497−1.マクロ・ヒストリー



マクロ・ヒストリーの可能性            得丸久文

歴史というものは、その時々の政権がその国の住人に植え付けたい 
と願っている概念を、公教育によって植え付けるものである。 

だから、ある国では、その隣の国の過去の犯罪的行為あるいは侵略 
行為について、執拗に教え込む。それはおそらく第一義的には、隣 
国への憎しみを通じて、現政権への支持を求める行為である。 

国民同士が、めったに出会うことのなかった時代には、そんなこと 
も通用していた。 

しかし、通信と交通の発達した21世紀の社会では、そのようにして 
内部矛盾を外部の脅威や外への反感によってごまかすという行為は 
通用しなくなる。 

歴史教科書問題は、実は日本の歴史教育と日本人の隣国認識だけの 
問題ではなく、隣国の歴史教育と隣国の対日感情形成の問題を同時 
にはらんでいる。掘り下げれば掘り下げるほどに、こまごまとした 
問題が出てくる。だから、あまり深く掘り下げないほうがいいので 
はないだろうかと思う。 

(あらゆる歴史は概念である。概念にとらわれることを止めよう。 
概念にとらわれず、あるがままの世界を見て、その世界の平和と相 
互理解のためにできることを探そう) 

僕の仕事は、人工衛星による地球観測技術のシステム解析である。 
この立場から、まったく別のことを提案してみたい。 

人工衛星ひまわりやNOAAで、東アジア地域を見てみると、衛星から 
見た地球には国境線がないことがわかる。 

近代国民国家が成立するまでは、この地域の国境はあってなきがご 
としであったと思う。中国や朝鮮半島から、日本に自由に人が到来 
していたであろう。実際に、対馬海流は、有史以来、日本海の西南 
から北東に流れ、人々の往来を支援していたはずである。 

この地域に国境がないことをまず確認しよう。そして、国ごとでは 
なく、この地域に住む人に共通の歴史教科書を作るということを考 
えてみよう。 

そうすると、いったいどんな歴史教科書ができるだろう。どのよう 
な視点にたって歴史教科書を作らなければならないのだろう。おそ 
らく、そこでは、現存するすべての歴史教科書問題の存在意味がな 
くなり、まったく違った歴史観に基づいた歴史がかかれなくてはな 
らないだろう。 

このような立場を、マクロ・ヒストリーというそうだ。残念ながら 
およそあらゆる歴史学は国民国家という枠組みを前提として構築さ 
れているので、マクロ・ヒストリーの参考文献はあまり存在しない。 
また、マクロ・ヒストリアンと呼べる歴史学者もほとんどいない。 

宮崎市定「アジア史概説」は、実はそのような歴史観に基づいて書 
かれた歴史書なのである。熟読玩味していただきたい。  
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Re:マクロ・ヒストリー               ヒロ 
> 近代国民国家が成立するまでは、この地域の国境はあってなきがご 
> としであったと思う。中国や朝鮮半島から、日本に自由に人が到来 
> していたであろう。実際に、対馬海流は、有史以来、日本海の西南 
> から北東に流れ、人々の往来を支援していたはずである。 

国境なんてずっ〜となかったことですね。 
いつのまにか芸術にも国境みたいなものが、知らぬ間に入り込んで
いますし、たしかに、今や芸術が本来もつ自由な精神や魂などは、
きれいさっぱり見えなくなりました。 

それに、歴史をねじ曲げたり操れると思うのは、自分の首を絞める
ような行為でしょう。 
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Re:マクロ・ヒストリー           得丸久文
>それに、歴史をねじ曲げたり操れると思うのは、自分の首を絞め
>るような行為でしょう。 

みんな謙虚になるべきです。 
歴史なんて、その現場に立ち会った人はほとんどいないわけですか
ら、何が事実で何が事実でないなんてことを断言できる人はいない
はずなのに、それぞれ都合のいいことをどこかで聞きかじってきて
、自分が正しい、自分の聞いてきた話は正しい歴史であると主張し
ている。 

そんな不確かな情報をもとに喧嘩しているのが歴史論争だと思いま
す。 

自分が見たこと、自分が聞いたこと、自分がしたこと、そこにある
もの、この4つのみが真実であると「悪童日記」に書かれています。 
この真実のルールに基づいて、議論し、発言し、思考しなければな
らないと思います。 


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