508.国際問題の視点



> 件名:突然メールしてすみません。  
> 
> 突然メールをしてしまってすみません。私は神奈川の大学生です。
> 大学では国際関係学科を専攻しています。今年で4年生になり、
> 卒業論文を書かなくてはいけない時期になってしまいました。
> 私は卒論でクリントン政権を検証したいと考えてるのですが、いま
> いち何をやったら良いか分かりません。
> クリントン政権とはどのような時代だったのでしょうか?
> なにか参考に出来る資料はないでしょうか?
> それから私はクリントンが無事に大統領任務を終えることが出来た
> のはヒラリーの貢献が多大にあると思うんですが、そのことをうま
> く加味して国際関係のことを検証できる良いアプローチはないでし
> ょうか。
> 
> もし良いアドバイスがあったら教えてください。初めてなのにこん
> なメールを書いてすみません。いつもいろんな記事を楽しく読ませ
> て頂いており、自分の意見を交えながら、キレの良い文章にまとめ
> てらっしゃることに毎回感嘆しております。
> なにか良いアドバイスがあったらどうか教えてください。
> よろしくお願いします。
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> (Fのコメント)
> クリントン政権以前と以後では、大きく違うことがあります。
> 1つは、民主党政権であり、国際戦略が違う。冷戦後の政治であっ
> たこと。それと、日本に対する対応が違うこと。
> 2つには、産業政策の立案が、国家総動員でやったことです。この
> 産業政策により、米国は日本を抜かした。
> 
> しかし、この面では、柳太郎さん、YSさんのアイデアはどうです
> か??
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柳太郎
質問自体が難しいですね。
「クリントン政権とはどんな時代か」という抽象的な質問に対して
、正直どの観点から答えたらよいのか分かりません。アメリカの国
内問題を扱いたいのか、対外関係を扱いたいのかも分かりません。
きっとFさんのような答え方が限界ではないでしょうか。

さらに、「クリントン政権におけるヒラリーの役割と国際関係」と
なると、私がお答えできる範囲を超えています。この点に関しては
残念ながら分かりません。
国際関係上、ジェンダー問題を取り扱う「世界女性会議」で影響力
のあった女性のだんなが不倫していたのですから、そこからヒラリ
ーに関してどのように説得力のある議論を持ってこられるかは難し
いですね。さらに、クリントンに対するヒラリーの影響力を扱った
論文などがどれだけ見つかるかは疑問です。(いくらかはあるので
しょうが、どれだけ学術的に認められるものなのかは分かりません
。)

卒論でヒラリーを扱いたいという理由はなんなのでしょうね?(ジ
ェンダー的観点でしょうか?)そこに明確な論点がない限り、あま
りヒラリーにこだわっても意味はないような気がします。
柳太郎
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得丸
北朝鮮の歴史については、ヤルタの亡霊でもちょっと書いたけど、
北朝鮮を「何をするかわからない変な国」と考えるのか、それとも、
「まったく自主性のないソ連の植民地にされて、住民は行動や思
想の自由もなく、満足に食べるものもない囚人以下の生活を強い
られて、冷戦終結後はアメリカの国際戦略の小道具のモンスター
と化した国」とみるのか、この違いは大きくないでしょうか。

そもそも韓国の人も38度線の由来について、十分な知識をもって
いないのではないでしょうか。そこに問題があると思います。

http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/kak1/120501.htm
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38度線を境とする敵対心           得丸久文
 かつて国際戦略BBSで、歴史はすべて概念である。概念と概念を 
戦わせて、歴史の水掛け論は止めたいという趣旨の書き込みをし 
た。ではどうすれば水掛け論でなくなるのか、どうすれば相手の 
主張する歴史とかみ合った議論になるのか、あるいは自分の主張 
と相手の問題認識がかみ合うのか、考えていたが、なかなか答え 
はでなかった。 

おととい、韓国の宇宙技術者や天文学者たちとのパーティーの席 
で、「38度線はいつ引かれたのか知っているかい」という質問 
を投げかけたところ、4人が4人とも知らなかった。それぞれ違 
ったように答えたので、おそらく韓国人は38度線の由来を全く 
教えられていないのではないだろうか。 

朝鮮半島の分断に心を痛める者として、南北朝鮮の和平あるいは 
統一を望ましいと思う人間として、私は韓国人に言いたい。日本 
の歴史教科書について文句をたれる前に、自分たちの歴史認識を 
見直すといいのではないだろうかと。 

私は昨年3月、インチョン(仁川)にあるマッカーサー上陸記念 
館を訪問して、そこに展示されているものが、南北統一を想起さ 
せるためではなく、逆に「南に生まれてよかったね、北でなくて 
よかったね」と、南北朝鮮の意識の分断を目論んでいるように感 
じた。 

1950年6月に始まった朝鮮戦争は、1950年9月の仁川上陸作戦が成 
功したにもかかわらず、その後3年近くも戦争が続き、結局38 
度線で休戦した。これはまるで38度線を確固たるものにするた 
めに戦争をしたみたいではないかと思ったのだった。 

いっしょに上陸記念館を訪問した同僚に、そのことを告げると、 
38度線は朝鮮戦争の前からあったというではないか。その後、 
インターネットで検索して、38度線がヤルタ会談で決定された 
ことを知った。萩原遼の「朝鮮戦争」を読んで、朝鮮戦争が1950 
年に始まったのは、その前の年に中国の国共内戦が終って、人民 
開放軍兵士が余ったために、その兵力の一部を北朝鮮に回して戦 
争に備えたのだということも学んだ。 

この他に何か証拠となるものはないだろうかと思って、だいぶ前 
に読んだ藤原てい著「流れる星は生きている」(中公文庫版)を 
読み返す。 

あったあった、38度線が、終戦後すぐに引かれたこと、その国 
境線はソ連兵によって守られていたことが証言されている。この 
本の初版は昭和24年5月。藤原ていさんの記憶はまだ生々しかった 
であろうと思われる。まだ朝鮮戦争は始まる前のことだ。 


「藤原さん、駄目です。今日から汽車は平壌以南へは行きません」 
運命の日八月某日(確かではないが24日だと思う)、かくて38 
度線を境として交通は遮断された。私たちは茫然と旅支度のまま 
立ちすくんでしまった。夫はくちびるをかみしめたまま東の空を 
にらみつけて長い間動かなかった。(pp36-37, 昭和20年8月) 


道は一本道に真直ぐ続いていて前方に何か白いものが横に長く 
見えていた。 
 近づいてみると、その白いものこそ、一年余りの間私たちの 
心を離れたことのない、38度線の木戸であった。 
「あ! 38度線が見えた!」 
 二人は立ち止って顔を見合わせた。胸の動悸がはげしくて物 
はいえない。眼と眼で真直ぐ行こうといい合って、その白く横 
に長い線に向ってつき進んだ。 
 白く横に長い交通遮断棒で道は切断されていた。これが38 
度線の木戸であるかとよく見れば、その傍に駐屯所があって、 
数名のソ連兵が銃を持って出て来た。私たちははったとそこに 
立ち止った。 
 ソ連兵は早口に何か話し合っていたが、やがて出て来た一人 
のソ連兵によってがらがらと音を立ててウィンチが巻かれ、遮 
断棒は静かに頭を持ち上げていった。 
<通れ>そういう風に顎で合図している。 
 ああ、この時の感激。 
 二度と再びないであろう感謝。 
 何か言いながら私たちはこの棒の下をくぐった。一人の兵隊 
が子供たちの頭を一人ずつ撫でてくれた。(pp223-224、昭和 
21年8月) 

 38度線が、米ソによって引かれたということを自覚すること 
で、朝鮮半島に住む二つの国民間の敵対心は薄まらないだろうか。 


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