず○○を片付けてから、それ
からとりかかります」などと言う人がいるが、道元はそれは駄目だ
と言う。思い立ったら何はさておいても、まず仏道修行にとりかか
れという。寸陰を惜しめ、光陰を空しくするな、という。

これなど、私たちの日常生活でもあてはまるのではないだろうか。
何かをしなければならないことがわかっているのに、他のことを
優先させてなかなか取りかからない人はいるものである。

食事も衣服も粗末でいい、お金はないほうがいい、名誉も名聞も地
位も何もいらない。だが、時間だけは大切にしなさいと道元はいう。

基本的には前回の論語の会でとりあげた、「逝くものは斯の如きか
、昼夜をおかず」と同じことを言っている。時間は止まらない、
後戻りしない、一瞬一瞬がちがう。だから大切にせよ。

時間の哲学を論じた「論語」にくらべると、道元の場合は、自己の
すべてを棄てて、すぐさま修行に飛び込めという主体の側の行動に
より重きが置かれているといえようか。時間の哲学を踏まえた行動
論といえよう。

ー2ー 立山止観の会の報告と次回の案内
8月9日の立山止観の会では、226「苗にして秀いでざるものあるかな
。秀いでて実らざるものあるかな」、227「四十五十にして聞こゆる
なきは、斯れまた畏るるに足らざるなり」から読みはじめた。

才能があっても、勉学や修行を続けなければ、大成しない。とくに
而立(30才)から不惑(40才)までの10年間にどれだけがむしゃらに努
力するかで人間の価値は決まってしまう。このように私たちは理解
した。

戦後民主主義のように、自分の中になにもつくりだすことをせず、
あれは駄目、これも駄目と否定することばかりだと、結局からっぽ
の自分しか残らなくなる。少なくとも私の場合はそうだった。注意
が必要だ。できるだけ多くの日本人が、できるだけ早急に戦後民主
主義の不毛さや非生産性に気づいて、あらたに自分をつくりだす努
力を始めることが必要ではないだろうか。

また、230「匹夫も志を奪うべからざるなり」では、志の大切さをあ
らためて認識した。戦後の日本では、志とか、魂とか誇りといった
言葉が実に軽んじられてきたと思う。人に迷惑かけなければ何をし
てもいい、といった自堕落で存在感のない生き方をしている人のい
かに多いことか。

パチンコやテレビゲームに時間を費やしている人たちは、時間とい
うとてつもなく大切なものを浪費していることに気づかない。彼ら
は時間を無駄にしているのに、まったく罪悪感がない。人に迷惑か
けなければ、役立たずな人生を送っても平気なのだ。

自分の存在に誇りをもち、自分の存在の意義を確かなものにする必
要がある。いやしくもこの世に一日生きたら、一日分の食事をし、
一日分の生活費がかかるのだから、それに見合った勉学なり仕事を
しなければ、無駄飯食いといわれても仕方ない。一日この世界に存
在することを正当化できるだけのことをしないと恥ずかしいという
心意気が必要だ。そのためにも、まず自分の中で志をもつことが大
切である。これこそが人間の尊厳といえるものかもしれない。

    次回の立山止観の会は、 8月30日(木) 午後7時から 富山市
/そば処大庵2階集会室にて
    論語 231 「敝れたるおんぽうを衣(き)、、、」からです。
得丸久文(2001.08.13)


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