496−1.ルドンとシューマン



ー1ー 歴史の中味よりも、歴史家の史観
先週の水曜日、銀座にある日本美術家聯盟を訪ねたときに、たまた
ま池辺一郎「ルドン 夢の生涯」(読売新聞社、1977年)を見つけて
、気になったのでお借りして、昨日読み上げた。なかなか面白かっ
た。

他の人がルドンについて書いた評伝も我が家の書棚には立っている
のだが、いまひとつ読む気がしなかった。どうしてこの本は気に入
ったのだろうか。
おそらく著者の池辺さんが、ルドンの気持ちにできるだけ近づこう
として努力をされ、それにある程度成功しておられるからではなか
ろうか。

書棚から取り出してパラパラめくっただけで、なんとなくそれを感
じたから、僕はこの本を読むことにしたのだ。
歴史は、正確にいえば歴史叙述は、すべて「誰かに語られる」もの
として存在する。語られる中味としての歴史的人物や歴史的事件も
大切だが、誰がどのような思いでもって、その歴史的人物や事件の
再現を試みたのかという動機や思い入れのほうが、もっとずっと大
切ではないだろうか。

これは歴史を語るときに、しばしば忘れられていることだと思う。

ちなみに吉田松陰についての評伝も数々あれど、私が一番面白いと
思ったのは、関根悦郎著「吉田松陰」(昭和12年、昭和54年に復刻版
が出ている)である。左翼の無産者新聞発行人だった関根氏が逮捕
され獄中生活の後に出した本であり、関根氏自身が安政の大獄を生
きたことも影響しているのだろうが、とにかく松陰の気持ちが手に
取るように伝わってくるのだ。

この本は、行きつけの都立大学駅近くの麗文堂という古本屋で、僕
に買われるのを待っていた。たった一度の出会いだったが、中味を
確かめることもなく、何かに導かれるかのように僕はこの本を求め
たのだった。

本でも、人でも、出会いがあったら、それを逃さないようにしない
といけない。本なら、即買う。それができないなら、中を少しでも
ひもといてみて、必要な情報を控える。人なら、最低限の礼儀を示
して、関係性を樹立すること。

ー2ー 歴史の意味づけ論
歴史を語るときには、何が語られているかよりも、誰がなぜその歴
史を語っているのか、どのような史観に基づいて語っているかのほ
うが大事である。

これはつまり「歴史の意味づけ」の大切さということだ。(最近出会
った「コトバの意味づけ論」にハマっているのかもしれないが、む
しろ「意味づけ論」は、文化や歴史やその他もろもろに応用すべき
と僕は思うのだ)

気をつけなければならないのは、我々は誰かの仲介的解釈なく歴史
的事実そのものに触れることはできないということだ。

時間は一方向に流れる。けっして後戻りできない。だから、一度起
きた歴史的事件は再現することが不可能だ。起きてしまったことは
、交通事故の現場検証よろしく史料や状況証拠から検証し再現する
ほかない。交通事故の現場検証でも、結局は状況証拠しか提示でき
ないことがおおい。(加害者や被害者はすでにこの世にいない場合も
あるのだ)

だから我々の目の前にある歴史は、すべて誰かが、一次史料なり二
次史料なりを集めて、再構成したものだ。もしかすると、思い入れ
や、推量や、あるいは故意の事実わい曲や事実誤認も含まれている
かもしれない。

子供のころに伝言ゲームをやったことはおありだろうか。どんなに
一生懸命に伝言を受けたままを次の人に伝えようとしても、ゲーム
の終わりには最初の文とまったく違った文が伝えられていることが
ある。歴史もそんなものかもしれない。

そのような場合に、個々の歴史家がひとつひとつ事実を集める手法
、それを再構成する技量がとても大切になる。事実に近い歴史を提
示するのが、歴史家の手腕であり、そのような腕を磨いた者だけが
歴史家と呼ぶに値する。

歴史はすべて概念である。しかし、歴史家の技量(これには史観も含
まれる)によっては、事実に近い歴史となる場合もあれば、事実と
遠い歴史あるいは事実に反する歴史となる場合もある。

歴史は、どのように意味づけられるかが問題なのである。誰が意味
づけたかが問題なのである。このことはもっと強調されてもいい。

ー3ー ルドンとシューマン
本題に戻る。
池辺さんの「ルドン」は面白かった。遅咲きの版画家としてデビュ
ーしたルドンは、ロマン派の伝統を引き継いでいた。おそらくそこ
に僕がルドンに惹かれる原因があるのだろう。

ルドンは、お母さんがアメリカ生まれのクレオールだったのだが、
奥さんもレユニオン群島生まれのクレオールだったんだ。これは知
らなかった。
パリのルドン家では、19世紀の末にカレー料理を客に出していたそ
うだ。

ルドンは、ロベルト・シューマンの音楽が好きだったという。「な
ぜならシューマンは、果樹が実をならすように、全く自然に彼の才
能の結実を提供した作曲家」だったからだという。

ルドン自身も、作品は作るものではなく、生まれるものだと思って
いたらしい。「意識の外で作者自身を驚かすような作用が働いて、
すぐれた作品が生まれる」と信じているそうだ。

この部分も気に入った。僕もロベルト・シューマンの音楽が好きだ。
もう5年以上前だが、ハンガリーを旅したときに、たまたま入った
コンサートでオーボエとピアノによる「3つのロマンス、作品94」
を聞いて、涙が出そうになった。実際に聴衆の中には泣いている人
もいた。

それ以来、シューマンの室内楽曲をよく聞く。ヴァイオリン・ソナ
タ1番作品105、2番作品121、チェロ協奏曲作品129、アダージオと
アレグロ作品70、ファンタジー作品73などなど。今もこの文章を書
きながら、ピアノとヴァイオリンによる「3つのロマンス」を聞い
ている。心にしみいる調べである。

ヨーロッパ人でありながら、近代合理主義や激しく自己主張する近
代芸術にはきっぱりと背を向けて、独自の芸術世界をつくったルド
ンとシューマン。

自分の心が求めた音楽と絵画が、池辺さんの本を読んで実はしっか
り結びついていたことを知ったことが、池辺さんの「ルドン」を読
んで最大の驚きであり収穫であった。

これほど身につまされて芸術家についての本を読んだことはなかっ
た。いい本に出会えたと思う。著者はすでにこの世を去っているか
もしれないが、もしご存命でなければ著者の魂に感謝の気持ちを伝
えたいと思った。
得丸
(2001.04.03)

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