557.東京一局集中について



地方交付税カットという小泉内閣の”変革”に対して九州などの財
政的に苦しい自治体から、地方を切り捨て東京一極集中をさらに加
速させるものという反発が出ているようです。それにしても、今の
日本の限界は、東京中心主義の限界でもあるのではないでしょうか。

日本の個性という言葉を安易に使いたくはないのですが、蝦夷地か
ら琉球にいたる地域の驚くべき多様性は、まぎれもない日本の個性
です。そして江戸時代には、どの地域にも高いレベルの文化があり
地域の知識人がいました。 
 この豊橋に近い渥美半島には、渡辺華山を生んだ田原という町が
ありますが、今ではただの田舎町の田原も、江戸時代には文化的水
準は江戸と大差なかったようです。 
 この地域の多様性と自律性の復活なしには、日本が変わるとは思
えません。そしてアメリカ一辺倒の戦後の国策が東京一極集中をも
たらしたことをこの国の世論はもっと明確に認識すべきだと思いま
す。 関 曠野 
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関です。戦後の東京一極集中と日米関係につぃて舌足らずな物の言
い方をしましたので、補足説明をさせて下さい。
 戦後に日本は植民地主義から貿易立国に転換したわけですが、
それはサンフランシスコ講和、日米安保、冷戦という条件のもとで
の転換でした。そしてアメリカから技術をまなび、それを改良して
安価で優秀な商品をアメリカ市場に送りだすやり方が、日本に予期
せぬ繁栄をもたらしました。
 貿易が対米輸出ドライヴに一元化されるなら、工場を広い関東平
野に情報を東京に集中させる方が効率的なわけです。だがその反面
、古くからアジア貿易に実績のあった関西経済は大きく地盤沈下し
、福井県は原発だらけになってしまいました。
 冷戦終結後、北海道や北陸、山陰の各県は環日本海経済圏の出現
に期待をかけましたが、ロシアの混乱もあって、古着と中古車の取
り引きが実現しただけです。
 しかし困難ではあっても日本はアジアやユーラシアをふくめた
全方位貿易をめざすべきだと思うのです。それは日本をとくに豊か
にはしないかもしれませんが、人口の分布と国土開発、さらには社
会や文化におけるひずみの是正につながると思います。
関 曠野
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        もう交付税はいらない       得丸久文
 関さん、 
ぼくは今富山県庁職員に混じって仕事しており、またぼく自身が地
方出身(大分市)ですので、この30年の地方経済の動きや地方新聞
の論調を身を持って感じています。 
で、つらつら考えましたが、もう地方交付税はいらないのではない
でしょうか。 

江戸時代に地方に豊かな文化が生まれ育ったのは、おそらく地方交
付税など存在せず、地方ごとに自力で経済活動を活性化し、生存し
なければならなかったからでしょう。 
ところが、少なくともこの30年、つまりぼくが物ごころついた時か
ら目にしている日本の地方経済は、ミニ東京を目指すばかりで、
大手企業の工場進出や東京との新幹線・航空路線の拡充にのみ心を
奪われてきた。 
建築物ひとつ見たって、独自の地方色あふれるものを作ったところ
はほとんどなく、どの地方都市にいっても不釣り合いに絢爛たる
イベントホールばかり。それも何割かが東京からの交付税や補助金
に頼っての○割自治です。もういいかげんにしてほしいと思ってい
ました。 

だから、交付税はいらない。もらう必要がない。あるだけの財源で
、本当に必要なことだけをやっていけばいい。余分な人員は首を切
るか、あるいはワークシェアリングする。デフレをどんどん押し進
めて、まったく違った貨幣価値の地域を生み出せばいい。お金は少
ないかもしれないけど、みんなが力を合わせて町起こしすれば、
きっと心豊かな町になる。 

テレビなんか全部すてちゃえ。心を耕し、心を通わせる。心を暖め
るためには、お金はいらない。無駄な公共事業はすべてなくせばい
い。必要な公共事業は、人々のボランティアでやればいい。心の平
和のえられる空間。それを実現すればいい。交付税なんか最初から
なかったと思えばいいのだ。何もこわがる必要はない。 
そうして本当の地方の時代が始まることでしょう。 
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各地方が特色をもっていたのは、その土地で特産物を作って競争力
をもとうとする意志が働いていたのではないでしょうか。その意志
は教育にもおよび、各藩に藩校が作られ、人材育成していました。
明治以降はそれが中央に吸い取られて、地方独自の教育は弱体化し
た。戦後はないに等しい。武道のように各地の道場で実践していた
こともやめたのですから。
21世紀になって、地方の教育能力はもうがたがたではないでしょう
か。文部省が学校教育を「ゆとり」(=さぼり)重視にして、こど
もたちは漢字すら満足に書けない、計算もできない。
これは大人が勉強しなくなったから、子供も遊んでばかりになって
しまったのかもしれないけど。
東京 VS 地方という対立軸を超えて、教育する意志が希薄になって
いるような気がします。だからどうすればいいのか、うまくいえま
せんが。
得丸
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 いまの文部省の学習指導要領では円周率を3と教えます。それな
らいっそ円周率など教えない方がいい。根本問題は文部官僚が市場
万能の風潮にのってなんとか生き延びようとしていることにあると
見ています。文部省は70年代からのいじめや校内暴力に打つ手が
ありませんでした。そして今、市場は教育の原理ではありえないと
いう事実に居直ろうとしているのではないか。
 近代国家においては、教育の根本をなすのは民族の理念だと思い
ます。文部省が君が代、日の丸で狂奔するのは民族の存在を信じて
いないからだというのは、決して逆説ではありません。例の神戸の
少年Aが「僕には国籍がない」といっていたことが想起されます。
 そんな中で私が唯一変化の徴候として期待していることがありま
す。それは、従来の教育ママとは異質な形で学校のあり方に関心を
もつ親が増えてきたことです。教育は農業のように土壌が大事。
こうした親たちが、土壌を作ってくれればと思っています。
関 曠野
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(Fのコメント)
地方が自立する必要があると思います。勿論、税金の大部分を交付
税に依存していることの問題は大きいので、自前の税収入ができる
ようにすることが必要でしょうね。それと、自由をある程度許容し
た法律にすることも必要でしょう。国家は基本的なことだけで、地
方がもっと地域の実情に合わせた施策ができるようにすることがい
いと思います。昔の藩のような施策ができればいいのですがね。


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