606−2.日本の近世について



「続・日本の歴史をよみなおす」網野善彦著の読んだが、日本の
近世を考え直すことになりそうです。その紹介。  Fより

江戸時代は、80%から90%は農民であると言うのがこれまでの
常識でしたが、百姓を農民と理解して、そのような議論になってい
る。しかし、本当に百姓は農民なのでしょうか??

奥能登の時国家を調査して、分かったのは、200人の下人を従え
ている大農家という調査前の学説で、下人は奴隷か農奴であろうと
思われていた。しかし、時国家は大きな船を持って、松前から佐渡
、琵琶湖を越えて大津、京、大坂とも取引きをやっていたのです。
そして、船は一艘ではなく、3艘以上持っていたことが分かるので
す。それと、銅山の開発、金融業も営んでいたのです。

時国家はまた、300石相当の田畑を持っていましたが、農奴を駆
使した大農家経営者ではなく、廻船問屋を営む企業家であり、その
片手間に農家もやっていたのが実体である。百姓は兼業農家も含ん
であるのです。

また、芝草屋のような廻船商人では田畑を持っていないので、江戸
の文書では水呑百姓となっているが、実体は大船を2隻以上持つ
大金持ちである。このように、今までの江戸時代の農家が80%で
農業中心の国家体系であったという今までの常識は間違いであるこ
とが分かるのです。

このような豊かな水呑百姓はどこに住んでいたかというと、河合村
ですが、その総戸数は620軒、おそらく数千人の大きな町・都市
ですが、その70%が水呑百姓なのです。のこりの25%の百姓も
4.5石相当の土地しかない零細な農家なはずですが、ここの産業
は漆器職人、素麺職人、北前船の廻船問屋ですから、大きく発展し
ていたのです。このような都市でも村としているのです。

このように、江戸時代は商品経済が発達した時代です。この商品に
関わる人たちも多いはず。しかし、その町人の割合は10%だと今
までは言われていたのです。おそらく、江戸・京・大坂の人口なの
でしょうね。その他の大きな町は村としていたので、町人にならず
に水呑百姓として登録されていた可能性があるのです。
そして、武士・その他が10%であるが、その割合では江戸社会の
実体とかけ離れていると思われるのです。

このように実体とかけ離れたのは、日本が律令国家として、水田を
国の制度の基礎に置き、土地に対する課税によって国家を支えると
いう制度を決めたことにあると思われるのです。そして、幕府も必
然的に農本主義を取り、水田を基盤とした租税制度になったのです。
その延長線上で、塩・鉱山・商業利益までも、米に換算して年貢と
して取り立てたのです。国家の強い意思をそこに読み取ることがで
きるが、歴史の研究としては、多くの国家の公式文書が残されるた
めに、時代の実体とは相違してしまうことになっていったのです。

この時代を本当に知るためには、量は多くないが一度は破棄された
文書がたまたま発見される。襖、屏風などの下に張られた文書であ
るが、この文書を見て解析するしかないようだ。そして、やっと
時国家が北前船の廻船問屋であることが分かったのです。この船で
サハリンまで行ったことも記しているのです。

日本は孤立した島国と、教育されたが、本当であろうか??
北前船の大きな活躍、南前船の隆盛と、十三湖などの東北地方と、
シベリアなどの交易を見ていると、江戸も江戸以前も日本が海を通
じて世界と交易している姿が見出されるのです。それも、縄文時代
から海を交通路としていた姿が確認されるのです。

日本は古い時代から海の交易が盛んであり、荘園は飛び地として、
港を所有していたことも分かっている。この交易が発達すると、
それに伴って、金融ネットワークも発達するのです。そして、交易
や商売上のトラブルを解決する国家の調停機関が発展するはずです
が、日本は武士階級のトラブルを解決する機関はあったが、この
商業上のトラブルを解決する機関がないのです。もしくは、国家が
真剣ではなかったのです。

このため、悪党というトラブル解決の民間の機関が必然的にできた
のでした。これは、日本のやくざの始まりで、江戸時代まで続くこ
とになり、戦後のどさくさも、警察力が弱った時のその補完をした
のですが、現在は国家機能が充実したため、その役割を終えたので
しょうね。このため、悪党よかバサラというのは、言葉の感じとは
違う感覚を持っているのが日本人だと思います。


コラム目次に戻る
トップページに戻る