613−2.靖国参拝って問題か



いつも含蓄のあるコメンタリー興味深く拝読しております。

さて、「靖国参拝って問題か?」(ふる@鶴川)は、7月29日付
読売新聞朝刊「地球を読む」の岡崎久彦論文の完全なパクリです。
自分の意見のように語られていますが、本来なら岡崎論文の全文を
引用すべきでしょう。貴MMの品位に関わると思い一筆認めました。

今後ともオリジナリティを発揮してがんばってください。

長島拝
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(Fのコメント)
その通りですね。ふるさんの投稿文を削除します。
そして、岡崎先生の文をその代わりに、採用します。
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岡崎久彦
2001年7月29日7月29日(日)読売新聞朝刊
「地球を読む/靖国参拝問題」

小泉総理は終戦記念日に靖国参拝を行うと言っている。小泉氏の性
格からいって、やると言えばやるのであろう。そしてその理由は単
純明快に、戦没者に哀悼の意を表するという事である。結論から言
えば私はそれで良いと思う。それ以外の公式、非公式の問題などは
論ずる必要もない。

ただ、総理の靖国参拝の問題は、一九八〇年代以来内外で激しい論
争の対象となって来ているのでこのあたりで問題の経緯をふり返っ
て、もう一度整理して置く事は有益であろう。

敗戦の年昭和二十年の十月、幣原首相は靖国に参拝して大戦の戦没
者の霊を弔ったが、その後GHQの指示で、戦没者の慰霊祭への公
的関与は一切禁止された。講和条約が署名されると、吉田首相は、
その批准を待たず、まだ占領中であったが、「戦没者の慰霊祭等へ
の公人の参拝差し支えなし」という占領軍の許可を得て公式参拝を
行った。吉田も遺族達も感無量であったと報じられている。

その吉田は四回、岸は二回、池田は五回、佐藤は十一回、田中は五
回、首相として、公的形式で参拝している。

公式参拝と私的参拝の区別が論じられるようになったのは三木首相
の時からである。三木は歴代総理の中でも例外的なポピュリスト・
パシフィストであり、防衛費の一%枠とか、防衛計画の大綱とか、
その軌道再修正にその後数内閣を要するような、自らの手をしばる
制限を自ら課しているが、その時も私人として参拝したと説明した。
これも、そう言わねばならない客観的情勢は何もなく、自分から言
い出した事である。何か理由があるとすれば、当時稲葉法相が自主
憲法制定国民会議に出席した事を「個人の立場で」と釈明したこと
がその背景にあったと推察されている。福田総理もその前例にした
がい、その後は私的参拝となった。

次に問題となる戦犯合祀の問題の経緯は、まず講和条約発効と同時
に、まだ服役中の同胞の釈放運動が起り、講和条約の規定の下に
関係諸国の同意を得て昭和三十三年までに全員が釈放された。これ
と平行して戦争裁判の刑死、獄死者の遺族年金、恩給支給の運動も
起った。通常懲役三年以上の刑に処せられた者の恩給は停止される
が、戦争裁判の刑死者等は日本国内法の犯罪者ではなく戦争の犠牲
者と考えるという事であり、当時の左右社会党を含む国会の全会一
致で決定された。その頃の日本人の心の中には迷いはなかったと言
える。

靖国神社への合祀予定者の選考基準は引揚援護局が決定したが、
その際、遺族援護法や恩給法のこの原簿が参考とされた。そして
三四年から戦争裁判受刑者が逐次合祀され、五十三年にA級十四名が
合祀されて完了した。

この当時は、中国等から何の抗議もなく、五四年の大平、五五、
六年の鈴木参拝も何の問題も生じなかった。五七年となると、最近
二十年間の「自虐史観」問題の端緒となる教科書問題が起り、中国
の対日批判が激しくなるが、「A級戦犯合祀」の批判とくにはなく
、中曽根総理となって五八、五九年の参拝も問題なく行われた。

現在の靖国問題が始まったのは、昭和六〇年からである。中曽根総
理は、かねてから「戦後の総決算」を標榜していたが、五九年に
靖国懇話会を設け、その報告書に基いて六〇年八月十五日には公式
参拝を行った。

これに対し、八月七日の朝日新聞は、靖国問題を「中国が厳しい視
線で凝視している」と書き、十一日の人民日報は、靖国参拝に批判
的な日本国内の動きを報道し、はじめは互いに相手国を引用する形
で、反対運動を開始し、そして遂に十四日には、中国外務省スポー
クスマンが、「アジア各国人民の感情を傷ける」と、はじめて公式
に反対の意思表示をした。そして、二七日から三〇日までの社会党
訪中において、社会党と中国は公式参拝批判の気勢を大いに上げ、
反対運動は燃え上がり、中曽根総理は、その後退任まで参拝できな
くなってしまった。そしてこの時以来、この干渉の成功に味をしめ
た中国は、靖国問題干渉を中国外交政策の一部として維持し、また
、それは一九九五年頃の中国の愛国運動などにより中国の「国民感
情」となり、日本国内左翼と相呼応しつつ今日に至っている。

この経緯から見てわかる事は、靖国問題は法的問題というよりすぐ
れて政治的問題である。八二年の教科書問題以降の新しい形の反体
制運動の雰囲気の中で、中曽根総理の「戦後総決算」という姿勢に
反体制勢力が反撥したのが発端である。そして、その後の運動は、
例外なく、日本国内の反体制勢力が意図的に外国の干渉を惹き出し
、内外呼応して政府批判を行う形をとっている。

現在反体制側の立場は、「公式」参拝反対に集約されているようで
ある。それはA級戦犯合祀後六年間も反対しなかったのは、非公式
参拝の時期だったからだという言い訳から来たものである。

しかし、公式非公式というのはそもそも三木総理の思いつきであり
、今や、常識的にも法的にも解決されている問題である。

要は憲法二〇条の信教の自由に反するかどうかの問題であるが、
昭和五二年の最高裁の判決は、津市が体育館の起工式に神式の地鎮
祭を行った問題について、そんなものは社会的慣習であって多少の
公的費用も神道への財政的援助とは言えないと、合憲としている。

それが常識であろう。墨田区の戦災慰霊祭は仏式で盛大に行われて
いる。憲法の原案を作った当のアメリカの大統領は、就任の宣誓を
キリスト教の聖書の上に手を置いて行っている。中曽根総理は、
公式参拝に際して、神式の二拍二礼でなく一礼とし、玉串料でなく
供花料としたが、それは反対派融和の一つのジェスチュアであって
、憲法解釈上必要なものではない。公式参拝違憲論が崩れれば、
戦犯合祀問題は、それまで中国も誰も問題にしなかったものが国内
反体制勢力の工作で生まれて来た構造が明らかになって来る。

私は、アメリカ人、中国人を問わず、戦争責任、謝罪問題を言う人
には問い返している。「今から二〇年前一九八〇年という年に、貴
方がた誰か一人でもこの問題を取り上げた人が居れば証拠を見せて
下さい。」誰も居るはずはない。戦争後一世代を経たその時点では
、戦争の過去はすでに政治家外交官の手を離れて歴史家の手に移っ
ていたのである。それを意図的に掘り起したのは、一九八二年以降
の日本の左翼反体制運動であり、この運動は国民の反撥ですでに
衰退期に入っている。何時までも、これに踊らされていると、貴方
がたは二階に上がって梯子をはずされますよ、と。

この問題には歴史的必然性はない。法的な根拠もない。八〇年代以
降の屈折した日本政治の中で反体制側により人工的に作られた政治
問題であり、小泉総理が政治的に決断すれば解決される問題である。
公式、非公式の差など枝葉末節に過ぎない。


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