608−1.おじいちゃんが孫娘に語りかける日本の歴史



                                                 得丸
皆様、暑いですがお元気ですか。僕は久々に富山で週末を過ごし
ました。朝から昼過ぎまでずっと机について仕事をし(昼御飯は
松陰にぎり=わかめふりかけでまぶした御飯のおにぎりだけ)、
それから夕御飯の買い物に出かけました。タイカレーセットのパ
ックを使って、野菜をたっぷりいれたタイ風緑カレー。

ー1ー おじいちゃんが孫娘に語りかける日本の歴史

夕御飯のあと、近くの本屋を覗いたら、中條高徳著「おじいちゃ
ん 日本のことを教えて」(致知出版、2001年、1400円)を見
つけ購入。早速読み終わったところです。単身赴任の自由さです
ね。

すでに前作「おじいちゃん、戦争のことを教えて」で有名になっ
ている著者であり、最新作をすでに読まれた方もおられるかもし
れませんが、なかなかいい本だと思いましたので、あえてご紹介
します。

この本にはいくつかのとても大切なメッセージが、たいへんわか
りやすい言葉(昭和2年生まれのおじいちゃんが、20代前半の孫
娘に語りかける言葉)で書かれています。大人にも、子供にもお
勧めできます。

たとえば、教育勅語はどうして作られ、そこにはどんなことが書
かれていたのか、なぜ日本は日清戦争を戦い朝鮮を併合しなけれ
ばならなかったのか、といったことです。

愛のこもった優しい語り口であるだけでなく、おそらく著者がこ
の本をかくために一生懸命に勉強したために実に事実関係がはっ
きりと書かれていて、ごまかしや不明朗なところがないのがいい。

先入観を持たずに、まず一読されることをお勧めします。

ー2ー 立山止観の会のお知らせ

立山止観の会、7月26日は、子罕・第九の214「子見斉衰者」か
ら225「子謂願淵曰」までを読みました。

次回は8月9日(木)、226「苗にして秀でざるものあるかな、秀
でて実らざるものあるかな」からです。場所はいつもの大庵で7時
からです。

今回の特に議論したところをご紹介します。
(現代語訳は論語のホームページからお借りしました)

216
先生の病気が重かったので、子路は門人達を家来にしたてて、
最後を立派に飾ろうとした。

病気が少しよくなったときに言われた、「長いことだね、由の出
鱈目をしていることは。家来もいないのに家来がいるような真似
をして、私は誰を騙すのだ。天を騙すのかね。それに私は、家来
などの手で死ぬよりも、むしろお前達の手で死にたいものだ。そ
れに私は、立派な葬式はしてもらえなくとも、まさかこの私が道
端で野垂れ死にするものか。」

(余談+その後のコメント)
 孔子はいつも子路には厳しい言い方をするが、それは子路がそ
のように厳しく言われても平気だったからだろう。でも、孔子が
虚飾を嫌ったのは、本心だったのだろう。

 さて、近藤先生にお伺いしたことだが、中国では遺体は木製の
棺に納めて土葬するそうだ。その際、遺体が痛まないように、で
きるだけ厚い板の棺が好まれたため、中国の山から木がなくなっ
て禿山ばかりになったのだという。中国では植林が行われなかっ
たらしい。

 戦後の日本は、東南アジアからパルプなどの材木を購入する時
に、植林を行わなかったために、環境破壊を引き起こしたが、戦
前の日本人だったらそんな出鱈目をしただろうか。

 日本人は、戦前の朝鮮で積極的に植林を行った。朝鮮も禿山だ
らけだったそうだ。日本人は植林を行う珍しい民族である。

 考えてみると、植林という事業は、自分の孫の世代のために行
うもので、直接自分が利益をこうむるものではない。それをどう
して一生懸命になって山林の手入れができるかというと、自分自
身も自分のおじいさんの世代から受け継いでいるからであり、ま
た社会が安定しているので、二世代先の子孫がその土地で暮らし
ていることを予測できたからであろう。

 戦争や外部からの侵略の恐れのない平和な社会でしか行いえな
い事業である。日本という社会風土のユニークさが生んだ文化で
ある。

217
子貢が言った、「ここに美しい玉があるとします。箱に入れてしま
い込んでおきましょうか、よい買い手を探して売りましょうか。」
先生は言われた、「売ろうよ、売ろうよ。私は買い手を待っている
のだ。」

(議論、余談)
 孔子のこの言葉はいつのものだろう。孔子に限らず、孟子や朱子
も晩年は「よい買い手」に巡り合えず政治家・行政家としては不遇
であった。王は自分の器をあまりに超えた部下をうまく使うことが
できないために、優秀な人間を避けるのであろう。

 だが、そのおかげで、孔子や孟子や朱子は現在にまで伝わる貴重
な文献を残すことができたのであり、我々にとっては彼らの不遇が
幸いしているといえよう。

 およそ商売の秘訣は、買い手の求めているものを提供することに
ある。自分の我を通すのではなく、相手の心を読み取って、相手の
立場にたって、相手を満足させることだけを考えればいい。実はそ
れがわかるまでが大変なのだが。死ぬまでわからないままの人もい
る。

 自分のもっている能力を死蔵するのではなく、いかにして多くの
人の役に立てようとするかを謙虚に考えるべきだ。


221
先生が川のほとりで言われた、「過ぎ行くものはこの[流れの]
ようであろうか。昼も夜も休まない。」

(コメント)
 これは論語の中でもっとも好きな章句のひとつ。道元の教えや般
若心経の「色即是空、空即是色」とも相通ずる時間の哲学である。

(道元は、名誉も地位もお経も法要もみんな不要であるが、時間だ
けは大切であるので、一瞬たりともおろそかにするなと説いた。ま
た色即是空の「空」は得丸流には「時間の最小変化量 デルタT」
と理解する)

 すなわち、

・時間は決して止まらない、
・時間は決して後戻りしない、
・状況は一瞬一瞬変わっている。
ということだ。

 状況は同じように見えても、実は常に違っている。人生はすべて
一回勝負。待ったなし、やり直しなし、リセットなし。大事なタイ
ミングを逃さないように、常に真剣勝負の覚悟で、行動に移れるよ
う心と体の準備をしておかなければならない。

(裏技があったり、タイミングが大切なことは、テレビゲームと似
ているが、リセットがないことは決定的に違う)

223
先生が言われた、「例えば山を作るようなもの、もう一もっことい
うところを遣り遂げないのは、止めた自分が悪いのである。ちょう
ど土地を均すようなものだ、一もっこをあけるだけでも、その進行
した部分は自分が歩いたのである」

(コメント)
 この現代語訳は、続けるも止めるも自分次第だ、というところを
強調している。志を立てて、強い意思をもって、ひたすらやれとい
うことなのだろう。

 何ごともやるかやらないかの1か0だ。常に自分の心をすっきりと
整理しておいて、迷わず0か1かを決定して間違いのない行動をとら
なくてはならない。うだうだするのはよくない。

 宮崎訳では、学問は最後までやり遂げなければ意味がないが、同
時に、学問は一歩進めば一歩だけの進歩があったといえる、という。
これは一見矛盾しているようだが、結局「朝に道を聞かば夕に死す
とも可なり」のように、無心で死ぬ迄学問を続けなさいということ
だろう。極めなければ意味がないが、途中で倒れてもそれはそれで
意味があるのだから心配するなということだろうか。
 
以上(2001.07.28 得丸久文) 


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