525−1.未来のにおいがしない「憲法改正」論議



得丸久文
小泉首相が憲法を改正すると発言したそうだ。第九条と自衛隊の関
係を正したいのだろうか。 

 これまでにいくつかの憲法改正派の意見や改正試案を読んだが、
どれも第九条の改正に矮小化している。第一条をいじったりもして
いるが、ほかの条文については、現行憲法と大差ない。 

 現行憲法をちゃんと読んで、その逐条的に吟味して、その時代的
妥当性を判断しているのならよいのだが、そのような努力の跡は見
られない。第九条や第一条以外は、検討もしないまま、そのまま受
け入れ、肯定しているとしたら、せっかくの憲法改正が、きわめて
中途半端な時代錯誤的なものなる。 

 まずは日本国憲法の条文を、全部読んでいただくのがいいと思う
のだが、読んでもどうせわからないだろう、そんなことする気がお
きない、と一般国民は思うだろう。専門家にまかせておけばいいで
はないかと。 

 問題は、憲法改正や擁護を論議している専門家たちが、憲法全文
を読んで、それぞれの条文についてきちんとした議論と現実社会の
仕組みの中での意味づけを、一人一人の国民にとっての意味づけを
行っているように見えないことにある。現実社会や生身の人間と、
日本国憲法の間には、あまりに大きな乖離がある。それを問わない
で、改正が行われてよいものだろうか。 

 法とは何か、憲法が最高法規であるとは何を意味するのか、国民
主権とは具体的にはどのようなことを指すのか、人権が憲法条文に
規定されるとどうなるのか、過疎でにっちもさっちもいかなくなっ
た地方自治体はこれからどのようにして生き残りをはかればよいの
か、考え出すときりがない。 

 そもそも国民国家という制度が21世紀末まで存続するのかどうか
もあやしい。そうなったときには、どのようにして社会を運営して
いくつもりなのだろう。そのための準備は必要ないのか。 

 法、最高法規、国民主権、人権、地方自治、などのそれぞれのコ
トバがいったいこれまでどのような意味をもって、どのように使わ
れてきたのか、21世紀の日本社会でどのような意味をもつべきなの
か、そういったことが根源的に議論されなければならない。 

 昨日日本テレビの深夜のニュース番組で、長野県の田中知事が、
「日本人はこれまで、なんとなくいいかなと、なんとなくこんなも
のかなと、なんとなく受け入れてきたのだが、それが行き詰まった
ところに今の問題がある」といった内容の発言をされておられたが、
日本国憲法にも同じことがいえる。 

「なんとなく日本国憲法」では、もうやっていけないのだ。21世紀
の日本をどのような社会にしたいかということを、存分に議論して、
それを実現するために法的な枠組みを再構築する必要があるならば、
そのために憲法改正を行うべきなのだ。 

「なんとなく第九条改正」という現今の改憲論議は、55年体制時代
の過去のトラウマから解放されていない過去の気持ちの整理のため
だけに行われているように思える。未来のにおいがぜんぜんしない
のだ。 
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未来のにおいがしない「憲法改正」論議     野蛮としての
貴兄の意見にまったく同感です。その上で三つのことを指摘したい
と思います。 

1.憲法問題をめぐる日本の混乱や議論の低調さは、明治以来キリス
ト教をカッコにいれたまま近代化を推進してきたことのツケと見てい
いのではないか。立憲主義というものは思想としては聖書の律法に
遡るものだからです。 
2.現行憲法はマッカーサーの占領政策を法典化した無思想なものに
すぎず、天皇制など戦前の遺制を残しました。その結果古い日本を
美化する教科書問題などで日本がアジアの中での孤立を深めてゆく
ならば、日本をアメリカに対し無力な国にするという占領の目的は
皮肉な形で実現することになります。 
3.最近は「平等」ということが論じられません。そして平等を過っ
て経済的に解釈し、「結果の平等」なるものが批判されたりします。
しかしEQUALITYは近代国家を組織する原理です。これは、公的な事柄
に平等に参加できることを意味します。権力を持っていることがそ
うした参加の根拠や条件となるのですから、平等とは、誰もが権力
を行使し法を作れる社会状況のことでしょう。ともあれ日本人がも
っと平等ということを議論するようになるまでは、まともな憲法改
正は不可能です。この点で私は楽観的材料をどこにも見つけること
ができません。 
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Re:未来のにおいがしない「憲法改正」論議    得丸
ご指摘ありがとうございました。 
1.立憲主義というものは思想としては聖書の律法に遡る、、、。 

(得丸) 
ご指摘の通りだと思います。精神文化や宗教の部分は、もっとも目
に見えにくい。西洋人の意識と日本人の意識(意識構造)の違いを
実感するためには、よほど密着し、冠婚葬祭をともに経験し、微妙
な違和感を言語化しながらお互いの違いを明らかにする作業が必要
です。 
そのような作業を怠って、「形だけ」西洋の法律や社会の制度を輸
入して、一日も早く条約改正をするために、大日本帝国憲法や帝国
議会、政党政治、労働組合が導入されたのだと思います。 
立憲主義というものが、あまりに日本の制度と違ったものだから、
その形式をまねするだけで精一杯だったのでしょう。その背後にあ
る聖書の「神との契約」、「律法」の精神には到底思い及ばなかっ
たのでしょうね。 
ご指摘の通り、立憲主義の思想的な根の深さを理解せずに、表面的
な現象面のみ(たとえば自衛隊と第九条のみ)を合理化しようとす
る発想には、いまだに咀嚼・消化不十分なまま表面的な立憲政治を
行って何の疑問も持たない脳天気さを感じます。 

2.古い日本を美化する教科書問題などで日本がアジアの中での孤
立を深めてゆく、、、。 

(得丸) 
憲法上の天皇の地位や、アジア諸国の歴史教科書問題については、
ちょっと見方が違います。 

私は、人々の心が安らかになるのであれば、現人神がいてもかまわ
ないと思っています。日本の元首(外交上一番大切な晩餐会の主催
者)は、くるくる変わる首相よりも天皇のほうがふさわしいのでは
ないかとも思っています。いいのか悪いのかわかりませんが、私は
近代主義者を卒業してしまったようです。 

また、日本の歴史教科書問題は、アジア諸国の対日感情よりも、各
国それぞれの内政を安定させるためのスケープゴートではないかと
も思います。たとえば、「日帝36年」の植民地支配を糾弾する人
々に対しては、「38度線はいつ引かれたのですか」という彼らの
国の歴史について問いかけ、ともに悩むことはできないでしょうか。 

反日感情をあおられることによって、自らの現代史から目をそらさ
れている彼らこそ、この教科書問題の被害者のような気がします。
彼らの21世紀のために真摯に悩むという態度をとることによって、
この問題は解決できることを期待します。 

3.ともあれ日本人がもっと平等ということを議論するようになるま
で、、、。 

(得丸) 
自由・平等・博愛は、フランス革命のときのスローガンであったと
いうことですが、ではフランスがそれらのコトバの意味づけをきち
んと行って、コトバ通りの国になっているかというと疑問です。
この点で、私は「平等」という原理をそのまま素直に受け入れる気
持ちにはなれません。 

そもそも「平等」という概念(コトバ)の意味づけを行わないこと
には、コトバは無意味な状態のままにおかれ、意味づけする個人個
人の思い込みだけを個人の意識活動や行動の範囲内で反映するに過
ぎないことになります。 

ただ平等というコトバはさておいて、「誰もが権力を行使し、法を
作れる社会状況」を実現することの大切さには、100%賛同しま
す。杉田敦「権力」の結論もそれだったと思います。 

社会は「ある」ものではなく、「つくりだす」ものです。そのため
には、一人一人の構成員がどれだけ社会建設に献身するかというこ
とが問われます。このような「参加」、あるいは「万人による権力
行使や立法活動」がないかぎり、どんな美しいコトバも、美しいだ
けの「絵に描いたもち」で終ります。どんな美しい憲法条文も、美
しいだけのコトバの羅列にすぎません。 

楽観的材料をどこにも見つけられないという現状認識についても、
まったく同感です。 
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日本国憲法の意味づけ               得丸久文   
コトバは、ひとりひとりの人間によって意味づけが行われなければ
、意味がない。 
日本国憲法だって、同じだ。 
1億2500万人の日本人の中で、いったい何人が意識して日本国
憲法の意味づけを行ってきたのだろうか。 
きわめて疑問だ。 

日本国憲法判例の中に、「朝日訴訟」というのがあったと記憶する。
憲法第25条に「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」と書いて
あるのだから、それを保障してくれと国を相手どって起こした訴訟だ
ったと記憶する。これに対して裁判所は、それは「プログラム規定」
であって、その精神は尊重するが、国が現実に生活を保障する責任は
ないというものだった。 
結論に依存はないものの、「プログラム規定」などという「精神はそ
うだが、現実は違う」といった説明をしてもらっても、困る。憲法条
文の意味づけができないではないか。 

大江健三郎の小説「新しい人よ眼ざめよ」の中にFさんという人が登場
する。沖縄の平和運動家で、不運にも火事で亡くなる。 
このFさんにとって、日本国憲法とは、神社のお守り札に等しい。 
「この憲法パンフを胸に入れさせておいてですね、困ったことがあれ
ば、障害児がハイといってこれを出す。それだけで、すべて解決。
そういう社会をですね、実現しなければ、だめですよ。それをめざ
さないかぎりは、みな敗北主義ですよ」 

東京裁判史観にたてば、日本国憲法は敗戦のシンボルである。 
もう一度原爆をお見舞いされたくなければ、盲目的にこの憲法を護る
しかないという意味づけが暗黙のうちに「戦後民主主義者」たちに
よって行われているということになるのだろう。 
おそらく、この無意識の意味づけが、一番現実に近いのではないだ
ろうか。 

現行の日本国憲法の意味づけを明らかにし、それに必要な修正を行
わなかぎり、憲法を改正することはできないし、改正してはいけな
い。 

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