550.きまじめ読書案内「デモクラシーの論じ方 論争の政治」



得丸です。きまじめ読書案内をお届けします。
杉田敦著「デモクラシーの論じ方 論争の政治」(ちくま新書)

1 なぜデモクラシーを論じる必要があるのか
 政治学や法学の難しさは、実体を持たない概念を振り回す
ところにある。普段の生活では用いられることのない概念だ
から、その概念を見たり聞いたりすることだけだって苦痛な
のに、その概念をめぐって議論を行うというのは、「よほど
難しいことを考えることが好きな変わり者」と言われてもし
かたあるまい。

 では、なぜ現実存在のない政治概念をああでもない、こう
でもないと論ずる必要があるのだろうか。それは、政治概念
は、しばしば軍事行動や現状変革を正当化づけるものとして
取り扱われるからだ。

 言い換えるならば、人々は民主主義や民族自立や共産主義
などという実体を伴わない政治概念を振りかざすことによっ
て、他の国を軍事的に攻撃したり、今自分が所属している国
家から分離独立するための運動を起こしたり、他の国の政府
を転覆して革命を起こさせるよう陰謀を働いたりすることが
「認められている」のである。

 そして、これはとても不思議なことだと思うのだが、それ
らの概念が具体的に何を指し示しているかについての合意は
形成されていないばかりか、合意形成のための努力の片鱗す
らみられないことが多いのだ。

 これはとても危険なことだ。個人のレベルできちんとした
意味づけが行われておらず、集団的社会的にも共通の意味が
確認されていない政治概念が、ときとして戦争や社会変革を
引き起こす。

 これはとても危険なことだが、これまで一般大衆はおそら
く、「自分たちは、難しいコトバはわからないけれど、きっ
と大学の先生たちや、マスコミで働く記者さんたちは、わか
っておられるに違いない。彼らに任せておけば大丈夫なので
はなかろうか」と、無理にでも思ってきた。テレビに出てく
る先生様や政治家たちが、じつに自信満々に政治概念をふり
かざしている様子をみると、彼らに任せてもいいのかなと、
僕ですら思うこともある。

 ところが、実は、学者ですらデモクラシーの明確な定義を
もっていない、ということを杉田敦著「デモクラシーの論じ
方」は教えてくれる。デモクラシーについて、議論し検討を
すればするほど、それは具体的な姿を持たないということが
わかってくる。単なる思い込み以上のなにものでもないとい
う気がしてくる。

 杉田はむしろ、デモクラシーの定義を人任せにしてはいけ
ない。自分自身でデモクラシーというコトバの意味づけを行
い、周囲の人々と討論し対話する意思と行為こそがデモクラ
シーではないかといっている。

 以下簡単に本書の紹介と私の感想を述べてみたい。

2 デモクラシーの論点
 本書は、AとBふたりの政治学者が対話をする形で書かれて
いる。教科書のような断定口調ではなく、Aが社会通念やBの
主張に疑問を呈し、BがAの疑問に答えたり反論するという形
で、議論が推移する。これがデモクラシーであるという解答
を求めている人は、拍子抜けするかもしれない。どこにも結
論めいたものは用意されていない。あらゆることに疑問を持
て、自分の頭で考えろといい続けているのが本書である。

 章立てはすべて、「○○とデモクラシー」となっていて、
制度、安定性、国民、公共性、代表、討論、憲法、重層性と
いう8つのキーワードとデモクラシーの関係性をめぐって議
論がすすめられる。

 あらゆることに疑問を持てというのが著者の主張である。
現行制度に含まれているさまざまな矛盾や盲点が提示されて
いるが、これらは従来の学説やマスコミが取り上げてこなか
ったものだ。

 たとえば、
・制度や形式ではなく議論のプロセスを大切にせよ
・盲目的に英米の二大政党制を追随してよいのか
・大量の移民が存在しているときに国民というステイタスの
有無で社会保障や政治参加の差別を行うことは妥当か
・現行の制度は直接民主制の契機を圧殺して、意図的に代表制
しか認めようとしていないのはなぜか、
・憲法条文のコトバにとらわれるのではなく、それがどう現実
社会に適用されるかを考えるべきではないか、などなど

 読者は、それぞれの問題提起を自分の言葉で、自分自身の生
活や意識上の問題として受け止めることが求められる。そのた
めに著者は、できるだけ難解な用語は使わないように気を配っ
ているように見受けられる。

3 若干のコメント
 一読して、著者が現代デモクラシーをいかに多面的かつ根源
的にとらえているかに感嘆の念をいだいた。本書中の問題提起
に何をか付け加えるべくもないのだが、自分なりに感じたこと
を以下で述べる。

1)日本の憲法体制と対外関係を明らかに
 8の「重層性とデモクラシー」において、すでに世界はひと
つのシステムになりつつあるので、一国の自由裁量がおよぶこ
とは限られてきていることが指摘されている。

 実は日本が、明治憲法を採用したのは、欧米列強に追いつく
ため、関税自主権の回復と治外法権撤廃のための条約改正を有
利にすすめるためではなかったか。

 また、敗戦後の日本国憲法制定にしても、御成敗式目や貞永
式目などからめんめんとつながる日本の法制度や日本人の法意
識をまったく反映しておらず、単に占領軍の機嫌を損なわない
ことだけを意識していたことは否めない。そもそも当時の日本
には、憲法を主体的に選ぶという自由意思は存在しなかった。

 日本の憲法体制が、明治以来国内の内発的要求にもとづいて
いたのではなく、対外的な関係の必要上存在していたことを、
理解しておく必要があるのではないか。

 ただ、内発的な要求がないことをいいことに、明治憲法も日
本国憲法も、ともに神棚に上げてさわらないできた。だから、
憲法と日本の伝統的な法体系や法意識が乖離していても問題に
ならなかったのだ。このことに気づいておかないと、現行の憲
法改正論議のあまりの不毛さが理解できない。

2)命を捨てても守る必要のあるもの、戦後民主主義批判を
 4の「公共性とデモクラシー」において、こんな発言がある。

「人は戦う時に、本当に大事なものは犠牲にしないはずだ」、
「ところが総力戦というのは、国民を守るためにやると言いな
がら、国民がたくさん死ぬことになる。これこそは、根本的な
矛盾ではないか」

 この発言においては、「本当に大切なもの」とは「国民の命」
であると想定されている。これは戦後民主主義的な謬見とはい
えないだろうか。

 人間にとって一番大切なものは、命だろうか。人は、若くして
死のうが、天寿をまっとうしようが、かならず百歳くらいまでに
命を失う。誰でも一度は必ず失うものなのだから、できるだけ意
義のある失い方を志すべきではないだろうか。

 日本では、いまだに心中物が人気を博す。男女関係で心中に意
味があるのは、お互いにたったひとつしかないものを同時に昇華
させるという一回性の美学であろう。好きな相手のために命を失
うことが美であるなら、戦争で命を落とすことだって美たりうる。

 私はなにも祖国のために命を捨てよということを言いたいので
はない。ただ命が一番大切であるというのは、間違っているとい
いたいのだ。命あってのものだねだ、とうそぶくのはやめよう。
人間としての誇りや魂の純潔さを守るためであったら、命なんて
惜しくない、と日ごろから覚悟を決めておくべきではないか。

 最近、近藤啓吾著「靖献遺言講義」(国書刊行会)で紹介されて
いた宋の遺臣文天祥の生き様に触れて、大いに感動した。一番大
切なのは、まっすぐな心を持ち続けることである。自分の心を裏
切ることなく、まっすぐに生き続けることである。そのために命
を捨てることも惜しいとは思わない。

 戦後民主主義のあやしさは、自分の心のあり様に目を向けない
ことである。平和だ、護憲だ、自衛隊反対だと、概念をふりかざ
しているのに、ちっとも心のことを顧みない。心のまっすぐさ、
正直さ、純粋さ、けがれなさ、そういったことは、戦後民主主義
においては、問題にされてこなかった。

 原爆投下50周年のときに、大江健三郎氏は、クリントン大統領
の謝罪を必要ないと講演会で発言したという。このような態度か
ら感じ取れるのは、アメリカの言うことはすべて正しい、アメリ
カの言うとおりにしておれば命は助かるのだから、おとなしくし
て、アメリカの感情を逆なでしないようにしよう、という奴隷根
性でしかない。

 戦後民主主義は、口先はきれいだが、内実は奴隷根性、植民地
根性そのものであったと思う。戦後民主主義の正当な評価抜きに、
日本においてデモクラシーを論じることは難しいのではないだろ
うか。

3) 「デモクラシー」抜きの議論を
 本書では、民主主義というコトバは使われず、デモクラシーと
いうカタカナ表記が一貫して使われている。著者はその理由を明
らかにしてはいないが、なんらかの意味があるのではないか。

 私が感じたのは、明確な定義もないデモクラシーというコトバ
を議論の中心にすえるから、デモクラシーをめぐる議論は拡散し
収拾がつかなくなる。もうデモクラシーというコトバを使うのは
やめにしてもいい。このカタカナ表記をすべて取り去ってみると、
いったいどんな議論が可能だろうか、という著者のチャレンジ精
神である。

 デモクラシーの議論はしばしば不毛である。各人が各人なりの
思い入れがあり、また各人の知見がそれまでの人生上で得てきた
経験に束縛されているから、えてして議論がかみ合わない、空回
りするのだ。

 もうこんな不便な概念を捨て去って、もっと地に足のついた、
現実に根ざした議論をするべきではないか。著者が意識していた
かしていなかったかわからないが、カタカナ表記を選んだ著者の
心のうちにはそのような感情があったのだろうと思う。
(2001.05.28)


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